アカシックレコードは失われた

放り込まれる

 水曜日。アレクシスは二時限目の講義に出席していた。

 講義名は『医化学』。その名の通り、医療化学の領域の基礎と展開を理解するための医学部の基礎講義だ。医学部生は必須の講義だが、他学部生や他校生の受講も可能である。そのせいかこの講義には常に聴講生や受講生で溢れていた。石造りの講義室の中は息苦しさすら感じる。

 前方の個別の席は満席。ベンチシート式の後方の席にも隙間はない。

 立ち見や階段式になった通路での座り込みが徐々に数を増やしていた。

 医学部の講義が多数行われるオールドカレッジ内の教室の中では広めの方だが、それでもひしめく生徒を収容することはできない。講義開始のベルが廊下から鳴り渡る頃には、物理的に入室できない人間が入り口や講義室の外の壁に寄りかかっていた。

 ベルが鳴り止むと、次第に空の壇上へ視線が集まっていく。

 視線の波に逆らうように、アレクシスは自分の席から辺りを覗うように目を動かした。

(また人が増えているな……)

 医学部の人間は必須講義であるが故の特権がある。すなわち、前方の個別席が彼らの指定席であった。ベンチシートの席を確保するために一時限目の講義の時間から外で待っている生徒に比べるとかなり恵まれた待遇だ。

 アレクシスは背後からの圧迫感から逃れたくて、小さく肩をすくめた。

 一年前の時点では、この講義はそんなに人気のある講義ではなかった。

 個別席ですら空きがあるほどで、生徒の出席率もあまりよくなく、日の当たることのない必須講義だった――サマーホリデーが終わるまでは。

 気付くと壇上には小柄な壮年が立っていた。

 色の薄くなった栗毛の隙間から、威厳と鋭敏さを思わせる鮮やかなピーコックグリーンが覗く。その子供のような小柄な体躯からは想像できないような、低く不気味な声が講義室に響いた。

 びりびりと鼓膜が痙攣し、アレクシスは緊張感に包まれる。

「本日のテーマは真正細菌について語ろうと思う。細菌……微小動物については目覚ましいスピードで研究が進められている。あらゆる環境に存在し、代謝系にならって個体数・生物量共に膨大にして多様。物質循環において非常に重要なものであることは君たちも知っているだろう。それは当然、人間の体内においても例外ではない――」

 耳を傾けながらも羽ペンを走らせ、話の内容を書き留めていく。

 講義の主はモーリス・エメット教授。

 今学期の『医化学』の担当教員。そして――おそらく、学内一の有名人。

 外国の研究所に在籍していた彼が帰国後発表した論文は、医学分野において嵐を引き起こした。医学に興味のない人間も、学徒ではない一般人も、多少湾曲した情報ではあるが、一度は耳にしていた。

 曰く――『人を甦らせる』論文。

 壇上で淡々と言葉を並べるこの男は、死者を甦らせたという噂を背負っていた。

 蘇生について研究している医学者は少なくはない。人間と機械を組み合わせる技術を考案したクライン夫妻。疑似生体ヒューマノイドの作成に成功したトマ・E・リラダン博士。彼らはどれも人体の再生を目標に研究を続けているが、その過程として生み出したものは世の中を変革し、拡大し、定着し、今日の常識へと変えた。

 だが、彼らにしても、日々培われる研究においても……基本となる前提は生体に限定されている。『死者を甦らせることはできない』――現代において、肯定に傾いているその常識を覆すような発表は成されていなかった。死者の蘇らせる方法を示した論文も蘇った死者という実物も、未だに彷徨うことはない。

「――例として、腸内細菌群は食物の消化過程には欠かすことのできない要素だといわれている。だが一部は体内に侵入し増殖し、体の組織を破壊、もしくは毒素を排出する。その後、一定の潜伏期間を経て病気となる。これが君たちもよく知る感染症の流れだ――」

 彼の発表には実験データの提出と読み上げ、そして実験が行われたと聞いている。

 学会に所属している研究者、承認委員会の面々、そして未来の技術への投資と利益のために目星を付けにきた企業家、貴族たちの目の前で、それは確実に実証されたのだ。

 『死者を甦らせることは可能だ』と。

 まだ論文の承認は出ていないが、おそらく、承認委員会で審議している最中なのだろう。

 この末恐ろしいものを、世の中に放ってよいものなのかどうか。

 価値観も倫理観も、常識すらも変わる発表に、まったく危機感を覚えないものなどいないはずだ。事は慎重を要する。承認の判が押されるのはまだまだ先と考えていい。ましてや、その論文がいち受講生にも読めるようになるのは年単位で先の話だ。

「――細菌そのものの発見は遅かったが、研究自体は古代から始まっていた。食品関係において代表的なものはチーズだろう。これは微生物学発展以前から研究が重ねられてきた。人間に対して有益なこの過程を発酵と呼ぶ――」

 チーズ。

 その単語だけで眉間に皺が寄って鼻腔が縦に狭まる。

 ようやっと、あの男が調達してきたチーズを完食したのだ。初夏の頃から秋までかかってしまった。

(そういえば……あの馬鹿は、ちゃんと講義に出席しているんだろうか)

