唖然とする

 重みのある扉の向こうには、思っていたよりも手狭な部屋が姿を現した。四方の壁を背の高い書棚が占め、隙間なく書物が詰め込まれている。古い紙とインクの複雑な匂いがアレクシスの胸を満たした。天井には温かい光を散らす小ぶりのシャンデリアが下がっており、さらに上階があるとは思えないほど高さと丸みがあった。

「エメット教授? アレクシス・ストレイスです」

 誘われるようにふらふらと室内に入っていく。床には青い毛の絨毯が敷かれていて、本棚までの床を覆っていた。

 青い道は隣の部屋まで続いているようだった。遮るような扉はなく、アレクシスは流れを辿って部屋の奥へと歩いていった。

「エメット教授?」

 声をかけながら進むも返事はない。

 静寂が耳を突く。緊張で唾液を飲むと、今度は肌が粟立った。

 この部屋全体が、研究室というより書斎に近い使い方をしているらしく、隣の部屋にも巨大な書棚が二つ、部屋を守るように壁に張り付いていた。あまりにも背が高く巨大なためか、レール付きの立派な梯子が備わっている。

 そこに背中を預けるようにして……エメット教授は床に座り込んでいた。

「エメット教――」

 言葉が途中で切れる。

 覗き込むように屈んで、ようやく彼の様子がおかしいことに気が付いたのだ。異様ともいえる……その状態に。

 エメット教授は片手で胸を押さえ、もう片方の腕を投げ出して座り込んでいた。力なく、脱力し切って微動だにしない。胸からは赤い広がりが、じわじわとシャツの上を侵食しており、明らかに出血しているようだった。ふいに、エメット教授の指の隙間から、赤く丸い珠が零れ落ちる。珠はさらに大きく広がる染みの上に溶け込んでいった。

 アレクシスは震えそうな自分の喉を押し止め、まずは脈を取ろうと、投げ出されている腕に触れた。

 体はまだ温かい。その温度にすらびくつきながら、脈動を探ろうと神経を集中させる。

 脈は、なかった。微弱な振動を感じ取ろうと躍起になったが、いくら指を置いても音はしない。

「なんで――そんな――」

 アレクシスが呻くと異変を察知したのか、ようやくアラスターが部屋に飛び込んできた。

「どうしたんだ?」

「ミスター・グラハム! 大変です、教授が――エメット教授が」

「ああ……!」

 アラスターはエメット教授の様子に息を呑んだようだったが、すぐにアレクシスに指示を出す。

「脈は? 脈は取ったかい?」

「はい、でも……脈なしです……」

「体温は?」

「ま、まだあります」

 何度も頷いたアラスターは素早くエメット教授の前で膝を付き、顔を覗き込む。

 それからなにかを決意したように強く唇を引き結んだ後、ゆっくりと口を開いた。「よし……ならまだ蘇生できるかもしれない。僕が処置をする。君は管理局の方に連絡を頼むよ」

「わかりました!」

 言うが早いか、アレクシスは立ち上がり、走りだした。

 アレクシスの行動は早かった。

 扉を開け放ち、駆けだした足を一度も止めることなく、トレント・ホールに隣接する大学管理局の事務室へと飛び込んだ。周囲は奇異なものを見る目でアレクシスを覗っていた。自分でもなにがなんだかわからず、未だに事態を把握してはいないが、アレクシスは掠れた声で叫んだ。

「エメット教授が重体です! 急いで来てください!」

 初めは訝しげな表情を浮かべているだけだった事務員も、アレクシスの剣幕に押され、慌ただしく動き始めた。電話をする者、医師を呼びに出た者、そしてアレクシスと一緒に研究室へ戻ってアラスターの手伝いをしに向かう者――普段は穏やかな事務室は騒然となった。

