STAY GOLD
1
就活を始めるには少し遅すぎやしないかと、就職支援課の職員に怒られたのは六月あたまのことだった。三月から一斉に解禁になった説明会やらエントリーシートやらに本当にひとつも応募せず、俺こと三島亮平は大学四年生の初夏を迎えていた。
「その金髪も染める気まったくないよね? よくその明るい髪色でここに来れたよね君」
長机をプラスチックの板で区切っただけの小さな相談スペースで、吐き出すようにそういわれた。ぐうの音も出ないし、支援課の人の胃痛はお察ししたので、
「うっす。すいませんっす」
と素直に何度か頭を下げて部屋を出た。
良い子は帰りましょうねのチャイムが遠くでかすかに聞こえる。その時間にしてはあたりはまだ明るく、夏がやって来るんだなーと、大きく伸びをした。
もうすぐ人生で最後の夏休みがやってくる。そう思ったら胸のうちが少し苦しくなった。去年の冬頃から感じるようになったこれのせいで、未来を考えることが怖くなって、就活に大きく乗り遅れてしまったところがある。
四限の授業がまだ終わっていない大学構内は人が少なく閑散としていて、頭のうえにある晴天が広々として見えた。息を吸い込んで、正門のほうではなく裏門のほうへと一歩踏み出す。
裏門のすぐ近くに、蔦に覆い尽くされたレンガ造りの建物がある。俺が入学する前年に新校舎がオープンし、それにともない他の校舎や食堂も改装された我が校において、葉だらけのそこはだいぶ浮いていた。
入り口のアーチをくぐるとすぐにひんやりとした空気に包まれる。外部と地続きの一階には照明がないから薄暗いし、常に日陰になっているせいで肌寒い。石でできた壁も階段の手すりも、なんとはなしに手が触れるたびびっくりするほど冷たくて驚く。夏場はいいが冬場になるといつも地獄のような寒さになるので、一階で練習するバンドは公正のためローテーションが決められていた。
冷たい建物の三階を目指して、耳が痛くなるほどの静寂の中を、どことなく神妙な面持ちで上っていく。授業中のこの時間、ここにいるのは俺だけのようだった。まるで閉じた世界にひとりっきりみたいだ。彼女もそう感じて、ここでひとり泣いていたのかもしれない。
艶の消えた床の上を、奥から二番目の三○三教室を目指して歩いていく。そこが俺たちのバンドがいつも使う教室だったが、ふと耳を済ませると、なにやら古びた金具が軋むような、風が唸っているような、耳障りな金切り声が廊下にこだましていた。空耳や幽霊ではなくどうも人の泣き声らしいと気がついたのは、階段から部屋ひとつ分を過ぎたあたりからだった。
音源の三○三教室は分厚いカーテンで閉めきられて、中の様子は伺い知れない。けれど甲高く泣く声が女生徒のものであることはわかったし、俺たちの中で女性のメンバーはただひとりしかいないのだから、だれがそこにいるのかはほとんど明らかだった。
二十歳にもなった人間が幼児のように泣き叫んでいる理由は、俺にはわからなかった。失恋したのかもしれないし、何かやらかして教授にこっぴどく怒られたのかもしれないし、その程度のことじゃないのかもしれない。わからなかったから、ドアを開けようと伸ばした手は表面に触れたあたりで止まった。簡単にこの扉を開けて、事情もわからないまま突入して、とりあえず大丈夫だぞなんて慰めてやるのはちょっと無責任な気がする。出会ってまだ二ヶ月足らずの後輩の傷口に、そんなに安易に触れてもいいものか。
そうやって考えあぐねているうちに、不意に伸ばしていた手の脇の下にもさっとしたものが押し付けられた。何かと思えば、久世飛鳥の頭だった。
「おっ……」