 ふと浮かんだ疑問はすぐさま打ち消される。

 あの男、あの馬鹿――グレアムが、講義への出席を口煩く促した程度で無遅刻無欠席になるのであれば、もうとっくに卒業していることだろう。

 アレクシスは溜息をつくと、講義に没頭しようとエメット教授の話に集中した。

 医学部生以外の生徒はほとんどメモを取っていない。

 筆記具を出している者、録音機械を出している者は多いが、じっと話を聞いて座っているだけだ。

 聴講とはよくいったもので、必須講義の中に組み込まれている者以外はこの講義に興味すら持っていないようだった。彼らの興味はエメット教授の口から零れ落ちるかもしれない論文の欠片だ。ヒントでも論文そのものでもいい。エメット教授に弟子や助手がいないだけに、その恩恵に与ろうとする学者たちは多い。

 現に……この聴衆の中にはおおよそ学生とは思えない装いの輩は幾人も見受けられたし、中にはアレクシスも顔を知っている医者や研究者の姿もあった。

 だが、今のところ、それらしいことをちらりとでも語ったことはない。基礎知識と現代における最先端の発展事項を論じるだけだ。その領域を歩いている学者には退屈極まりない内容であることは間違いない。

 アレクシスにとっては、なかなか触れることのない先端技術や常識に付いていくのに必死だった。わからない用語があっても口を挟むことはできない。後で調べておくためにもメモは欠かせない。と、同時にエメット教授の話を一言も聞き漏らせなかった。

 緊張と集中の時間が続く。

 インクを付け、ペンを走らせ、耳を傾け、ただただ受け身である講義はのんびりと時間が経ち……ようやく終了のベルが鳴った。おかげでアレクシスの頭は溶けたようにぼんやりとしている。

「今日はここまでとする。次回は病原性細菌による感染症と特徴について話す」

 その一言を言い終えるが早いか、エメット教授は一気に人に囲まれた。

 壇上や通路に人が殺到し、囲まれたエメット教授はまともに動けないようで、その場に留まっている。

「質問です!」

「質問!」

「エメット教授!」「エメット教授!」「エメット教授!」

 当然、その質問の内容は講義に関するものではない。

 論文の内容について。実験の詳細について。蘇った死人について。

 ときおり、新聞記者の質問事項のような意地の悪い質問までもがアレクシスの耳にも届く。

 この囲い込みの質疑応答は講義後の恒例と化している。

 エメット教授はその都度、無表情を貫いたまま人の波を掻き分けなければならなかった。無論、講義に参加していた人間の質問に答えたことはない。一時期は研究室にまで殺到していたらしいが、入室許可を制限したおかげで今ではほとんど近寄らない。そのかわり、傍から見ていても恐怖を感じるような集団の輪は大きくなっていった。

 なにも答えないエメット教授に対して、日に日に嫌悪と疑念の目が広がってきているのは、第三者的な立場であるアレクシスにもひしひしと感じるものがあった。

(毎度毎度、同じ質問を繰り返して……諦めが悪いというか、飽きないと言うべきか)

 アレクシスは肩をすくめてペンやインク、メモ紙片なんかを革の物入れにしまってぐるぐると巻いてしまうと、小さくなったそれを斜めがけの鞄の中に放り込んだ。

 エメット教授の講義は必須であるため、たまたまこの時期に受講したが……正直、アレクシスはタイミングを見誤ったと思っていた。もっと早くに講義を受けていればよかったと心底後悔しているほどだ。エメット教授の発表に興味がないわけではないが、そこまで情熱を傾けられるほどのものではない。むしろ――死人が蘇るという事象自体が気分よく受け止められるものではなかった。

 現時点ではまだ自分には無関係。そう割り切っている。

 アレクシスは人の群れから目を背けるように立ち上がり、早々に講義室を後にした。

 すぐ近くの階段を足早に降りていけば喧噪はすぐに遠のく。昼食の時間のせいかロビーに人はまばらだ。

 ようやく、煩わしさと緊張感から解放された。

 アレクシスが思い切り伸びをして欠伸を噛み締めた瞬間、背後から声をかけられた。

「アレクシス・ストレイス」

 低い声――エメット教授だ。振り返ると多くの野次馬を背景に、エメット教授が踊り場から階段を降りてくるところだった。

 まさか、話しかけられるとは思わなかったアレクシスは息を呑み、跳ね上がった鼓動をいさめながら、「はあ」と受け答えた。

「昼食後、私の研究室まで来たまえ。話がある」

「話……ですか」

「これを渡しておく」

 エメット教授はきびきびとした足取りでアレクシスに近付くと、パンチカードを手渡した。最新型のカードリーダーを導入した研究室には、特定のパンチカードがなければ入れなくなってしまった。以前は金属の鍵と錠だったのだが、破壊されて侵入されたり、鍵を偽造して盗難が起こったりと、事件が頻発したために大学は最新鋭のシステムを導入したのだ。

 カードを受け取ったアレクシスが内容を尋ねるより先に、エメット教授は脇をすり抜けて歩み去ってしまった。

 残されたのは困惑と混迷、そしてアレクシスへの好奇の目を持った集団たち。

 エメット教授の異例ともとれる行動に、辺りはちょっとした騒ぎになった。

 それまで誰とも――たとえ講義に対する純然たる疑問を抱いただけの学生であっても――コミュニケーションすら取ろうとしなかったエメット教授が、初めて学生を自分の研究室へ召喚したのだ。ロビーにいた数少ない学生ですら、固まって何事かひそひそ話を始めるし、エメット教授の後ろからついてきていた集団はアレクシスの様子を覗って立ち止まっていたが、やがてひとりふたりと、アレクシスに向かってくる。

(嫌な予感しかしない……囲まれるのは御免だ!)

 アレクシスは自分の勘に従って、彼らが目の前を遮る前に駆け足でオールドカレッジから飛び出した。

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