 トレント・ホールの近くに溜まっていた生徒や研究員たちも、只ならぬ顔で駆け込んでいく異様な雰囲気を察したのか、道を開けてアレクシスたちの動向を覗っていた。

 エメット教授の研究室は扉が閉まっている。

 アレクシスはパンチカードを使って再び扉を開けた。

「ミスター・グラハム! 教授の容体はどうですか!? ミスター・グラハム!」

 扉を開け放つと、すぐに隣の部屋へ駆け込んだ。事務員や呼ばれた医者もアレクシスに続く。

 そこには――誰もいなかった。

 威圧感を与える大きな書棚も、客人を迎えるように置かれた書き物机も、磨かれた医療器具が置かれた診療台も、アレクシスが入ってきたときとなんら変わりない。

 だが書棚にもたれていたエメット教授も、処置をしているはずのアラスターも、忽然と姿を消していた。青い絨毯には汚れのひとつもついていない。

「……教授はどこです?」

 アレクシスが振り返ると、呆れた顔をした事務員が肩をすくめていた。きょろきょろと辺りを見回す医者や、他の研究室から何事かと覗き込んできた顔ぶれと目が合う。

 アレクシスからは絶望めいた呻き声が上がった。

(どこへ、消えたんだ……?)

 事務員の疑問を自身の中で反芻しながら、アレクシスは茫然とその場に立ち尽くしていた。

 よくよく考えてみれば、開けっ放しにしてきたはずの扉がきちんと閉まっていたのだ。つまり、アレクシスが出ていった後、誰かが扉を閉めていったということになる。一番自然な考え方からすると、アラスターがエメット教授を連れて出ていったということだが……。

(まさか――)

 自分の行き着いた妄想に背筋がぞわりと寒気立つ。

(ミスター・グラハムはエメット教授の部下だと言っていた。彼がエメット教授の研究を知っていたのだとしたら……もしかして……)

 ごくりと唾液を嚥下して、緊張を紛らわせる。

(エメット教授は蘇って、この部屋から出ていってしまったんじゃないのか……?)

 誰もいない部屋をもう一度見回す。

 室内は整頓されており機能も書棚の中身も充実している。羽ペンやインクの位置も決められているようにぴたりと定位置に置かれ、汚れは少しも付いていない。研究室特有の空気の澱みもなく清んでいて防音も完璧。まさに理想的な書斎だ。

 だがあまりにも美しすぎて違和感がある。

 まるで――展示品のような。

 人に見せるためだけに設置してある部屋のようで、日常的に使用している部屋とは思えないのだ。ここは誰もが想像する書斎であり、作業場であり、研究室であるが……逆にいえば、死者を甦らせる研究をしているようには見えなかった。

 彼は別の場所に専用の研究室を持っている。

 そんな確信がアレクシスの中にあった。

「……君、まさかエメット教授の部屋に入るために、そんな嘘をついたんじゃないだろうな」

 事務員の詰問で、アレクシスは現実に引き戻された。

 咄嗟に「違う」と前置き、それから慎重に言葉を選ぶ。

「俺はエメット教授からこの部屋のパンチカードを手渡されたんです。授業後に、話があるからと言われて……」

「だが、君がトレント・ホールに入るところは誰も見ていない。もちろん、君が言うミスター・グラハムも入館の申請をしていないようだが?」

「それは……ミスター・グラハムはエメット教授の友人だからですよ。彼はエメット教授の所属番号を使って入ったと言っていました。そして俺のことならトレント・ホールの前に用もなく集まっている学生に聞けばわかるはずです」

「では――君が言う『重体のエメット教授』については誰に聞けばわかるのかな?」

 アレクシスが押し黙ると、事務員は勝ち誇ったような表情を浮かべた。

「目立ちたがるのは大概にしておいた方がいい。次は警察を呼ぶぞ。たとえ学生といえども悪評を立ててふざけるのは許されないからな。特に、エメット教授は今や大学内外でも話題の重要人物だ。憶測や悪ふざけで侮辱していい人間ではないんだぞ。肝に銘じておけ」

 悪意を持った強さで肩を叩くと、事務員はアレクシスに背を向ける。

 後ろからついてきた人間をなんとか追い返しつつ、事務員や医者たちは足早に部屋から出ていった。

「君も早く出るんだ」

 厳しい声に責められるようにアレクシスも渋々と続く。

 扉は重々しい音を立てて、何事もなかったかのように変わらずその場に佇んだ。


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