殴り合う

 この発言には流石のグレアムも唖然とした。

「…………君が教えるとしたら――そうだな。木登りか? かけっこか? それとも決闘の申し込み方か?」

「あのね。こう見えてもボーディングスクールでは成績優秀だったのよ」

 クッションを抱えながら唇を尖らせて反撃するパトリシア。

「ということはフィニッシングスクールではそうでもなかったということだろう?」

「……うまくやっていたし、評価は悪くなかったわ」

 顔を半分ほどクッションに埋めて、もごもごと呟いた。

「ただ、私があんまり好きじゃなかったっていうだけのことよ」

「あんまり好きじゃないねえ……」

「礼節も教養も、もちろん社交術だって大事だとは思うけど……でもそれが人間を形作るすべてじゃないわ。なのに、あの学校での課題ができないとなると人格の罵倒と否定をされるのよ。まるであそこが人生の集大成だといわんばかりにね。あそこでは友人は一人もできなかったわ――みんなまるで兵士よ。生徒も先生も全部が敵。戦いのテクニックを学ぶための場だった。もう二度と戻りたくないし、居座りたくもないわ」

「貴族の生活は嫌だと?」

 グレアムの問いかけに、パトリシアは間を開けて「そうね」と頷いた。

「人の顔色を覗いながら生活するのは御免よ。なにかもっと……自分に合った生き方があると思うの。まだそれは、わからないけど……」

「――だが君の生き方は決まっている」

 グレアムも斜めに傾いた一人掛けソファに腰を落ち着けて言った。

 オットマンにも足をかけ、だらしなく背もたれに頭をのせ、ぐずぐずに溶けた座り方だ。裾の上がったズボンからはソックスガーターがちらりと覗き、パトリシアは目を背けた。

 グレアムは座り心地のいい体勢を模索してもぞもぞと動きながら、構わずに続ける。

「自分の家の階級よりも上の人間と結婚して。財産を守って。地位を保って。子供を作って。できるだけ生き永らえて。それが君の仕事であり人生だ。フィニッシングスクールではその営みを滞りなくおこなうための訓練場だ。なにも間違ってはいないさ」

「な――」

 パトリシアは絶句した。

 反論を口にしようとしているものの言いあぐねて噤んでいる。眉間に皺を寄せてようやく絞り出したのは、どこか落胆したような呻きだった。

 彼女もわかってはいるのだ。

 最初から与えられたものの大きさが。その恵みが。その重さが。そして未だにその恩恵を得続けていることに。

 たとえば、彼女は今まで食うに困る経験をしたことがないだろう。雨風や気温の変化に苦しみながら眠る経験も、衣服がすり切れていく心配も、生活のための労働力として見られたことも――おそらくは一度もないはずだ。

 ロサカニナにおける貴族階級は人口のおよそ三パーセントほどだといわれている。生活に困らない中流階級までの割合は二十パーセントほど。つまりそれ以外の八十パーセントの人間は逼迫した生活を送っているということになる。自身の寝食にまったく不安を感じずに生活できるというのはそれだけで財産でもあった。

 安定した生活の中の束縛――だが、不安定な生活の中に自由があるとは限らない。むしろ、安定した生活のための不自由など些細なものなのかもしれない。否、八十パーセント側の人間はこぞってパトリシアの生活を望むはずだ。

 無論、パトリシアも知識として現状を知っているのだろうが……実際の生活の基盤となっている人間とでは感覚からして異なる。現実と想像の間には大きな隔たりがある。

 ただの我儘。それも、漠然として目的もない妄言。

「そうやって時間も財産も浪費して、好き勝手にすることが君に合った生き方だというのなら、断言しよう。それは誰にでも当てはまる願望だと。そんなことをするくらいなら、さっさと寛大な主人と結婚して愛人でも作りたまえ。その方が案外近道かもしれないぞ」

「…………」

「もちろん、君の言う『それが人間のすべてではない』には同意するがね。だからこそ君は人生のレールを外れて奔放にやっているんだろう? あまり褒められたものではないが――ぶっ!」

