身に覚えはない
外へ出た途端、熱い空気に包まれた。
足を踏み出すことすら躊躇われるような好天気の下、二人は並んで歩き出す。
公園を遮って駅へ向かおうと砂利を踏んだところで、アレクシスは背後から漂ってくる険悪なものを感じて振り返る。
誰の目から見ても明らかな敵意を振り撒く女性が後ろを歩いていた。
本人は隠れるつもりも隠すつもりもないのか、堂々と路上の真ん中を通っていた。
背筋を伸ばした姿勢で、顔だけがやや俯いている……にも関わらず、目線だけはしっかりと前を向いている。睨みつけて射殺すというより、目をつけた人間を絶対に逃さないという目力での捕縛だ。
まったく動きを見せない目の玉と視線がかち合ってしまい、アレクシスは咄嗟に捻った体を戻した。
歩を速めながら小声でグレアムに尋ねる。
「……君の関係者か?」
「いや。覚えがない」
グレアムは振り返りもせずに即答した。
「どうだかな。信用できん」
「本当に覚えがないんだ」
「記憶から消してしまいたいの間違いじゃないのか? 彼女、相当お怒りのようだ」
「君が恨みを買ったという可能性は微塵も考えないのかな?」
「はは。まさか。恨みを買うような行動は控えているんだ。君と違ってね」
会話が聞こえたのか、淡い黄と緑のスカートをひらつかせながら、女性が大股でアレクシスに近付いてきた。プリントされた花模様が白いレースと一緒に激しく揺れ動く。
透き通るような金色の髪をスカートと同じ色のリボンを揃えて髪に巻き付けている。リボンの所々に散りばめられた琥珀の欠片がきらきらと陽光を反射させ、髪色をより輝かせていた。
二人の前で足を止め、息をつく間も惜しいとばかりに切り出す。
「あなたがグレアム?」
「いや、俺は――」
返事を待たずに、腹の底から轟くような声が響く。
「グレアム・アシュベリー!」
ぶん、と空を切る音が遠くから聞こえたかと思うと、アレクシスの目の前に鈍い振動が走った。
「……くあっ!?」
唐突な衝撃にアレクシスの視界が一瞬だけ眩んだ。
複雑なダンスのステップを踏むように足がもつれかかり、それでもなんとかその場に留まる。顔に叩きつけられたものを目で探すと、猫目石のはまった、緑色の皮手袋が地面に落ちていた。
手袋と女性を交互に見やっていると、焦れた声が飛んできた。
「――決闘よ。決闘を申し込みます」
「決闘?」
「わお。なかなかパンチの強いお嬢さんだ。一体どこでお知り合いになったんだ? アレク」
「ああ――まったく――覚えが――ない!」
「受けないっていうの? とんでもないチキンなのね!」
右手の皮手袋が投擲される直前に、アレクシスは身構えながら慌てて口を開いた。
「だから! 俺はグレアム・アシュベリーじゃない! グレアムはそっちだ!」
「そっち?」
皺と一緒に細くなった女性の鋭い目がアレクシスの隣を捉える。
一歩前に踏み出したブーツの先端は、薄汚れてはいるが金属の光沢は失われていない。威嚇のように先端がグレアムに向いた。
グレアムは降参の意を示して、両手を顔の高さまで上げて後退る。
「……あなたがグレアム・アシュベリーね!」
「待って! 待て!」
女性が前傾姿勢を取ったところでグレアムは大きく制止の声をかけた。
投げられるか否かの瀬戸際のせいか、必死だ。
標的から外されて余裕ができたアレクシスは、珍しく余裕のないグレアムと女性のやりとりを見守る。意外にも女性はグレアムの制止に応じ、ぴたりと型にはまったように皮手袋を放つ寸前の体勢で固まっていた。
「……よーし。そのまま、そのまま。決闘を申し入れる、その前に、僕が決闘を申し入れられる所以を教えてもらいたい……暴力はあまり歓迎しないが、正当性があれば暴力も認められることがある。僕に殴られるだけの理由があれば……あー、もし、あるのだとすれば、だが……僕も喜んで君に頬を差し出そう。どうだ? 少し話してみてくれないか?」
「…………」
逡巡しているのか、女性は黙って険しい表情を保っていた。
目の当たりにしているグレアムは気が気ではないだろう。女性がなにかを発するよりも先に、顔面に熱い一撃が飛んでくるかもしれないのだ。
