第5話
下校を急かす鐘が鳴る。
生徒会室の壁にかかる時計を見ると帰宅を予定していた時間を大幅に過ぎていて、些か集中しすぎたとため息を吐いた。その割には作業はあまり進んでおらず、先日からぐるぐると頭を巡る悩みを思い返しては撃沈する。
『私はあなたのことが大嫌いです。』
あの時の小鳥遊の声が響く。彼女は、自身が今にも泣きそうな顔をしていたことに気付いていたのだろうか。口元には笑みを浮かべて、その声は感情を排したように冷たかった。けれど、何かを堪えた瞳だけが俺の口を噤ませて、屋上から去る彼女の背中を追うばかりにさせてしまった。
今の冷えた頭なら分かる。きっとあの時追いかけるべきだった。そう思い至らなかったのは、正直舞い上がっていた当時の自分にある。
根拠のない、とまでは言わない。雰囲気や普段のやり取りからの推測ではあったが、どこか小鳥遊も俺のことを好いていてくれているのではと感じていたのだ。そして小鳥遊も受け入れるような甘言を口にしてくれた為に、彼女の本当の心中を察するには少し惚けていたのだと思う。
(いや…、言い訳ばかりだな。)
結局はこのザマなのだ。小鳥遊を見かけたら柱の陰に隠れたり、家に訪れても鉢合わせないよう時宗にこまめに状況報告をさせたり。挨拶だってままならない。全く自分らしくないと思う。
まるで、こんなの初恋だ。と、ここまで考えて首を振った。今まで何人もの女性と付き合ってきた自分が、まさか、ありえない。
きっと疲れているのだ。とにかくこの一週間は早かった。さっさと帰って寝てしまおう。そうカバンを手に取るのを見計らったように、扉を叩く音が聞こえた。思わず吐いた舌打ちは、多分聞かれてないと思う。そう願う。
「どうぞ。」
応えの後に入ってきたのは、同じクラスの女生徒だった。ふわりと巻いた髪を揺らして漫然と笑みを浮かべている。
「白鳥か。」
「そっけないのね。前みたいに麗子って名前で呼んでくれれば良いのに。」
そのクラスメイト、白鳥麗子は笑みを深くして言った。こちらが帰ろうとしていることは見て分かるだろう。彼女自身もカバンを肩から下げていて、後は靴を履き替えるだけといった様子だった。
早く帰りたい、という意思は通じたのだろうか。忙しいところ悪いんだけど、と前置きをして白鳥は早々に口を開く。
「一応、現生徒会長さんに伝えておこうと思って。なんか二年生の間で不穏な動きがありそうな感じだったから。」
「不穏?」
「うーん、端的に言ったらイジメかなぁ?おそらく対象の子、雅親くんに告白した子だよ。」
そこまで聞いた時点で既に頭は痛かった。学内で小鳥遊との告白が噂になっていることは知っていた。しかし耳に届いた時には“小鳥遊が俺に告白した”ということになっていて、否定するにも気付けば自身の声が届かぬ所まで拡がってしまっていたのだ。
それが、まさかこんな事態にまでなっているとは。
今すぐに頭を抱えてうずくまりたい。そんな俺に気付いてるのかどうなのか、それでねー、と間延びした声で白鳥は続けた。
「よく分からないんだけど、小鳥遊さん?の記名がある教科書とか、私物っぽいのが最近裏庭に捨てられてたりとかして。あとは、さっき女の子達が下駄箱に変なの入れてたの見ちゃったんだよね。」
それで、もしまだ雅親くんがこの部屋に残ってればと思って戻ってきたんだけど。
首を少し傾げて話すのは彼女の癖だ。周りの男友達はこれが堪らないと言っていたが、どうも俺には媚びているようにしか見えず苦手だった。
しかし今回ばかりは教えて貰わなければ気付けなかった。素直にありがとうと礼を告げれば、彼女もどういたしましてと笑って返した。
さて、これからの動きを考えなければならない。まずは時宗に確認をするべきだろう。少しでも早く問いつめねば。白鳥に帰る意思を示せば、一緒に帰るかと聞かれた。考えるまでもなく首を振る。なんせ家の方向は真逆だ。