……まえ、バカか!? と叫ぶのを、寸でのところでこらえた。中で泣いている後輩を怯えさせたくないという理性がどうにかこうにか働いて、怒鳴り声を飲み込んだ。代わりに脇から生えてきた後輩の頭をひっ掴む。
「おいコラ、どっから湧いてきた飛鳥」
「部室のぞこうと思ったら先輩が見えたのでダッシュでこっそり近づきました」
「そういうことがいいてえんじゃねんだよ」
いい感じに脇の下に収まっている後輩の頭に腕を回す。俺のほうはこのまま絞め落としてやろうかという気分だったが、がっちりと頭部をホールドしても二個下の後輩はどこ吹く風で、ちっとも動揺していない。
「中で泣いてんの井岡ですね」
飛鳥の口調に迷いはなかった。推測ではなく断定。こんなときに、やっぱこいつは俺たちと違って耳がいいのかもなと思う。カーテン越しの声をためらいなく聞き分けるほどに。それから飛鳥が扉に手をかけ、開けるまでの仕草に予備動作は一切なかった。
教室の中の明かりが漏れて目の前の空間が広がる。俺は咄嗟に飛鳥から手を離して壁際に逃げていた。
「……だれ?」
怯えたように震える声は、今度こそ聞き慣れた井岡瑞希のものだった。少しだけしゃくりあげるような音もする。隣の飛鳥は小さくほほえんでから、迷うことなくさっさと中に入ってしまった。
「泣いてんのか」
「飛鳥くん」
「それとも泣かされてんの?」
「う……ほんとは、泣きたくなんか、ないんだけど、二十歳にもなって、ばかみたいにみじめで無様だって、わかってるんだけど」
飛鳥に答える声は、喉の奥から絞り出したように掠れていた。おそるおそる教室を覗き込むと、未だに肩を震わせている井岡の対面に飛鳥が腰を下ろし、二人の後輩は向かい合って座っていた。いつのまにか暮れていた空からゆっくりと落ちていく夕焼けの逆光に飲まれて、二人の横顔はよく見えない。オレンジ色に包まれた部屋の中で、飛鳥の黒々とした腕が井岡の頬のあたりへと伸ばされた。涙を拭うように腕の影がうごめく。
「飛鳥くん」
「ん?」
「わたしわかってるんだよ。いつまでこんなこと理由にして泣いてるんだって、早く大人になれって、わたしが一番思ってるから」
ひくり、と喉がひきつるような音を立てて井岡がうつ向く。それから彼女の拳がぐりぐりと強めに目元をこすった。
「わたし強くなりたい。だれにも侵されることなく、だれにも泣かされることなく、起こった出来事をすべて自分の選択のせいだって言い切って笑えるくらい、強く、なりたい。空手、習いたい」
……あ、物理的に? というツッコミは、ぐっと唇を噛み締めることでこらえた。
「それ、超ウケるな」
冷静な声音で飛鳥がひとつ頷いた。
気がつけばため息が漏れ出ていた。どうにもこうにもあの二人は波長が合うらしいという呆れであり、あきらめであり、安堵、それからある種の訣別。
教室から目を離し、壁に背をあずけ、反対の窓から見える空を仰いだ。こっちの空はまだ澄んだ水色をしている。
ずっとひとりだった孤高の後輩が、わざとなのか偶然なのか、よく似た仲間を捕まえてきた。同い年の二人はこれから先もお互いのそばにいてやれるし、同じことを共有していける。
四年の俺と鮎川が抜けて、三年の新堂には荷が重すぎる問題児を、ただひとりここに残していくことがどうしようもなく心配だった。けどもうあいつは大丈夫なんだな、ひとりじゃないから。そう思ったら憑き物が落ちたように心が軽くなった。
出会う者がいるなら別れる者もいる。そうやっていろんなものごとは変わっていく。
今年の文化祭が俺たち四年生の最後の舞台になる。それが終わったら俺は俺の道を行こう。髪を黒く染めて、楽器をしまって、それからこの場所を、青春を、卒業していく。
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