それから、数秒間、鋭い視線を受け止め続けたグレアムに下されたのは――
「……いいわ」
許しの一言と共に緊迫した体勢が解かれた。
グレアムは肩から息を零していたが、それはひとときの自由だ。
「あなたの悪行を晒してあげるから! 耳の穴を拡張してよく聞くことね! 忘れて済ませようだなんて許さないんだから!」
女性は勢いよく言い切ると、そしてリボンを振り乱しながらアレクシスに向き直る。何故かアレクシスの方も背筋を伸ばし、緊張で顔を固めた。
「……ごめんなさい。人違いとはいえ、関係のないあなたを巻き込んでしまって。本当にごめんなさい。すべてはあの男が悪いの……あなたもそれを聞いて、納得していただけたらいいんだけど……」
「あー……いや、間違いは誰にでもあることだが……彼のことについては、俺もぜひ聞いておきたい。場合によっては介添人を引き受けても構わないし」
「おいおい、アレク! 君はどっちの味方なんだ!?」
「話の内容次第だな。僕は立場的弱者の味方だ」
アレクシスは目を細めながら冷たく言った。
わざとらしい咳払いの後、女性が語りはじめる。
「私はパトリシア・メイヤーヴェール――」
「メイヤーヴェール? サー・ゴドウィン・メイヤーヴェール? 大学奨学金出資者の? 俺の学費の援助者ってことか」
「ええ。確かに、それは私の父。でもその話はどうでもいい。問題は私の父じゃなくて、私の妹のこと……セシルのことよ。セシルはとても優秀でね。首都にあるスタックフォード大学で医学を学んでいるの。女性で大学に行けるって、なかなかないことだっていうのに、セシルはそこらの男子学生よりも真面目に勉学に励んでいるの。しかも外国にある研究所で研究しないかってスカウトまで受けたのよ。それは結局、父が反対したから短期間の研修で終わってしまったけど……外国から戻ってきたセシルの様子が、ここのところおかしいの」
「外国帰りか。なら、頭が船酔いを起こしているんじゃないのか?」
冗談めかしたグレアムだったが、女性――パトリシアに鋭く睨み付けられて体を縮める。それから派手に溜息をついたパトリシアは言葉を続けた。
「原因はわかっているの。『GA』のせい」
「GA?」
「そこのふざけた『グレアム・アシュベリー』のことよ」
視線は再びグレアムに向かう。アレクシスと目が合ったグレアムはなにかを訴えるように首を横に振った。アレクシスは黙って視線をパトリシアに戻すと、何事もなかったように「それで?」と話を促す。
「セシルは大学に入る前からGAと手紙のやりとりをしていたの。セシルの後押しをしてくれたのはいつも彼だった。大学に行くようにと進言したのも、外国の研究所を紹介したのも、すべてGAのおかげ。父を説得する方法も彼が教授してくれたとセシルは言っていたわ。そして研究所の短い研修を終えたセシルへの手紙には、慰めと励まし、そしてプロポーズの言葉と指輪が入っていたの……」
「ん、ちょっと待ってくれ。プロポーズ? 彼女はGAに会ったことがあるのか?」
アレクシスが遮ると、パトリシアは首を傾げて考え込む。
「……さあ。でも彼を語るときに容姿についてはなにも言っていなかったから、多分、会ったことはないと思う。実を言うと、私はね。顔を見てもいない殿方との結婚なんてまっぴらごめんだと思っているの。けれどもセシルは……なんていうのかしら。懐古主義? 昔のしきたりとか風習とか、流行なんかを好んでいるところがあって……だから手紙のやりとりでしか知らないGAと『はい、結婚』なーんて話になっても、すんなり受け入れてもおかしくはないのよ。ひと昔前のお人形さんお嬢さんなんだから、あの子」
「なるほど。えーと……それで、そのGAがこいつだと。君はどうしてそう思ったんだ?」
「だって『グレアム・アシュベリー』でGAでしょ。それに派手好きで女性男性はとっかえひっかえ。誠意はなくて女性とのいざこざが大きくなる前に逃走。この辺りでは有名な『GA』だわ」
「ううむ、ぐうの音も出ないな」
呻くグレアムにパトリシアは指先を突きつけて叫んだ。
