第8話
生徒会室に隣接している専用の倉庫は、それなりの広さと居心地の良さを誇っている。裏庭に面した壁には横並びに窓が付いており、全て開ければ秋の風が吹き抜け清々しい。
自身が生徒会長に就任したばかりの頃は倉庫という名に相応しい程物に溢れていたが、断捨離宜しく保管物の一部を廃棄させてもらえば、なんとも広い一つの教室が現れたのだった。
そのまま倉庫として使ってもよかったのだが、そこは肩書を存分に活用させてもらい、今では安物のソファと茶器がある素敵な仮眠室へと変貌を遂げ活用をしている。生徒会役員の数少ない特権と言ってもいい。
そのギリギリ足を伸ばせない硬いソファの上で俺は、何をするでもなくただ転がっていた。他の多くの三年生は既に帰宅を果たしている頃だろうか。この時期は受験生に考慮して、授業は午前中に終わる。
(俺も帰らなきゃなぁ…。)
そろそろ下級生も授業を終える頃だろう。思ったよりも居座ってしまったと時計を見上げた。そう言えば、この部屋ではいつも思わずの長居をしていたなぁと思う。それも今週で終わりなのだと思うと感慨深かった。
残された課題であった生徒会長としての引き継ぎ書は先ほど完成し、あとは後任の時宗に手渡すだけだ。もちろん直接口頭でのやり取りも重ねなければならないだろうが、自分の弟だ、そこまで心配はしていない。あいつはやる気がないのがたまに傷だが、基本的には優秀な奴なのだ。
うんと肩を伸ばし立ち上がる。窓を閉める際に金木犀の香りがして、もうそんな時期なのかと頬を綻ばせた。きっと紅葉ももうすぐなのだろう。
「はぁ?………、…意味分かんねぇわ。……、…。」
しかしどうしてだろう。穏やかな気候とは程遠い、裏庭の前では空気を破る不穏な声が響いていた。最後まで厄介事かと階下を覗いて顔が青ざめる。
そこに居たのは小鳥遊と、時宗から要注意だと報告を受けていた篠山という名の女生徒だった。あとは、友人だろうか、用が済んだのだろう別の三人の女子はその場を走り去って行く。残されるは小鳥遊と件の女生徒で、その声は聞こえないが互いの表情は固く、決して楽しそうに会話をしているようには見えない。
(遂に直接的な行動に出たのか。)
会長を退任するにあたり一番の気がかりは小鳥遊の件だった。気付くのが遅かったのは己の力不足ではあるが、それでも自身の融通が効くうちに解決しておきたかったのだ。振られたとはいえ、彼女が想い人であることには変わりはなかった。
しかしまさか正面から対峙するとは。今までの行動からは予想外で、少し考え駆け足で生徒会室を後にする。自分が間に入って事態が良くなるとは考え難いが、けれどこのまま見ぬふりをして放っておくわけにもいかない。
気を急いて階段を駆け下りる。ここは三階だが急げばそこまで時間はかかるまい。段差を飛び越え踊り場にほぼ落ちるように着地する。そして更に階下へ足を伸ばしたところで逆に登って来た生徒に思いきりぶつかった。
いくらなんでも我を見失いすぎだろう、自責の念が過ぎる。怪我はなさそうで安心したが、自身の落ち度に違いはない。相手を確認する間も無くかぶりを振って謝るが、よくよく見ればそこにいたのはつい先ほどまで視界にいた女生徒だった。
その当人はというと少し驚いた顔で俺に指をさす。
「あ、いた。」
先輩後輩という立場は明確で、仮にも自分は生徒会長としてそれなりに全校生徒に名を知られているはずだ。ぶつかってしまったとはいえ無礼甚だしく、こんな風に不躾に猫でも見つけたように言われる理由はない。
よって正当に気分を損ねながら何かと尋ねれば、探していたのだと返される。それは分かるから用事を聞いているというのに。
「センパイに聞きたいことがあったんです、美咲のことについて。」
「小鳥遊?」
さっき倉庫の窓から見下ろした光景を思い出す。二人でいったい何を話していたのか。目の前の彼女は誰が見ても振り返るほど真っ赤に目を腫らして、それを隠そうともせずに真っすぐこちらを見据えてくる。
いじめの現場ではなかったのかと、推しはかる。それを知ってか知らずか篠山というその女子は、変わらず意思の強そうな瞳を逸らさずにいた。むしろその鋭い視線はこちらを睨みつけているのかと見間違うほどだ。
「あの子のこと、誤解してるんだろうなって思ったから。」
「誤解?」
「センパイは美咲の何を知っていますか?」
何を、と言われて息を飲んだ。その視線が痛くて不本意ながら目を逸らす。
随分と短絡的に会話を進められて戸惑いもあった。なぜそんな事を聞かれなければならないのだろう。だって小鳥遊は良家のお嬢様で、いつも俺の話を聞いてくれて、笑顔が可愛くて、それで、それで?
