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久世飛鳥が得意なことは二つある。歌うことと英語をしゃべること。帰国子女でもないのに英語が得意ってのも、それはそれで久世飛鳥にまつわる解せぬことのひとつなんだけども。
ギターを抱えた飛鳥がちらりと後ろを振り返った。澄ました横顔と目が合う。ワン、トゥと合図が送られ、俺たち──ドラムの俺と、ベースの鮎川と、飛鳥が連れてきた他校生でキーボードの新堂は、一斉に音を鳴らし出した。瞬間始まったあいつの歌声に飲み込まれる。深く、身体の奥底まで響く豊かな声は、バラードをうたわせるとなおさらよく映えた。ひとの痛みというものにいちばん縁遠そうな後輩が、痛みを含んだ歌を、きっと世界でいちばん美しく歌う。
せめて久世飛鳥にとって音楽が娯楽だったらよかったのに。もしくは英語のほうが本命だったらよかったのに。だけどあいつは歌いたいっていう。
暗い箱の中で俺たちだけがスポットライトを浴びている。ちかちかと視界がまたたく。飛鳥の声が全身に満ちている。
モテたいとか、かっこいいとか、楽しいとかでやっているやつだけじゃなくて、ここにしか居場所がなくて吐くようにして歌ってるひともいる。
意味とか大義とかがあるほうが尊いなんてのはおかしな話だけれど、血を吐くようにして、喉を潰してでも伝えたくて、叫びたくて、ここにしかいられなくて、助けてという言葉を歌にしかできないひとたちがいる。ここにも。そのひとたちはたぶん上手いとか下手とかよりも、心の奥底の叫びがいつかきっと届くと信じてやってきていて、それを久世飛鳥はことごとく壊していく。
傷付いた分だけ報われるとか、傷付いた分だけ深くなるとか、そういう幻想を粉々にしていく。
深くて豊かな低音が、なんの翳りもない後輩の喉から鳴っている。だれかが泣きながら作った歌を、久世飛鳥が微笑みながらうたっている。
込められた痛みをあの後輩が正しく理解しているとは思えない。知らないからこそまっさらにうたえるのかも知れない。その事実は今このサークルの中だけでも何人を傷付けているだろう。
その事実に、その在り方に、背筋がずっとぞくぞくしている。
「おまえ、なんで歌だったんだろうな」
久世飛鳥と組んでからというもの、サークル活動はもはや毎日後輩を好きなだけ歌わせてやる時間になった。そのあとはいつも、七時過ぎた暗い道を、ギターを担いだ後輩といっしょに最寄りの駅まで歩く。前を行く後輩は、俺のほうからだと頭のてっぺんのつむじが見えている。
ぽそりと呟いた俺の声に反応してか、久世飛鳥が足を止めて振り向いた。街灯の下で視線がぶつかるも、後輩の目には何も浮かんでいない。不安も不満も、怒りもなにも。悲しいとかも特にない。そもそも感情が欠落してるのかもわからん。
こいつはまずひととして大丈夫なんだろうかと不安になる俺に、久世飛鳥が口を開いた。
「先輩は俺のこと嫌いですか」
「あ?」
「嫌々、面倒見てるんですか」
一瞬息を止め、それから大きくため息を吐いてから、笑った。よかった。久世飛鳥にも不安になるという感性が備わっていたらしい。
「嫌いになれたらよかったのかもな」
でも残念ながら俺はこいつのことがまったくもって嫌いじゃないから、目の前の後輩へ、手を伸ばした。反射なのか、俺の手が触れる直前にきゅっと両目をつむった後輩を、少しかわいいなと思う。そのままコンと軽く額を小突く。
「本気で嫌いだったらこんな時間まで付き合うかよ。まして組まないだろ。おまえ、俺から声かけたの忘れたのか」
答えながらわしゃわしゃと黒い猫っ毛の頭を撫でてやった。
後輩は、そんな俺から逃れるでもなく照れるでもなく、俺のことを見上げると、まんぞくげに目を細めて口角を吊り上げた。その表情にクラッと来た。ああくそ、確信犯か。こいつは俺がその人を潰すような在り方に惚れてんの、知ってたな、と。
でも、本当はそれと同じくらいにわかっていた。久世飛鳥に傷つけられないということ、傷つくことすらできないということの意味を。だれよりも俺が知っていた。
俺は久世飛鳥のことを選んだ。だけど、あいつと同じところへいっしょに行くことはできない。
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