第7話
これはただの勘だった。帰りのホームルーム前、裏庭から教室へ戻るために早足で歩いていた時だ。秋の緩やかな陽光は色付く前の青い葉を覗き、足元では木漏れ日が揺れている。穏やかなはずのその空気の中、視界の上でゆらゆらと、複数の不審な影が揺れたのだ。
訝しんで一歩立ち止まれば目と鼻の先、一秒後に歩いていただろう目の前に、雨というには苦しいほどの水が降る。臭い、恐らくトイレ掃除に使った汚水だろう。ご丁寧にこのタイミングまで残しておいたのだろうか。
上を見やればクラスのギャル達がバケツを片手にケラケラと笑っていて、惜しいとか何とか甲高い声で騒いでいる。数日前から始まったこの“お遊び”だが、最早誰がやっているのかなぞ隠す気はないらしい。
(いっそすがすがしいけれど。)
それでも迷惑この上ない状況に右拳を固く握る。体力にはあまり自信ないけれど、今から彼女たちの目の前へ殴りこんでやろうか。強く上を睨め付けて足を一歩踏み出した。ここからニ階まで駆け上がるのは一苦労かも知れないが、後先考えずに手を振りかぶるのは、どんなに胸のすく思いがするだろう。今までの鬱憤は着実に私の内を淀ませていて、端的に言うのなら、そう、爆発寸前だった。毎日毎日飽きもせず、大して関わったことのない同級生を弄るとはなんという狼藉か。暇なのか。暇人なのか。
頭の中は止まらない罵倒で忙しい。わずかに残る理性が更に踏み出そうとする左足を止めてはいたが、それも時間の問題だった。もういいじゃない、悪い私が耳元で囁く。そうだ私は随分と耐え忍んだ。だって全ては彼女たちが悪いのだ。私は微塵も悪くない。そんな腫れ上がった頭で振り返った正面には、射抜くような鋭い視線を持った一人の女生徒が立っていた。まさか後ろにいるとは思わず面を喰らい、ほんの少しだけ目が醒める。絹のように真っ直ぐの、金に染めた長い髪を揺らして彼女、篠山さんは口を開いた。
「どこ行くの。」
「上のご友人の元へ。」
「…そんなことしなくて良い。」
女性の割には低めの、澄んだ声が投げられる。
「あんたたちが降りてきなよ。小鳥遊に文句があるんでしょ。」
ぎくりと肩を揺らして上階の、こちらを覗いていた三つの頭は中へと隠れていった。まるで何かの小動物のようだと思う。臆病で影でこそこそと動いて、どうせなら、少しでも動物のような可愛さがあれば良いのに。
しかしながら、とんとん変わるこの状況に私は動揺を隠せなかった。正直言って付いていけてない。目の前には彼女たちのリーダー格である篠山さんが腕を組んで立っていて、苛だたしげに足の爪先で地面を叩いている。怒っていると体全体で表現していて、もし見知らぬ人が通ったら訳も分からず萎縮してしまうような、そんな雰囲気だ。
その後ろからは先ほど私に水を被せようとした三人組がおそるおそる(本当に怯えている。まるでこの世の終わりかのようだ)建物から足を伸ばそうとしているところで、けれどなかなかこちらには出てこない。多分、先の篠山さんに気後れして二の足を踏んでいるのだろう。焦れた篠山さんが一度足を大きく地面に下ろして催促し、ようやくこちらまで顔を見せた。友人、というよりはまるで運動部の先輩後輩だ。
「で?どういう了見であんたら小鳥遊にちょっかいだしてんの。」
私と三人組の間に立ち、交互に顔を見て言う。突き刺すような視線に促され、その三人の一番背の高い人(残念だが名前なんて覚えていない)がぼそぼそと何かを喋るも、大きな声で、と一喝されていた。大会前の野球部員みたいだ。
「だって、小鳥遊…最近調子乗ってんじゃん。時宗くん手駒にしながら、生徒会長まで誘惑して手を出してさ。何様って?」
「そうだよ、マヤだって時宗くん最近付き合い悪いって言ってたじゃん。小鳥遊と仲良くなってからだって。マヤのが仲良かったのに!」
「小鳥遊少し頭冷やした方が良いねってなって。だから、アタシたちマヤのために…!」
