今起きた
睡眠というのは厄介な代物である。
ある程度の時間を割いてやらねば死に至る可能性もあるし……かといって過剰摂取も体に毒だ。
人間に必要な睡眠量はおおよそ七から八時間だという。
つまりおおよそ二十四時間の内の三分の一はこれに占められるということになる。
その間に行われているのは、主に心身の回復と記憶の整理である。夢を見るのは脳内で再構成される断片であり、映像と合致するように繋ぎ合わせて話を作っている。
心地の良さのさじ加減も本人次第だ。
記憶にマイナスイメージが付与されていれば、悪夢へと傾く。
逆もまた然り。
どちらにせよ、現実からの逃避と共に離れ難くなる。
「…………」
時刻は午後一時。
カーテンを通り越した陽光が部屋の闇をぼかす。
オーブン型ベッドの上の膨らみを、明確に浮きださせた。
窓を覆う厚い布地が風もなく揺らめき――
きっかり三十秒後、切迫したベルが部屋を支配する。徐々に音量も増加していき、追い詰められているような緊張感が展開された。
「…………」
いつの間に眠っていたのだろうか。
目を瞑り、体を動かさない。傍から見れば、就眠しているようにしか見えないだろう。
実際には、意識が浮上し、考えることができる。ただ、体の機能が復活していない状態ではある。神経がまだ通っていない。
脳の機能も滞りがないという状態ではないようだ。
意識だけが浮いている。
「…………」
目を開けなければいけない。
自分の状況下を、情報を、得なければならない。
思考の内では命令していても、神経を通う電気信号が伝わらない。
呼吸を何度か繰り返し、耳がぼうん、と開通する音を確かめると、弱々しく肉のシャッターを上げた。
「…………う、うぐ……」
はっきりとしない視界が開いた瞬間、音は最大の見せ場へ急転する。
激しいベルの盛り上がりに合わせて、布団の端から伸びた手が音源である時計を叩いた。
――バン! バン! ……ガン!
……最終的に、止められない騒音に耐えかねて遠くに向かって放り投げられた。そこまでしなければ時報を止められないように改良したのは自分自身の手だったが、あまり意味は成さなかったようだ。
力を振り絞り、本日一番の仕事をした。
満足げに伸びた腕が力なく下りる。
しばらくの間、静寂が続いたが……自分の中での葛藤が終わった頃、緩慢に活動を開始する。
グレアムはたっぷりと時間をかけて体を起こし、ベッドの上で胡坐をかいた。
「くあ……」
大きな欠伸と共に腕を伸ばし、ついでに頭をかく。くせ毛がさらにくるくると巻かれた頭髪が指に絡んだ。ぼんやりとした双眸には、未だにぼんやりとしてどこにも焦点を合わせていないようだったが、やがて、ぐうう……という空腹音が鳴るとはっきりと覚醒した。
「……腹が減ったな」
きょろきょろと辺りを見回す。
なにやら散らかった様子だが普段と変わりない。どうやらアレクシスは既に講義を受けに出かけたようだった。メモをまとめておくノートや寝巻、それに靴下や下着が盛大に散っている。小型の折り畳み式書き物机も開いたままで、珍しく慌てていたらしい。
ふらついた足取りで、グレアムは冷蔵庫を目指す。
その道なりに落ちている物はすべて踏みつけていった。紙類や布類、あるいは書物、食品、歯ブラシ……ただ、アレクシスが脱ぎ散らかした下着だけは踏まないように気を付けて跨いだ。
冷蔵庫の中は空だった。
(むっ……?)
一瞬、現状が理解できずに、冷えた気体に包まれながら首を傾げるグレアム。何度目を凝らしても、そこには空の棚があるだけだった。すぐに食べられそうなものはおろか食材のひとつも入っていない。
(そうか。チーズはもう終わったのか)
落ち着いて冷蔵庫を閉め、今度はパントリーを開ける。
パントリーには臭み消しと防腐を兼ねた草が束になって転がっていた。パンも缶詰も、加工品も入っていない。
次に開けた戸棚にも、ボウルの蓋にも、フライパンの中にも、食事になりそうなものや食材は入っていなかった。見つかったのは黴の生えた肉入りのクラッカーと、異臭を放つ缶詰類、厳重に密封された怪しいクロッシュ……そして調味料と飲み物各種が少々。
どうやら本当に、買い出しに行かなければならない状況に陥ったようだった。
「ははあ……アレクのやつ、僕がいないと本当に駄目だなあ」
顎を撫でながら、グレアムは他人事のように呟いた。
昨日の夜まで下級生の部屋に転がり込んでボードゲームに興じていたグレアムは、自室が極貧状態に陥っていることを今知ったのだ。そして、こんな状況は今回が初めてというわけでもなかった。
アレクシスは生活に無頓着というわけではないのだが、勉強に集中しているときやなにかに熱中しているときには生活を二の次にしやすい。と、いうよりも、自分の元の生活習慣に戻りやすくなる。おそらくそのまま食べられるものは食べ、買い物は最低限のもので済ませたに違いない。いつからこの状態になっていたかによっては、三食を満足にこなしていたのかどうかも怪しいものだ。
真面目というより堅物。そして妙なところで怠惰。
グレアムは食べ物を漁るだけ漁ると、諦めて肩をすくめた。