 まだ言葉を並べていたグレアムの顔面に、タッセルの付いたシャンパンピンクのクッションが命中する。次は立体的なパッチワークのクッション、ビーズが刺繍された艶のある赤いクッション……クッションの雨が降る。

「グレアム! あなた――あんたって人は最低ね!」

「なにが――ぶっ! 最低――ぶふっ! だあっ――! 君! パティ! わざと固いところが当たるように投げているだろう!」

「当たり前でしょ! ……きゃっ!」

 投げ返してくるとは思わなかったのか、隙だらけの顔面にグレアムの投擲したクッションが見事に命中した。しかし泣き言や恨み節を唱えるより先に、パトリシアはより激しい攻撃を仕掛けだした。ソファから降り立ち、クッションを三つほどまとめて握ったまま、グレアムに叩きつける。

 息をつく暇もない猛襲に、グレアムはソファの上で体勢を崩した。体は半分、ソファからずり落ちている。

「こら! 待て! 待ちたまえパティ!」

「その呼び名は止めてって言ってるでしょ! なによ! あんたにだけはまともな意見を言われたくないわよ! 歩く不道徳者!」

「君は僕のことをほとんど知らないだろう! 噂だけで人を判断するのはいかがなものだろう!」

「あんただって私のことをなんにも知らないでしょ!? それをなによ!! 正論で殴ればすべて正しいと思って!! 正論が万人に正当性をもっているなら誰も不幸にならないわよ!」

 今度はグレアムが口を閉ざす番だった。

 スパンコールが、ビーズが、刺繍の糸の玉が、グレアムの皮膚を抉る。

 いつの間にかグレアムは抵抗を止めて攻撃を受け入れていた。クッションを跳ね退けるような動作もみせない。抗うことを諦めたように、ゆっくりと腕を下ろし、目を伏せる。だらりと、不自然にソファから崩れた体勢のまま脱力していった。

 不審に思ったパトリシアが猛撃の手を緩めて顔を覗き込もうとした、そのとき……。

 ノックもなく部屋のドアが勢いよく開けられた。

「スタァーップ!! 待て!! この馬鹿二人組!!」

「ば、馬鹿……?」

「やあヴィッキー。いいところに来てくれて助かったよ」

 しれっとした様子で取り繕うグレアムを一瞥したヴィッキーは、運んできた銀盆をテーブルの上に置き、乱暴にクッションを取り上げた。パトリシアがヴィッキーの声に気を取られて目を離した隙に、グレアムは何事もなかったように気怠い雰囲気を纏い直して立ち上がる。

「ええ、そうね、あと少しで店のクッションから羽が飛び出るところだったわねえ……!いいっ!? 次にクッションで殴り合うなんて馬鹿な真似したら追加料金倍額にして請求するからねっ! ああ、それと、部屋から出るときは私に声をかけてから出てってよ、グレアム!」

「僕になにか用事が……?」

「掛け売り防止に決まってるでしょっ!!」

 ヴィッキーから飛び出る声は、どれも腹で形成されて後頭部から発生しているようだ。空気が揺れ、鼓膜だけではなく体までもを振動させる。そして言葉には自然と迫力が生まれた。今にも顔面になにかが飛んできそうだ。

 威嚇するように二人を睨みつけるとヴィッキーは部屋から出ていく。

 落ち着いた空気と遠くの喧騒が戻ってきた。

 しばらくしてから、他人事のようにグレアムが呟いた。

「……今日はどうしたって、こんなにテンションの高い女性に囲まれるんだ?」

「あんたが元凶でしょ……はあ、まったく……」

 パトリシアは溜息をついた。肩をすくめると、テーブルの上に置かれたランチを見やる。

 ミートパイとほうれん草、マッシュポテト。小さなチーズケーキと紅茶。ミートパイは三分の一のカットではないかと思うほどの大きさだ。チーズケーキはその比率に対して小さいというだけであり、大きさとしては充分なものである。

「では話は食事をしながらでも構わないかな? 僕は腹が減っているんだ」

「……ええ。そうね」

 閑話休題。ひとまず二人は元の席に戻って食事に手をつけることにした。

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