「白鳥。悪いんだが、もし今後また動きがあるようなら教えて貰っても良いか。あと…、告白したのは彼女じゃなくて俺なんだ。それも、噂を正せるなら正したい。」
「注文多いね。まぁ、良いけど。」
それにしたって。少し呆れたように白鳥は眉を下げた。
「今度の子は随分と大切にしてるみたいね。私の時とは大違い。」
返事はせずに、生徒会室の鍵を閉める。ガチャリと鳴った音は人のいない廊下に大きく響いて、本日何度目かも分からないため息をかき消してくれたようだった。
白鳥も応えを望んだわけではないようで、特別追求はして来なかった。鼻歌交じりに玄関への階段を下る。キュッキュッとなる上履きのゴムが耳障りで、窓が全て閉められているからだろう、いやに埃っぽい匂いが鼻につく。
…分かっている。これは行き場のない苛立ちだ。居心地の悪さの。
会話は全く生まれる気配はなかったが、こちらから声を投げかける気も起きなかった。なんでこんな気持ちにならなければと、普段横暴だと時宗に言われる自分のことは棚に上げて思う。数ヶ月前、白鳥と付き合っていた時はどのように過ごしていただろうか。思い返そうとして、短い交際期間に何も見出せず諦めた。自分が悪い、とは思っている。なんせ楽しませようともせず、楽しもうともせず、そのどちらの努力を怠っていたのだから。
(けど、小鳥遊に対しては違ったんだ。)
二人で過ごした時間が心地良かった。特別共通の趣味などがあったわけではなかったが、それでも隣にいるというその空間が好きだった。これからも多くの時間を互いに紡いでいきたいと、初めて心からそう思ったのだ。
そんな彼女が悩んでいる。しかも自分のせいで。
由々しき事態だ。生徒会長としての任期はもうすぐ終わってしまうが、何としても解決しなければならない。問題の起きてしまった今、たとえ小鳥遊が俺のことを恨んでいようともだ。
「…転ぶよ?」
「え。」
言われて初めて気が付いた。考えごとが過ぎたらしい。
階段を永遠と降りているつもりになっていたが、いつの間にか視界はひらけそこは校舎玄関のある一階だった。下ろすつもりで出した足の、踏み位置を間違え体勢を崩す。が、意地でも転びたくはなかった。弱みをこいつに見せるのは癪だったのだ。無理矢理に体を捻ってどうにか姿勢を整えれば、相変わらずだなぁ、なんてくすくすと笑われた。
「ホント、白鳥はいつも笑っているな。」
「そうかな。雅親くんといると飽きないからじゃない。」
きれいに磨かれた革靴を下駄箱から取り出して言う。鈍く夕焼けを反射して、靴も、その瞳も、柔く揺れているように見えた。ふっと背の低い彼女が俺を見上げて、顔を寄せる。薄紅に塗られた唇がゆっくりと動いた。
「ねぇ、私達やり直せたり…しないの?」
俺の袖を引いて、じぃと視線を外さずに言った。顔だけは本当に整ってると思う。見た目にも気をつかって、薄く見える化粧に、櫛で整えられた頭髪。スカートも短すぎず長過ぎず。男心を適度にくすぐるような、そんな計算尽くされた見た目だ。
小鳥遊とは、違う。
「冗談でもあり得ないな。」
「ふーん、残念。」
全く残念じゃなさそうに、白鳥はくすりと意地悪く笑った。どこからが揶揄なのだろう、本当にこの女はたちが悪いのだ。
彼女のように逞しく生きていたら、あともう一歩を踏み出せたのだろうか。悩み動けぬ自分はらしくなく、それが尚のこと己を雁字搦めにしているのだった。
今はまだ何をすれば良いかも分からない。もやもやと胸のつかえを除くことも叶わない。ただあの時と同じ夕日は、ゆっくりと建物の向こうへ沈んでいった。
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