忍び込む

 それから――およそ三十分後。

(このままじゃ、昼食を食べ損ねる……! さっさと研究室で用事を済まさせてもらおう)

 アレクシスは空かせた腹を抱えて教員研究室のある中央広場へ、身を潜ませるようにして訪れていた。

 元凶はエメット教授からの呼び出しだ。

 彼は『昼食後』と指定したが、昼食など取れる状況ではなくなってしまった。アレクシスがエメット教授に研究室へ呼び出しがかかったという噂は情報端末を通じてあっという間に広まった。生徒の間だけではなく、エメット教授目当てに連日集まっている関係者たちにも、好機として瞬く間に伝わっていったらしい。

 アレクシスが行くところ通るところに、なにやら用事がありそうな顔をした連中が姿を現した。

 一言も話したことのない初見の人間であるはずなのに友人然として親しげに話しかけてきた奴もいたし、無言で後をつけてくる奴もいた。なにも言っていないのに、名刺やバッジのようなものを見せてさりげなく同行してくる奴もいた。

 アレクシスの友人ですら、何人か同伴を申し出てきたが、アレクシスが断るとあっさり身を引いてくれた。だがそれ以外の人間は――ほぼ先に挙げた連中だが――意地でも絶好のチャンスに食らいつこうというのか、躍起になってアレクシスを追い回した。一人に許可を出せば芋蔓式になってしまう。アレクシスは同じ場所に長く留まることを許されなくなった上に、後ろにいるであろう不審人物をまかなければいけなかった。

 逃走の合間、『アレク、便所の窓から逃げちまえよ』『俺が変装しててやろうか?』『むしろお前が変装するか?』『ドレスとブルーマーズならあるぜ!』……と、学生食堂前にいた友人の集団が逃走経路を確保してくれた。女装はしなかったがトイレの窓から逃走し、細い路地や通路ではない道を通り、なんとか人をまいて建物付近までたどり着いた、

(まだ油断はできないな)

 通り過ぎるふりをして、中央広場と教員研究室のある建物――トレント・ホールの様子を盗み見た。

 明らかに誰かを探している様子で周辺に気を配っている学生や、意味もなく道を行ったり来たりする白いローブ姿の男たち。そして、用もないのに入り口付近でたむろする、金と赤と黒のガウンを纏った集団。これは首都にある有名な大学の医学生が着用する正装だ。顎を上向かせて得意げに論争を繰り広げているようだったが、目の玉だけは誰かの登場を今か今かと待ち望んでいるようだった。

(……なんでも怪しく見えてくるな)

 一旦、路地を曲がって足を止めると、肩を落として溜息をついた。

 どうやって中に入るべきか。

 アレクシスは逡巡の後、再び路地の奥へと歩き出した。

 路地を抜けて別の通りへと入り、トレント・ホールの裏側へと向かう。アレクシスの記憶によれば、そこはトイレに面していたはずだ。換気のためにいつでも開いているのは、トレント・ホールの研究室に通う生徒の間では周知されている。

 アレクシスは周りの誰も見ていないことを確認してから、ひと息で自分の頭上にある窓枠に飛びつき、腕力で体を持ち上げた。素早く足をかけてトイレの中へ侵入する。

 運よく、中から侵入を目撃した人間はいなかった。

 最新型のS管型水洗トイレは、昨年大規模な工事を経て設置されたものだ。ずらりと並んだ便器は美しささえ覚えるが糞尿を受け止めるものだけあって臭気もある。アレクシスはそそくさと何食わぬ顔でトイレから退散した。

 建物の突き当たりからは、灰色の長い廊下が緩くカーブを描いて続いている。

 まるでどこかの要塞か潜水艦の内部かのように、壁や床の四面を鉄版が覆い、鉄捻子で留められている。大小様々な配管が天井を這い、ニキシー管の照明が一定の距離を保って配置され、替えどきを迎えた照明はゆっくりとオレンジ色の明滅を繰り返していた。照明の元には丸いアーチを描く鉄製の扉があり、それぞれの部屋が教授の研究室として宛がわれている。

 仄暗い館内に、ジジッ……とグロー放電に違和を感じる音と、カツ、カツ、とアレクシスの踵が鳴る音が沈む。時折、蒸気を使用しているのか、不意をついて管の中を熱気が流れていく振動が床からも伝わってきた。研究室を実験場や書庫として改造している教授も少なくはない。熱や圧を使うことによって建物の気温は上昇しがちだが、不思議とこの鋼鉄の内側は常にひんやりとした冷たさを保っていた。

 パンチカードに記された番号を見て、エメット教授の研究室の前に辿り着くと先客が扉の前に立っていた。

(誰だ……?)

