第17話
地平線に日が少しずつ傾く様を見て、ああ随分日が短くなったと、風が冷たい屋上で一人感慨深く息を吐く。もう春まで上着は手放せないなと毛糸で編まれた首巻きに顔を埋めるが、毛羽立った糸が頬をくすぐって直ぐに顔を離した。そろそろマフラーも替え時かも知れない。
(来なかったら、どうしようか)
先日、倉庫からの帰り道、家まで送った小鳥遊に改めて伝えたいことがあると申し出たのは自分だ。このような事態になり巻き込んでしまった最もの責任は俺にあるのだと、過去の友人関係や白鳥との現在の関わり合いを含めて全て腹を開いた後だった。
小鳥遊は俺の話にたまに相槌を打ちながら、けれど特に何かを喋ることもなくずっと耳を傾けていた。そうして、家の前まで着いた時、ならば一日時間が欲しいと返されたのだ。きちんと自分の言葉で伝えたいことがあるから、と。
風が吹きすさぶ屋上。数ヶ月前はここで見事なまでに彼女に拒絶された。あの時はまだ昼間は残暑の面影があったというのに、少し来なかっただけでこんなにもあっという間に季節は移ろってしまっている。
「お待たせしました」
カチャリとドアノブの回る音がして、彼女は悠然と現れた。待ってない、そう返事をして微笑めば嘘だと眉をひそめられる。
「随分早くからいらしてたでしょう。五限終わりに階段を登って行くのを見かけました」
「大した時間じゃない」
本音を言うなら待てなかったのだ。まるで幼い少年のように、今か今かと柵を握りしめてビルに埋もれた地平線を追いかけていた。
日は、着実に短くなっていた。前に二人でここに立った時よりも早い時間に待ち合わせたというのに、その陽光は既に傾いて小鳥遊の端正な顔を紅く照らしている。脱色もしたことのなさそうな黒髪は肩上で切りそろえられ、制服であるチェック柄のスカートは走る風を抱いて膝丈で揺れていた。彼女はゆっくり足を運ぶと隣に立って右手を柵にかける。一昨日会ったばかりだというのに、久しぶりに話すような緊張があった。
小鳥遊、そう彼女を呼んだ声は震えなかっただろうか。汗が滲む手を片方柵に置いて、夕陽が射して金に光る彼女の瞳を正面から覗いた。
「好きだ」
好きなんだ。今もあの時と変わらず。いいや、それ以上に。
一度振られて本当は諦めようとした。今まで自分が抱いてきた大きいだけの矜持が、無様に恋い焦がれることを妨げようとしたのだ。それでも、やっぱり脳裏に浮かぶのはふとした瞬間のあの笑顔で。嘘偽りなんかじゃない、ただ純粋にお互いの話で盛り上がった時の、あの花の咲くような破顔が頭から離れなかった。
ずっと考えていたのだ。どうにか話をしようとして、けれど何を伝えるべきかも分からなかった。また断られたらと思うと足は前に進まなかった。そうしてあれこれ思い悩んでいる内に、あっという間に時間ばかりが過ぎてしまっていた。
だから、ひとつずつ選んで言葉を紡ぐ。今度こそ彼女に、確かに伝わるように。
「俺は周りが思っているように立派じゃない。親に反発して色んな人に迷惑をかけて、最近ようやくそれを理解したような間抜けなんだ」
「……」
「そんな愚鈍な人間だから、迷惑もたくさんかけてしまうけれど。だけど、隣に立って、小鳥遊がどんな景色を見ているのか、感じているのか、知りたいと思う。どうか、これから少しずつで良いんだ。小鳥遊のことを教えてくれないだろうか」
間違えない言い方、なんて正直分からない。そもそもそんなものはないのかも知れない。それでも、どうにか自分の想いを伝えたかった。どうか、彼女に届けたかった。情けなく手は震えていて、視線を合わせるのが恐ろしかった。玉砕したならば、もう未練をもたないと胸に決めていた。
一陣の風がごうっという音と共に耳元を駆け抜けて行く。小鳥遊は瞳を一度大きく揺らすと、堪えるように顔を崩した。
「……違うんです」
それはとても小さな声で、先の風に乗って消えてしまうのではないかと思うほどだった。聞き間違いかと瞬きをすると、もう一度、今度は首を振って小鳥遊は違うのだと呟く。
「先輩は間抜けでも、愚鈍でもない。素敵な方だと思います。駄目なのは私です。薄っぺらでつまらない、周りに当たり障りなくただ生きてきた、私の方なんです」
柵にのせていた手を下ろして、彼女は胸の前に寄せた右手で左手を握りしめた。あまりにも強く力を入れていて、指の端が白くなってしまっていた。
「きっと共にいても飽きられてしまう。だからせめて先輩が私のことを好きであるうちに、私だけの綺麗な思い出にしようとした。せっかく頂いた好意に応えず、ただ自分だけ報われようとした。私は、汚い人間なんです。先輩にとても釣り合いやしない」
泣いては、いかなかった。けれど声を震わして顔を伏せて自身の手を握りしめている姿は、先日倉庫で捕らえられていた姿よりもずっと痛々しかった。ごめんなさいと、口の形だけで呟かれてこちらの胸も苦しくなる。それはあの時の謝罪なのだろうか。それとも、これから歩むべき未来についてなのだろうか。
そもそも彼女は自分のことを好いているかも聞いていないことに気が付く。嫌われているわけではなさそうだが、その明確な言葉ですら貰えていなくて、なんだかとても悲しくなった。
小鳥遊、と名前を呼べば大袈裟に肩を揺らしておそるおそる視線を交えた。真面目な顔をしてもなんだか嘘くさくなる気がして、良い人なんかになれずそっと手を伸ばす。固く握られた小さな手に己のものを重ねてほどく。その手は風にあてられて冷えてしまっていた。
「小鳥遊は、俺のことが嫌いか?」
「そんなこと……!」
「じゃあ、」
冷たくなってしまった指先をこちらに寄せて握る。氷を溶かすようにゆっくりと熱を送って、言葉を探りながら彼女に問いかける。
「小鳥遊は俺のこと、好きか?」
好意は、あるのだと思う。けれどそれが自分か抱いている感情と同様なのかは全く自信がなかった。それでももし同じ気持ちだというのなら。どうかもう一度こちらを向いてくれないだろうか。
小鳥遊は顔を大きく歪めると、幾らか間を空けて、そしてゆっくりと頷いた。顔を隠そうとまた俯いて距離をとろうとするから、その分こちらも近づいて腕を掴む。そうしてまるで初恋のように、ゆっくりと壊れないように抱きしめた。
「良かった」
「……なにが、」
「なら大丈夫だ」
正直、始めのうちは知らなかった面や気付かなかった性格に戸惑うのだろう。もしかしたら価値観の違いにすれ違いやケンカだってするかもしれない。
それでも、小鳥遊は俺の好きな人だから。初めて自分から手を取りたいと思った相手なのだから。どんなに破茶滅茶でお転婆で想像を超えることがあったとしても嫌いになったりなんてしない。どんな小鳥遊だって好きであり続ける。自信があるんだ。
何度だって小鳥遊相手に恋をするって、そう思えるから。なぁ、だから小鳥遊。
「君の隣にいても良いですか」
腕の中で強張っていた身体は諦めたように徐々に弛緩して、小さな頭は肩に預けられた。そして迷うように頷いた重みが伝わって、回した手に力を込める。おずおずと自身の背中にも手が回されれば、これ以上強く締めて潰さないか不安になった。
君の隣にいても良いですか 文月六日 @hadsukimuika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます