Punk!
佐久篤
センチメンタルジュエリーの邂逅
調子が狂う
SF/一八九七年。新たなる百年の始まりまで、あと少し。
蒸気の熱と、真鍮の臭い、歯車の軋みで、幕は開ける――
夏の兆しがみえている。
草の匂いの乗った風が吹き込み、古城近くの庭園公園は朝の穏やかな時間を迎えていた。広がる芝生は短く刈られ、周囲の木々も緑を残したまま整えられている。手入れされた庭では初夏を思わせる白い薔薇が小さくくすりと笑い、頭が垂れたブルーベルが最後の色を揺らしていた。
そんな季節の庭を眺められる、白い四角の建物。ポッド・ホールと呼ばれる大学寮。
その一室で……。
アレクシス・ストレイスはバスタブの中で目を覚ました。
緩い流線で縁取られた浅いバスタブは、大の男が足を伸ばして眠るには窮屈だったらしく、しばらく体の痛みに呻き声をあげた。それからゆっくりとバスタブから身を起こす。
よく寝たとは言えないが、アレクシスは体の関節を鳴らし、欠伸をしながら伸びをして立ち上がった。
目は覚めても頭は冴えない。
熱を持った自分の髪をかきながら、とりあえず狭いバスルームから脱出する。
アレクシスはキッチンの前に立ってキッチンシンクの横に収納されていたテーブルを引っ張り、作業の場を作ってから朝食を作りはじめた。
料理といっても朝の時間にしか作る機会がないため手の込んだものは作れない。せいぜい湯を注ぐスープストックと、パンかマフィン。それと飲み物は紅茶と決まっている。
透明なケトルの中でぽこぽこと滾った泡が沸く。レンジ台からケトルを退けるとツマミを縦に直した。昔は火をそのまま使っていたらしいが最近では熱と圧力を使うのが主流である。ただし、使い終わる度に圧と熱気の抜ける音が廃出菅から響き渡るのはいただけない。それに関しては一般普及型レンジの問題点ではなく、この寮の設備の問題だ。
「あー……僕はコーヒーがいい。アレク」
その音で目が覚めた同居人がベッドから声をあげた。
アレクは無視して食事の準備を進める。
オーブンのような形の折り畳みベッドは三つあるが、そのうちの二つはこの同居人に占領されている。そのいずれも就寝の用途に使われず、本やガラクタが詰め込まれて閉じられていた。
……つまり、この同居人が快眠しているそのベッドは、アレクに宛がわれているはずのものなのだ。
現在、彼がそのベッドを使うせいでアレクシスはバスタブで眠ることを余儀なくされている。
「アレク。アーレークー。アレクシスー。アレクシスゥ……ストレイス!」
「起きたのなら顔ぐらい洗ってきたらどうだ?」
「君が無視したりするからだろ? ん? 優等生のアレクシス君。朝の挨拶は大事だと教わらなかったのか?」
「残念だが、俺の家の挨拶に『コーヒーがいい』なんてものはない」
むくむくと起き上がった黒い頭がアレクシスの方を振り向き、そしてにやりと笑いかけた。
グレアム・アシュベリー。この部屋のもう一人の住人である。
いっそう目を細めて同居人をねめつけたアレクシスはコーヒーの粉を紅茶の茶缶から取り出す。飲む分だけ小分けになって紙に包まれていた黒い粉を、カップの中に乱暴に放り込んでテーブルの上に置いた。
「どーぞアシュベリー殿下。お望みのコーヒーだ」
「ご苦労。アレク、褒美にそこの冷蔵庫の中にあるチーズをやろう」
「……えらっそうに」
小声でそう憎らしげに呟くと冷蔵庫を開ける。
と、そこにはカットされる前のチーズの塊が置かれていた。その代わり先に入っていたはずの飲み物やら食材やらは姿が見えない。
まったく覚えのない食材にアレクシスは虚を突かれた顔で固まる。
「おい。なんだこれは」
「カマンベールチーズだ。軟質で白いカビが生えている。よその国ではこいつを『女神の脚の匂い』といって崇めるらしい」
「君のうんちくはどうでもいい。なんでこの部屋の小さい冷蔵庫にこいつが入っているんだ?」
「うん。実は昨日のお相手の子が農家出身のお嬢さんでね。彼女からのお土産だ。いや、これがなかなかいい子だった。ハリのある乳! 揉み甲斐のある乳! いやあ楽しい絞り体験だった! もちろん彼女の方も絞り上手で……あー、とにかく、いい夜だった」
アレクシスの形相にグレアムは話を濁らせて黙り込んだ。
グレアムが唇をもごもごと揺らめかせているのを見ながら、「それじゃあ」と、高圧的に切り出す。
「中身はどこにやった?」
「彼女に進呈した。出さないと入らなかったし君は寝てたから」
「この馬鹿!」
「チーズがある!」
「チーズだけで腹が膨れるか! いいか、お前が責任をもって冷蔵庫の中身を補充しろ!」
叫んだだけでは収まらない。アレクシスは溢れ出る怒りに流されるまま、乱暴にチーズの塊を皿の上に乗せた。
簡素なテーブルの上に食事の彩りが整ったところで、アレクは備え付けられていた椅子に腰かけた。グレアムがいそいそとベッドからオーブンベッドから出てくるのを目の端に捉えながらも、なにも言わずに自分の皿に手をつける。
「ああ、ご苦労様。僕の分までわざわざ作ってくれたようで」
「……自分で作るように仕向けた癖に」
憎々しげなやりとりももうかれこれ一年以上になる。
彼と同室になってからというものの、どこか調子の外れた生活が続いていた。他の部屋や他の寮に入っているアレクの友人は、誰もバスタブで寝たりせず、同居人の食事の面倒をみたりせず、自由に学生生活を満喫している。
グレアムという男は自他共に認める変人奇人の類だった。有名なのはその自堕落な武勇伝の数々にある。
性別年齢に隔てなく性的関係を持つ。怪しげな薬をところ構わず吸引する。授業には出席せず自分の好きなことをして遊ぶ。
噴水に飛び込んだり、奇声を発して石段から落ちていったり、おかしな魔法陣を書いていたり、挙句に妙な機械の実験をしていたり……授業の最中に彼の愚行を目撃した回数は両手両足の指を使っても追いつかないほどだ。
(とっとと他の人間の部屋にでも転がり込んでくれればいいのに)
グレアムの行為を思い出して、アレクシスは小さく溜息をついた。
「なんだ悩み事か? 悩みなら聞くぞ。いくらでも相談してくれ」
「お前が元凶だという考えには至らないのか」
「その脳みそはどうなっている」と当人には聞こえないように呟く。
「ふむ。僕がなにか?」
「そこまでしらばっくれるなら言ってやる。いいか、俺は君に迷惑しているんだ。君の行動は常軌を逸している! この前なんか知らない人間に君と同類扱いされたし『お前がちゃんと監督しないからだ』とまで言われたんだぞ!」
「具体的に――どれだ? どの行動?」
「具体的? 全部だ! 君が行うこと、すべて!」
アレクシスは顔を真っ赤にして怒鳴りつけていた。
朝だということもあって機嫌も気分も悪い。この同居人に向かって怒りをぶつけたのは初めてだった。案の定、グレアムはぽかんと口を半開きにしてアレクシスを見つめている。
それきり黙ってしまった彼を放置して、アレクシスは食事を続けた。グレアムもゆっくりと速度を落として居心地が悪そうにコーヒーに口をつける。
味のしない朝食を片付け、アレクシスは淡々と出かける準備を始めた。
「どこかに、行くのか?」
「……買い物」
無視するのも気が引けて、つい素直に返事をしてしまう。
それから黙って支度をしていると、上着に袖を通すグレアムの腕が視界に入った。
「おお、なら僕も行こう。安心しろ、君の邪魔はしない。ただ食材を買いに行くだけだ」
尋ねるより先に返事がきた。まるでおでかけにはしゃぐ子供のようにアレクシスより先に身支度を整えてドアの前で待っている。
彼といると調子が狂う。
アレクシスは呆れた吐息を漏らしながら、グレアムを伴ってポッド・ホールを後にした。
◆ ◆ ◆
西方に位置する島国、ロサカニナ。
元は四つの国だったが現在はひとつに纏まった国として存在している。
工業が主な産業だが、自然豊かで首都を少し離れると懐かしい田舎の風景が広がっている。
エディル市は、そんな風景の中にある比較的大きい都市のひとつだ。
元は壮麗なる城塞都市。昔に築かれた砦が基盤になっているエディル城が建ち、そこから町並みが敷き詰められていた。
主要列車をまとめているエディル駅を挟んで山側が新市街、城のある方が旧市街と呼ばれていて、過去と現在が調和した住みやすい都市のひとつとしても名高く、年々移り住んでくる人間も増加しているらしい。人口の増加と共に、雑貨店や、パブ、レストラン、劇場などがあちこちに作られ、生活に不自由することはほとんどない。わざわざ他の都市に出向く必要もなくなっていった。
エディル市が住みやすい街であるということ以上に有名なのは、旧市街側にあるエディル大学である。
首都にある有名大学に引けを取らない大学であり、自然科学・工学分野では充実した研究設備をもっている。また、医学部に関しては世界有数の医学系研究機関として長い歴史があり、研究領域としては世界最高峰との評価を受け、国内では一番である。
故に貴族の子弟や外国の留学生からの志望率が高く、時期によってはどっと若者たちが押し寄せて賑わった。入れ替わりでやってくる年若い人間たちによって街は彩られ、イベントの時期や夜は盛り上がり、休暇の時期には別の街のように静かになる。
五つのキャンパスとポッド・ホールは街の中に溶け込み、学生たちは街の住人として、一時の滞在を謳歌していた。
グレアム・アシュベリー。アレクシス・ストレイス。
二人もまた、エディル大学の学徒であった。
◆ ◆ ◆
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