 まるで誰かを待っているように、正規の出入り口がある方面に立っている。

 アレクシスが人影に気付くのとほぼ同時に人影も体を反転させた。

「君、ここの学生さんかな?」

 人影が喋りかけてくる。

「……どちら様ですか」

「エメット教授の友人――いや、同僚――いいや、部下かな。アラスター・グラハムという者だ」

 アレクシスが歩を止めずに近付くと、彼もまた一歩一歩、歩み寄ってきた。

 オレンジの光が彼の顔を横から照らしだす。

 意外に年齢を重ねた深い表情を湛えていて、アレクシスは口をすぼめた。人影から察するに、自分よりもわずかばかり年上の若手の研究者だと思ったのだ。だが目の前にいたのはこの大学の教授と変わらない、苦労の皺を弛ませた男だった。

 よくよく見ると入っているタータンのインバネスコートの襟を直して、アラスターはアレクシスに握手を求めてくる。アレクシスは一瞬遅れたが、差し出された手を力強く握って返した。

「エメット教授に用事があってきたんだが、どうやら留守のようでね。声がけにも反応しないんだ」

「鍵を持っていないんですか? ロビーのところには番号式の鍵があったはずですが」

 エディル大学に所属する教授や学生はそれぞれ所属番号を入力することで入館できるが、外部からの訪問に関しては大学管理局の方に申し出をして入館許可をもらわなければならない。もちろん、その際には入館の目的を問われることになるため、許可が下りた時点で用のある教授室のパンチカードも同時に手渡される手筈になっている。

「あまり口外したくはないんだが……エメット教授から所属番号を聞いていてね。それで入ってきたんだ。ほら、今、エメット教授は話題の人だからなかなか管理局の許可が下りないし、下りたら下りたで他の人に嗅ぎつかれたら面倒だろ? 君もなかなか苦労して中に入ってきたようだし」

「それはわかります。ええ、俺もここに入るには一苦労でした」

 トイレから入ってきたことを見透かすような言葉に、アレクシスは苦笑しながら頷いた。

「それで、エメット教授の番号で入ってきたのはいいんだが、いつもは応答するはずの呼びかけに応えてくれない。私に来るようにと言ってきたのは教授の方なんだが……君、エメット教授のことを知ってる?」

「ええ。実は俺も彼に呼び出されたんですよ。パンチカードを手渡されて、研究室に来いと」

 言いながらアレクシスは内心で首を傾げた。

(呼び出しておいて留守? トイレには誰もいなかったし、誰ともすれ違わなかった……)

 嫌な想像が頭を過って、アレクシスは小さく顔をしかめる。

「とりあえず中に入りましょう。もしかしたら、トラブルに巻き込まれているのかもしれない」

 アラスターも頷いて、パンチカードの挿入口を視線で示した。扉の傍に、紙しか入らないような薄い口と小さな赤いランプが点灯している。

 あまり馴染みのない薄っぺらな口にアレクシスはパンチカードを差し込む。カードを伝って歯車の振動とパンチカードに穴を通しているのがわかった。バベッジ式の鍵は初めてだが、都会ではこれを演算機関や第二の脳と呼ばれる解析機関に転用しているという。

 パンチカード自体、使用するのも触るのもこれが初めてだ。

 アレクシスは緊張がアラスターに知られないように気を遣いながら、ランプが緑色に変わったところでパンチカードから手を離した。

「カード、持っていかないと開けっ放しになるよ」

 アラスターに指摘され、あわててパンチカードを引っこ抜く。

 背後でアラスターの笑う吐息が聞こえた。

 照れを誤魔化しつつ、扉の取っ手を握り、奥へ押し込んだ。

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