学食か途中のバーにでも寄っていくか――とクローゼットへ足を向けると、部屋の扉の枠をけたたましく叩く音がグレアムを引き留めた。
壁に叩きつけた時計のせいか、食べ物を探して部屋を荒らしたせいか……とにかく、ノックの主は感情を込めて叩き続けていた。
無視するわけにはいかない。グレアムは盛大に溜息をついて天井を仰ぐと、嫌々扉を開けた。
「あー……問題ない。問題ない。同居人との交渉が決裂しただけだ。奴ときたら定規で殴りつけてくるんだ……僕はそれを避けて、逆に拳に噛みついてやったよ……」
「喧嘩でもしてたの?」
「いやいや、喧嘩じゃなくてあくまでも交渉の決裂――ん?」
聞き覚えのある声に、グレアムはよくよく扉の外を見やった。
そこにいたのは隣の部屋重鎮ではなく……。
「ああ……えっと」
「パトリシア・メイヤーヴェール」
「そうそう、パティ」
「気安く呼ばないでくださる? グレアム・アシュベリーさん」
つんと澄ました顔でパトリシアは腰に手を当てた。
紺色と生成りのストライプのドレスで、変わった二重の袖をしている。ドレスに付いている紺と金のボタンと濃いクリーム色をしたリボンは、髪飾りと揃いのものだ。髪飾りには手編みのレースもあしらわれて、パトリシアの髪を華やかに演出していた。
「パトリシア嬢はどうしてこのような場所に? ここは女性厳禁で部外者厳禁――君のような人が足を運ぶような場所ではないと思うが」
「ええ。貴方に用事があったのよグレアムさん。中に入ってもよろしいかしら?」
「あー……それはどうだろう」
グレアムが難色を示すと、それを幼児の拒絶と受け取ったのか、パトリシアは不快そうに目を細めた。
「女性が訪ねてきたというのに追い返すというの?」
「ろくなもてなしはできない」
「構わないわ。そんなこと、承知の上ですから」
意外にも食いついてくるパトリシアの態度に、グレアムは目を丸くする。
そして、「ふーむ」と唸り声をあげて、頷いた。
「わかった。いいだろう。そこまで言うのであれば、僕は問題ない」
それを許可だと思い、部屋の中に入ろうと足を踏み出すパトリシアをグレアムは再度制止し、立ち塞がる。不審げに睨むパトリシアと目を合わせながらグレアムは囁いた。
「言うのを忘れていたが――僕はまだ部屋着なんだ。下着姿といってもいい。丁度今から着替えをしようと思っていたところなんだよ、なにせ外に出なければなにも食べられない状態でねえ。ところで話は変わるが……僕は全裸になってから服を探し回る癖があるんだ。よくアレクにも注意されるんだがなかなか直らない。よかったら部屋で話を聞きながら、一緒に服を探してくれると大変ありがたいんだが」
「……話は外でするからさっさと着替えてきて!」
「部屋には入らないのか。そうか。では大変申し訳ないが、そこで待っていてくれ」
「早くしなさいよ!」
「了解。お嬢さん」
肩をすくめたグレアムは、素早く室内に引っ込んだ。
シャツとズボンを探そうとクローゼットへ向かう途中、アレクシスの下着と出くわした。まさにその場で脱いだような形で落ちているそれが視界に入ると、グレアムは苦笑して爪先で蹴り飛ばした。
グラッドストーンカラーのシャツに深緑色のタイを絞め、コルセットのトランクフックをきっちりと上まで留める。最後に靴を履き直してブレザーを羽織り、部屋から出た。
しかし、扉を開けた先にパトリシアの姿はない。
左右に首を振って人の姿を確認するが、平日のポッド・ホールの廊下は至って静かだ。人の気配はなく、物音といえば頭上の配管の音だけである。
グレアムは何気なく、幾重にもまとめられた配管の天井を見やった。
そこには……。
――濃いクリーム色のリボン。
――紺と金のボタン。
――手編みのレース。
そして――透明感のある髪の束。
「……君はなにをしてるのかな」
「んー……ああ、終わったの?」
配管の上から、勢いよく振り子のように彼女の頭が降ってくる。
同じ高さにある目と目が合った。
どうやら、天井を埋め尽くすように張り巡らされている配管の上にぶら下がっているらしい。
「なにをどうやってどうして、そんなところを登ったんだ?」
「ここの配管から垂れてる照明のガラスが緩んでいたから直したのよ。どうやってって言われても……普通に手をかけてよじ登っただけ」
「そんなことのためにドレス姿で配管に足をかけたのか……」
「人がいないことは確認したわよ?」
頭が引っ込んだかと思うと、ストライプのドレスをはためかせながら配管の上から飛び降りてきた。そこまで高さはなかったが、それでもアンダースカートやストッキングや下着が垣間見える。さらにドレスの中身とはまったく関係のなさそうな異物がいくつか見えた気がしたが……流石にしげしげと眺めるわけにはいかず、グレアムは溜息をついた。
「ここの照明いいわね。廃棄分があれば貰っていこうかしら」
「……直接持っていくのは止めてくれるとありがたいね。僕はともかく、アレクは悲鳴をあげるから。それではお手を、パティ」
「その呼び方は止めて」
グレアムの差し出す腕に手を取ると、二人は並んでポッド・ホールの廊下を歩いていった。
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