「すごく可愛い。」
「あんたアホですか…。」
そういう事聞いてんじゃないって分かるでしょ。つり目気味の目尻をこれでもかと下げて言われた。そんなのは分かってる。分かっているけれども。
「まぁ、もう良いや。センパイ、思ってたよりも人良さそうだし。時宗とはまた全然感じ違うけど。」
「どういう意味だ。」
「私も雅親センパイと同じ、高浦中出身なんですよ。色んな噂も聞いてます。この学校の生徒会長やるなんてびっくりでしたけど。」
そこまで聞いて一歩前に出た。少し威圧をかけたつもりだったのだが、彼女は飄々とした顔で、誰にも言いませんよ、なんてのたまってくれた。なるほど、度胸はあるようだ。
「余計なお世話かもしれませんが、美咲、まだ未練たらたらですよ。…センパイと同じで。ただ、もう少しあの子のことを理解してやって欲しいんです。センパイの思うような思慮深い子じゃないですから。必死に外堀を固めて、内側にこもっているだけ。」
でもってガード固いけど、懐入ると甘くて。めっちゃ甘々なんですよ。そう言う篠山の顔は困ったようだが穏やかだった。その甘々の小鳥遊を思い出しているのだろう。
ふと自分の知っている小鳥遊の顔を思い浮かべる。いつも笑顔で優しくて、けれど確かに、いわゆる欠点だとか非の打ち所を見せてくれている様子はなかった。結局自分が見ていたのは上部だけだったのかと悔しく思いつつ、そこまでの信頼を得られてなかったのかと悲しくもなる。それで、嫌いになることなんてあり得ないのに。
そしてそんな姿も見合わせたのかと、羨ましい気持ちで目の前に立つ女生徒を見やった。
「お前ら友達だったのか。」
見た目には真逆の二人だ。先に見たとき、いじめなのかと疑ったくらいには。純粋な疑問を彼女は敏感に感じ取ったらしい。気まずそうに笑いながら、さっき打ち解けたばかりだという。
「なりたてほやほやです。」
「弱みを握っているとか、そういうのではないんだな。」
「多分、どっちかっていうと美咲が握る側ですよ。」
それじゃあ、私あの子と帰るんで。雑な会釈をして去っていく後姿を見送る。まるで嵐のような奴だ。
先ほど言われた言葉をどう飲み込むか思案しながら生徒会室に戻る。椅子に座って窓の向こうを見れば、ちょうど二人が去っていくところだった。
こちらを振り向いてくれれば良いのに。その願いが届いたのだろうか、小鳥遊が振り返って真っすぐ生徒会室を見上げる。目が合った、気がした。
その時、漸く、なのかも知れない。彼女はいつだって自分を見ていてくれていたのだと悟った。会長として気張っていた自分も、時宗の兄として背伸びしていた自分も、たまに弱音を吐いていた自分も。全て見て受け入れて、それで尚好きなのだとそう思っていてくれたのだろう。そしてそれは恐らく今も。
一方で自分はどうだろうか。この椅子に座って報告を待っているだけで、そうだ、さっきの女生徒の言う通り。小鳥遊の上辺だけで実際の彼女を何も知らない。あんなに話す機会があったのに、あんなに語り掛けてくれていたのに、その内を知る事を恐れていたのは己だったのだ。
『あなたは私の事なんて何にも知りやしない。』
あの時の絞り出すような声を思い出す。今なら分かる、それは何よりを的を射ていた。
今度はこちらから走り出さねばならない。突き放したくせに迷子になって、そうして溺れている彼女を救い出すのは自分なのだと伝えるために。
今までこんな風に感情に振り回される事なんてなかった。小鳥遊が笑うから、世界はこんなにも色鮮やかだと思ったのだ。
どうかもう一度だけ聞いて欲しい。君に会えて嬉しいと、今なら間違わずに伝えられる気がするから。
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