グレアムは咄嗟に後ずさったがパトリシアはすぐさま距離を詰める。
「寄越した指輪はセンスが悪い。石はひとつ欠けている。やりとりは全部手紙。なによりも許せないのはね、その手紙ですらここ一ヶ月の間は止まっていること! なんて自分勝手な!」
わななく指先を注視しながら、グレアムは眉間に皺を寄せた。
「……まさかとは思うが、それだけの根拠で僕に決闘を申し込んだんじゃないだろうな」
「いろんな人に聞いて回ったわよ! みぃんな、それは『グレアム・アシュベリー』じゃないかって言ってたわ!」
「僕は心底悲しいよ。と、いうことは僕の親愛なる同居人も同意見ということかな?」
唐突に話題を投げられたアレクシスは、向けられた目に対して咄嗟に言葉が出てこなかった。パトリシアの断罪を望む熱い視線をかわしながらグレアムを改めて見やると、その双眸には不思議な光が宿っていた。
それまでのおどけた雰囲気はどこへ行ったのか――だからといって言葉通りに自分の状況を嘆いているわけでもない。アレクシスに対して助け舟を求めているわけでもない。むしろ高みからアレクシスを見下ろして、なにかを試しているようだ。
(またこいつの上から目線が始まったか)
苦笑を浮かべて肩をすくめるグレアム。それは、アレクシスに対して回答を急かしている態度ともとれる。
彼の望んでいる答えを口にするのは癪だが、事実である以上、仕方がない。
アレクシスは盛大に溜息を零して首を振った。
「――残念だがGAという男はグレアムではないよ。俺も非常に残念に思うけどね」
「あなたがこの男の友人だから……!?」
「こいつと同類の括りにしてほしくはないんだが……まず、彼は女性に対してなにか贈り物をするという習性を持っていない。物々交換はするが、けして相手に対して禍根になりそうなこと、後々面倒なツケを払うようなことはしない。贈り物はその最たる例だ。贈った方は罪悪感に、贈られた方は優越感に浸ることになる。一度始めたやりとりはけして消えないし、どちらか一方に対して常に責任がのしかかる。だから絶対に、相手の感情を揺り起こすために贈り物という手を使うことはない――そういう計算高くて小狡い付き合い方をしているんだよ。つまり、プロポーズはおろか女性と手紙のやり取りをすることだってあり得ないんだ」
「ああ……僕のことをよく観察してくれているようでなによりだ。ありがとう、アレク。僕をかばってくれて。心から感謝しているよ」
「心にもないことを言うのはやめろ」
最初からアレクシスが説明することを見越していたのだとすると本当に性質の悪い男だ。アレクシスは目だけをじろりと動かしてグレアムを睨みつける。
パトリシアだけが釈然としないというように、声を荒げて反論する。
「でも……でも! それはあなたの前だけのことかもしれないじゃない! 見栄を張っているだけかもしれないし、裏では酷いことをしているのかもしれない!」
「まあ……それはそうかもしれないけれども……ああ、そうだ。手紙の消印を見ればどこから投函されたのかわかる。この周辺以外から投函されたのだとしたら彼ではないよ。彼がずっとこの街にいたことは俺がよく知っている。それと、代理で誰かに投函してきてもらうという手も使えない。なにせ、この男はそんな頼み事ができるような友人が一人もいないんだ」
皮肉を込めたつもりだったが、グレアムはまるで他人事のようにうんうんと頷いていた。
「…………」
一方のパトリシアは未だ納得できないといった訝しい表情のまま、アレクシスを見上げている。なにか言い返したいが、なにも言い返せない。悔しさがそのまま眉間に表れているようだった。
ふと、そのまま泣き出すのではないか――という不安がアレクシスを襲った。
大概こんなタイミングになると、幼い妹は涙を滲ませていたことを思い出したのだ。女性の扱いには慣れていない分、泣かれてしまっては対処に困る。特にこんな、どこで誰が見ているかわからないような公園の路上では。
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