思い浮かべていたはずのリズムは、二つ下の後輩の歌声によってすぐに掻き消された。その声が始まった瞬間、すべての楽器はひとつにまとまり、ただ彼のためだけにあった。それだけでよかった。久世飛鳥の歌声が部屋の中に溢れて、鼓膜をふるわせ、身体の芯ごとゆさぶる。身体の奥底から、音とリズムが、自然とわき上がってくる。


 久世飛鳥は出会ったときから特別で、特異で、唯一無二の存在だった。


 新歓の二次会は大学近くの和風居酒屋で行われた。座敷席に通されて、一年生を真ん中に座らせての飲み会。久世飛鳥はだれかに許可される前から正座せずに胡座をかいていた。


「久世くんはほんと歌うまいね! もしかしてボイトレか何かやってる?」

「いえ、特に何も」


 向かいの席から身を乗り出して久世に話しかけていたのは確か二年生の女子だったが、にこりともせず久世は簡潔にそう答えた。うそお、とくすくす笑っている先輩に対して、わずかに首を傾げたような体勢で久世がじっと彼女を見返す。特に友好的な表情というわけでもないし、久世から新しい話題が提供されるわけでもない。二年生の笑い声はだんだんと尻すぼみになって、最終的には完全に消滅した。


「おいおい、大丈夫かあいつ」


 俺はその様子を少し離れた席から見ていた。周りにいる他の一年生たちを見やると、大抵は隣り合った人間に愛想よく元気な返事をして、自分たちは飲めないピッチャーの酒を積極的に上級生たちのグラスに注いでいた。久世飛鳥は二年から視線を外したあと、どこを見るというわけでもなく宙を眺めながら、ストローでコーラを飲んでいた。


 あれで歌が上手くなければぶん殴られていただろうなと俺も内心で思ったくらいだったから、そういう久世の態度が上級生たちの反感を買うのは早かった。


「ちょっと声量があるからってなんだあいつ」

「歌が上手いからってあの態度はねーよな」

「人間としてなってないやつとは付き合えない」

「ああいうやつは社会で生きていけない」


 対・久世飛鳥の包囲網は一瞬で構築され、新歓を終えて本格的に活動を始めようとする五月になっても、あいつと一緒に組んでやろうとする者はいなかった。というかいてもほとんどが四年生に阻止されていた。


「どんなに歌が上手くたって、バンドっていうのはひとりじゃできない。それをわからせてやるのも大事なことだと思う」


 サークル長の声真似をする俺に、同期の鮎川鳴海はおっとりと微笑みながら「なにそれ、くだらない」と一蹴した。人畜無害を絵に描いたような外見に反して、鮎川という男の言葉は容赦がない。細身で、白シャツにグレーのカーディガンを着た鮎川の姿は、本当に優等生そのものみたいなのに。


「大学生にもなって下級生いじめてるなんて、時代遅れで恥ずかしいよ」


 真新しいガラス張りの食堂は、陽光をめいっぱい取り込んで爽やかな明るさに包まれていた。ちょっとしたカフェのように洒落た感じの白い丸テーブルにも、まだ傷はない。


「俺、今後何か喧嘩することがあってもおまえだけは敵に回したくないなあ」

「そう?」


 鮎川も一応は軽音サークルに所属しているが、基本的に勉学を優先しているのであまり活動には参加していなかった。学部の違う友人だったが、なんとなく、俺とは感情の熱量が似ていて気が合う。


「で、その一年生は今どうしてるの? 落ち込んでる?」

「旧館裏で他の軽音の連中とか他大のやつらとかと即興バンド組んで歌ってるよ。毎日ちょっとしたミニライブみたいになってるから今度聞きに来いよ。見物人も多いし、合唱のほうの練習にも顔だしてるらしくて、そっちへ引き抜こうとしてるやつらもいる」

「え」

「ま、そういう逞しいところがまた気に入られない要因なんだよな」


 軽音サークルは別に俺たちのところだけじゃないし、世界にここだけでもない。俺たちが認めなかったからといって、あれだけ歌えるやつを他の連中までもが放っておくかというとそんなことはないわけで。久世飛鳥は今日も好きなように好きなだけ歌いながら大学生活を謳歌している。


 運命に愛されているかのように気ままに生きているあの後輩が、俺は正直全然まったく嫌いではない。かといって鮎川がくだらないと切り捨てたほうの気持ちも、嘲笑えるほどわからないものではなかった。あの後輩の在り方はだれもができるものでも、許されるものでもないだろう。


 久世飛鳥が彼自身の特別さを本当の意味でわかっていたかというと疑問だったし、あいつがそれをだれかに向けて本気で武器として振るったこともまだない。けれど、ただその存在だけでだれかを傷つけることもあるんだってことは、俺には容易く想像できた。


「ところで三島、なんだか今日はよくしゃべるね」


 不意に鮎川がそんなことをいった。細められた瞳と目が合う。まっさらな丸テーブルのうえに頬杖をついた彼は、面白そうに俺のことを眺めていた。


「三島、何がしたいの」


 陽光に照らされて、鮎川の色素の薄い髪が栗色に輝いている。金髪に染めている俺のとは違う、天然の色合い。


「鮎川、俺」


 俺は、あの特別な後輩を、あの恍惚とした歌声を、ほしいなと思っていた。

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