一人が話し始めれば心強いらしい。ぺちゃくちゃとかぶせ気味に勢いよく弁明し始めて、百舌だってもっと心地よく歌うだろう。耳障りなその声に眉を寄せる。それになんと言ったか、私が悠木くんを手駒にしている?一体全体、何を見ていたらそうなるのか。先輩にだって、誘惑だなんてそんな恐れ多いことできるはずない。お金を積まれて頼まれたって無理だ。頭を冷やすべきは誰なのか、一度考え直した方が良いと思う。うん、やっぱり一発かまそう。今度は明瞭な理性と共に拳に力を入れる。
止まらない戯言の切れ間を探して、けれど篠山さんの口が開く方が早かった。
「だから?」
「え…?」
「だから何なの。」
「いや、だから、アタシたちマヤのために…、」
「はぁ?そもそも頼んでねーし。さっきから並べてる理屈も意味分かんねぇわ。もういいや、あんたらウザいから二度と私に話しかけんな。」
美人は怒ると怖いというけれど、確かに彼女の声には凄味があった。さっきまであんなに楽しそうに声をあげていた三人はぴたりと黙り俯いた。消えてよ、そう篠山さんが通告すれば、ぐっと何かを堪えて走り去っていく。泣いていたのだろうか、嗚咽も聞こえた気がした。同情なんてなかったが、随分とあっさりしたものだとも思う。
二人きりで残されて、居心地の悪さに唾を飲む。篠山さん本人はというと、涼しい顔で三人の去っていた先を見ていた。やっぱり思うところはあるのだろうか。
「あの、ありがとうございます。」
「…あんたの為じゃないし。」
少し迷って声をかければ、彼女は気まずそうに金の髪を手櫛で整えながら言った。
「むしろごめんだわ。時宗から聞いてやっと何が起こってるのか理解したんだよ。私バカだから、今まであいつらコソコソしてんなぁ位にしか思ってなかった。」
「私、勘違いしていました。てっきり篠山さんが主導でやられているのかと。」
「そりゃそう思うよね。だからこそ、あいつらマジムカつく。」
てか何で敬語なの。そう言われて、何となくと返せばすごいしかめ面をされた。表情豊かな人である。
「そういうのウザいからやめて。クラスメイトじゃん、ちゃんと話したことないけど。」
「まあ…。」
「それに、あんたと話してみたかったから。」
聞きたいこともあるんだと、そうこちらをひたりと見据える大きな瞳は揺れていた。握った拳は震えていて、校舎脇を駆け抜ける風が、彼女の背中を後押しする。
「あんたが、時宗の想い人なんでしょ。」
そうだと頷くのはおこがましい気がして、違うとも首を振ることもできずにただ見つめ返した。聡い彼女は沈黙を正しく肯定と受け取って、強張っていた顔を穏やかに崩した。
一体何を抱え込んでいたのだろう。彼女の友人(正確には元友人なのかも知れない)達のように八つ当たりをすることもせず、今この場で手をあげることもせず、そしてどうやらこの調子では言葉で殴ることもするわけではないようだ。
ただひたむきに胸の奥に思いを溜め込んで、その綺麗な感情は丁寧に仕舞われている。このままではいつか澱んでしまうのだろうか。私のように。
「どうして、時宗じゃダメなの。」
どうかこの醜い感情を壊してくれと言わんばかりに、彼女は一歩私に詰め寄った。
「どうして応えてあげないの。あんた生徒会長の告白断ったんでしょ?もういいじゃん、それともやっぱり、兄弟弄んで楽しんでんの?ねえ、なんで、」
ぐっと堪えて、けれど彼女は激情を止めることは出来なかった。黒目がちの瞳を一度きらりと揺らすと滑らかな頬を伝って涙は落ちる。
「なんで、私じゃダメなの…?」
一度決壊すればもう止められなかった。流れて、流れて、それは彼女自身の想いに違いなかった。私も誰かにぶつけることが出来たのならこんな風に抉れることはなかったのだろうか。きらきらと夕日に反射して、足元に泉をつくっていく様はまるで絵のように美しかった。
「好きなの、大好きなのよ、」
そこには全力で青春を持て余している二人がいた。私も、彼女と同じだ。
ただ、ただ一人を想って、全力で恋をしている。
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