第4話

 最終下校時間を告げる鐘が校舎に響き渡った。思っていたより遅くなってしまったことに焦りを感じ、図書館からの階段を駆け足で降りる。

 一週間後には定期試験を控えている。日頃から教科書を開いていない訳ではないのだが、少しでも勉強を怠たりその結果が散々であった場合が大変なのだ。祖母からなんと言われるかは察するも簡単で、きっと暫く遊びに出ることは叶うまい。遠方にいる父母へも連絡がいくだろう。もしかしたら呼び戻されて、また短期間での転校を余儀なくされてしまうかも知れない。それだけは、どうやっても避けなければ。

 かと言って自室には誘惑がいっぱい転がっていて、真面目に机に向かう自信がないのも現実だった。残念ながら自分は天才とは言い難い。ならば試験手前の追い込み時に、気を散らすことのできない学習環境が必要なのである。


 (でも今日は結構頑張ったし、帰ったら少しくらい羽を伸ばしても良いよね。)


 急く気持ちを抑えて『小鳥遊』と札の付いた下駄箱の扉を開ける。と同時、視界に飛び込んできた物は、見るも信じたくない有様だった。

 革靴の上で横たわっているそれは、かつて電子辞書だった物だ。しかし今や砕けた鉄の何かとなり果て、最後に見た時とは打って変わって原型を留めない姿をしていた。高校入学と同時に母に買ってもらったそれを、昨日の午後からどうも見つからないと探していたのだ。まさかとは思っていたけど、こんな形での再会になるなんて。かわいそうに、辞書に罪はないのに。

 粉々となってしまった銀色の破片を手に取って摘む。そのたびに、怒りは沸々とこみ上げた。あまり周りのことは気にしない性ではあるけれど、この仕打ちはさすがに受け入れ難い。教科書を隠したり、革靴に画鋲を入れたり、そんなことはどうでも良い(あまり良くはない。比較したらの話だ)けれど、物を大事に使いなさいとは幼い頃に学ばなかったのだろうか。使えなくなるまで壊してしまって、これではあまりにも酷い。酷すぎる。

 一体誰がこんな事を。そう考えて首を振った。


 実はこの迷惑行為、もとい“素敵な異星人間交流”は数日前から始まっていた。もっと詳しく言うのなら、私が悠木くんのお兄さん、悠木雅親先輩の告白をお断りした翌日から。

 そして相手に全く心当たりがないわけではないのだ。悠木くんと仲が良いことを元々良くは思われてないとは知っていたけれど。今回の件で、どうやらその鬱憤は爆発したらしい。

 文句があるのなら直接言いに来れば良いのに。何が不満か、何をして欲しいのか、それもせずにただやたらとちょっかいばかり掛けてくるその行動を、理解するには難しかった。

 数々の愚行を思い出して、溜飲が上がって、深呼吸してゆっくり下げる。長い長い息を吐いて、革靴を取るべく再び手を伸ばした。


 (もう良い。とにかくさっさと帰ろう。)


 今日は家に帰ったら録り溜めていた録画を見ようと心に決めていたのだ。ネットで見たレビューに揺り動かされ、そのアニメを昼間からずっと見たくて仕様がなかった。

 ペットボトルを入れていたコンビニ袋に電子辞書を優しく入れる。もうここまで砕けてしまったら修理の仕様はないだろう。残念だけれど、帰宅した後にはゴミ箱へと送ってやらなければならない。

 しまい終えた袋をかばんに入れ、下に置いた革靴に足を食わす。そしてトントンとつま先を叩いたのと、突如耳に届いた聞き慣れた声に私の体は跳ね上がったのは、もうほとんど同時だった。反射的に下駄箱の影に身を隠し、気付かれないようにそっと顔を出した。慎重にゆっくりと目線だけで声の主を追う。

 その人は思い描いた通りの、変わらない姿のままそこに立っていた。

 清潔感のある黒髪に、切れ長の大き目。少し気難しそうな表情は、けれど上に立つ者としてしかるべく雰囲気を醸し出し、より彼の精悍な顔立ちを引き立てている。歩くその様ですら正した背中が凛々しく。爽やかではつらつとした、意志の強さを感じるその姿。間違えるはずがない。だって、ひとときだって忘れることは叶わなかった。


 (悠木、先輩…。)


 校舎玄関から校門へ、帰路へと今足を伸ばしているのは悠木雅親先輩その人だった。生徒会の帰りだろうか。何を話しているかまでは分からなかったが、姿だけでも見れて嬉しい。

 そう素直に思えなかったのは、隣に立つ女性も視界に入ってしまったからだ。

 人形のような、とは例えてもあまり今までしっくりくることはなかったが。それはきっと、彼女のような人のことを言うのだろう。緩くふわりと巻かれた髪は羽のようで、細く華奢な指が先輩の袖を引く。その陶磁器のようなまろい頬は艶やかで、長い睫毛を携えた大きな目は夕陽を捉えて優しい色をたたえていた。

 美人だ。誰が見ても間違うことなく。

 先輩にお断りを入れてからまだ数日。それでも当たり前のように彼の隣には人が、女性の影がある。けれど考えてみれば当然のことなのだ。学園全ての人が注目する悠木兄弟の、兄。周りが放っておく筈がない。ましてや、あんな映画の世界から飛び出して来たような綺麗な女性。町を歩けば「お似合いですね」なんて、芸能人カップルのような二人で。


 校門に向かって笑いながら歩く、その後ろ姿が恋しかった。手を繋いでない方が不思議な、とても親しげな様を見て、棚影に隠れている自分がより惨めに思える。

 あの日の、先輩からの好意を拒絶したという決断は無意味だったのかも知れない、とは当日のうちに既に考えたことだった。私の事なんて結局すぐに忘れてしまうのだろう。きっと先輩から告白したのだって、一瞬の気の迷いだったのだと近い未来に笑い話にされてしまって。

 たとえ、そうだったのだとしても。


 (無駄な足掻きだったのだとしても。)


 それでもどうか、少しだけでも思い出に残ってはくれないだろうか。ただただ埋もれていくばかりではなくて、せめてたまに苦い思い出として振り返るくらいには、彼の世界に傷跡を残せていないだろうか。

 醜く汚い願いだった。どうしてあの時意地を張ってしまったのか。そんな後悔が背中に押し寄せる。たったひとつ頷くだけで良かったのだ。それだけで良かったのに、変な虚勢を張ってしまった所為でもう些細な挨拶だって躊躇うようになってしまった。

 馬鹿だ。

 本当に、なんて馬鹿な自分なのだ。


 (…先輩、)


 些細な会話が懐かしかった。悠木くんの家で先輩に会って、くだらない話をして。廊下で見かけて、手を振って。また会いましょう、なんて笑いあって。そんな当たり前のことが恋しかった。当たり前が、幸せだった。少し考えれば分かる事だった。分かっていた筈の、事だった。

 覚悟を決めていた、と思っていたのはどうやら上部だけだったようだ。心の方はグダグダと、淀んで濁って酷い様を見せていた。

 会いたい、声を掛けたい、あの人に、触れたい。けれど、もうきっと二度と呼びかけることすら叶わない。そんな資格は私にはない。

 伸ばせない右手を左手で握る。グッと捕まえて誰にも悟られないように。胸の前で強く押さえて白くなるのも厭わなかった。

 先輩、先輩と音に出さず口の中で叫んだ。ぽろぽろと涙が止まらないのは悔しいからではなかった。

 ただ、あの日々が恋しくて、悲しかった。悲しくて、切なくて、止まらなかった。




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