落ち着きを取り戻す

「お断りだ。僕は骨董品店や楽器屋の人間じゃない。そういう人間に正式な依頼を立てればいい。大体、これがアカシックレコードだという根拠もない。ただの壊れかけたレコードの可能性だってあるんだぞ」

 グレアムでなければならない理由はないし、解読や鑑定ならその筋の人間に頼んだ方が確実だ。アカシックレコードなどという想像上の代物であるか否かという判断もするにつくだろう。

(何故、諸々の危険を犯してまで父親が友人から預かった物品を持ち出した? そこまでアカシックレコードとやらに固執する理由がわからない)

 だが下手に突っ込めば、耳にしたくない深淵に繋がっていそうだ。

 グレアムは口元の前で指を組んで、レコードとパトリシアを交互に見やる。

 彼女は自分になにをして欲しいのか。話がまったく見えてこない。

 迂闊に受け答えれば仇となる。グレアムは気楽な口調を保ちながら、探り抉るようにパトリシアを見つめた。

「君の依頼の意図がみえない限り、僕も君の依頼に判断を下すことはできない」

 睨み合いが続く。

 階下の騒音や甲高い下卑た笑い声が部屋の中にも響く。互いに呼吸や瞬きすら制止し合い微動ですら許さないような緊迫感が張り巡らされる。

(決闘のときとは違って、なかなか怖い顔ができるじゃないか)

 真顔の睨みというのは迫力に欠けるが長時間眺めていると不気味に思えてくる。

 なにかを逡巡しているのか――目線はグレアムに向けているが意識は別のところにあるようだ。やがてパトリシアが深く息を吐き、瞬きを繰り返したところで無言の攻防は終結した。

「……もし、本物のアカシックレコードなら知りたいことがあるの。本当にそれだけよ。報酬はちゃんと支払うし、アカシックレコードでないならそれで別に構わないわ。まあ……あなたにはあんまり期待はしていないけど」

 からかうような口調がグレアムを誘う。

 だがグレアムは不思議そうに首を傾げて、それから頷いた。

「期待していないなら最初からここには来ていないだろう。いいよ。引き受けようじゃないか。僕なら問題なく証明できるだろうからね」

「……つくづく可愛げのない男」

 パトリシアは目を細めて吐き捨てると、温くなってきた紅茶を一気に煽って飲み干した。


◆       ◆       ◆


 とにかく――揉め事の多い一日が終わった。

 揉め事があるのは仕方のないことだ。様々な環境の中で生きてきた人間が、それぞれの価値観をもってして動く世の中だ。歯車の噛み合わせ通りに事が進むわけがない。

 利害の衝突。認識の齟齬。一方的な感情の捌け口。

 ましてや、価値観や心情は簡単に動かせない。当人ですらその扱いがままならないこともある。

 特に今のような、急激な技術改革に対して適応を求められている世の中では……とてつもない数の摩擦があちこちで起こっても仕方がない。その度に軋轢による問題を解決しようと悩み、考え、答えを出す。解決の末の変化はやがて新たな諍いを生む。その繰り返しで人間の社会というものは発展してきた。

 だからこそ必要悪は存在すべきだ、という意見もある。

「最悪だ……」

 アレクシスは呻きながら、乱れたままのオーブンベッドに転がった。

 すぐさまキッチンの方にいたグレアムから「そこは僕のベッドだぞ!」という声が飛んできたが、アレクシスは無視して寝返りを打った。グレアムが視界に入らないように、キッチンに背を向けて体を丸める。ついでに目を閉じてしまえば完全に自分の世界だ。

 グレアムが留守の間はオーブンベッドで眠ることにしているが、そもそも……寮の部屋のこのオーブンベッドはアレクシスのものである。

 今夜は久々にグレアムが帰ってきているが、今はなにやらキッチンテーブルを占拠して黒い円盤と遊んでいる。就寝時以外くらい使わせてもらってもいいだろう。

 揉め事が必要になる場合もあるかもしれない。

 けれども、一度でも巻き込まれる側になれば誰もそんな声をあげられなくなるはずだ。誰でも窮地に立たされるのは御免だし、危険に晒され、白い目を向けられるのはいい気分ではない。まして実際に被害を受けたとなればそれまでの主張から目を背け、口を噤み、そんな意見があったことすらなかったことにする。

(どうして教授は消えたんだ……)

 あの状況は、そうとしか思えない。けして幻ではない。アレクシスは実際にエメット教授に研究室に来るようにと指示されたのだ。その場面は多くの学生や外部生が目撃しており証明もしてくれた。

 だが……問題のエメット教授やアラスターは未だに所在が確認できていない。あちらかの連絡もないまま、アレクシスの目撃した事件は保留にされていた。今のところ、アレクシスの話を裏付ける証拠はエメット教授から呼び出されたところまでで、それ以降は猜疑の目を向けられている。それどころかエメット教授になにをしたのかと言及までされる始末だ。

 エメット教授の脈は確かになかった。血に動揺していたとはいえ、アレクシスも医学生の端くれだ。計り方にミスはなかった。

 あのとき、エメット教授は死んでいた。アレクシスは少なくともそう判断している。

 しかし、エメット教授と介抱していたはずのアラスターは揃って姿を消した。

 アラスターがエメット教授の死体を持ち去ったのか?

 それとも、アレクシスの想像通りエメット教授は蘇ったのか?

 どちらにせよ……。

(年寄り連中の生贄にでもされた気分だ……)

 アレクシスは溜息をつくと、こっそりとグレアムの方を盗み見た。

 グレアムはまだ、円盤と遊んでいる。と、いうのも、円盤の中央に開いた穴に指を通し、ひたすらくるくると回しているのだ。バランスを取るのがよほど難しいのか、「よっ!」「ほほっ!」「はあっ!」と、声を漏らしている。

(……あの馬鹿は、なにをやってるんだ?)

 もしかしたら、アレクシスのそういった突っ込みを待っているのかもしれないが、今夜はそんな気分になれない。

 このことをグレアムに話してみようか――とも思ったが、アレクシスのは小さく眉間に皺を寄せて首を振った。今はやはり止めておくべきだ。

 音を立てないようにゆっくりと元の位置に戻って、完全に寝る体勢をとる。

「ああっ!」

 そんなグレアムの声を最後に、アレクシスは眠りに就いた。

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