駅に向かう道中もひたすらしゃくり上げながら、しかしまだ九時前なので人通りも少なくなく、電車に乗ってまで泣くのは気が引けたのでそれまでには泣き止んだ。もう二十歳を超えたいい大人が、泣きじゃくりながら人目につく場所を移動するという失態はしたくない。


 空いている上り電車に揺られながら目指したのは、飛鳥の大学のある駅だった。


 人気のない大学街をとぼとぼと歩く。大学へ向かうのとは反対方向に進んだ先は、ときどき営業中の居酒屋から騒がしい笑いが漏れてくる以外、ほとんど音のしない静かな夜道だった。


 飛鳥の地図通りに進んだ先では、覇気のない体育館に似た建物がぼんやりと白く浮かび上がるようにして立っていた。この中にちゃんと人がいるのか不安になって、手前で一度本当にここで合っているのかを確認してから、おそるおそる引き戸に手をかけた。


 入ってすぐ左手に受付、目の前には待合室が広がる。しらじらしい白熱灯も、天井の隅に設置された薄汚れた扇風機も、前時代の匂いを存分に漂わせた古ぼけたところだった。そこのなんともいえない緑色をしたソファで、飛鳥はふんぞり返りながら漫画を読んでいた。


「よっ」


 私に気がついた飛鳥が片手をあげた。なにもいわずに視線落として佇む私のことなど気にも止めない様子で、飛鳥は受付に一人ぽつんと座っているおじいさんに、いつかのカラオケ店みたく手慣れた様子で「三十球で」というと私を手招いた。


「野球、やってたの?」

「全然。だから時速90㎞のな。ダサいとかいわないように」


 正面から吐き出されるボールは確かに存外、私でも打てそうな速さだった。あとはバットに当たるかどうかが問題ではあるけど。


「これでもバンバン打って叫んで、ストレス発散していけよ」


 そう笑いながらネットの中を歩く飛鳥は、ギターケースを担いでいた。これは私がいつも貸してもらっている、あの教室に無造作に立てかけてあるヤツじゃない。きっと飛鳥の現相棒のギターだ。教わるばかりで、それを本気で弾いている飛鳥の姿を私はまだ見たことがない。


 すっかり暗くなるまで飛鳥が外にいたのは、遅くまでその練習をしていたからなのかもしれない。


「ねえ」

「うん?」

「飛鳥くんは歌手になりたいの?」


 隣り合うバッティングボックスに入りながら、後ろで荷物を下ろす飛鳥の背中に向かって聞いてみた。


「うん。そうだな。将来は歌ってるだけで飯を食えるようになりたい」


 気取ったところのない声が、当たり前のように返ってきた。そういうことを他意なくいえる久世飛鳥という人間は、やっぱりすごいとしかいいようがない。心根が純粋だから、その言葉には悪意もなにも感じないのかもしれない。


「そっか」


 なれるんだろうなあと思う。なんとなく。そういう純粋な言葉をまっすぐにいえる飛鳥ならいつか、例えば世界を変えてしまうような歌をうたう人間にも。


「飛鳥くん、いつか武道館とか立ちそうだもんね」

「おう? そしたらそのときのステージにはおまえも隣に立ってんだろうな」


 視線を目の前の投球機に向けていた私は、飛鳥の言葉にバットを構えたまま固まった。


「……なんで?」

「え、なんでって」


 飛鳥もこちらを振り返って、不思議そうに小首を傾げた。


「おまえもうちのメンバーだろ」


 一球目が目の前をゆるやかに通過していった。


「なんで私なの?」


 正確には、あなたにとっての私にどんな価値があるのか、を聞きたい。久世飛鳥という人間に見初められるだけのなにかを、果たして井岡瑞希というやつは持ち得たのだろうか。


「ねえ、飛鳥くんには私がどういう人間に見えてるの? 私はいったいどういう人間?」


 白球がひたすら目の前を通りすぎて、後ろのマットに当たる音だけが響いていた。


 目の前の飛鳥も手を止めているらしかった。けれど、ふたたび沸き上がってきた涙に視界が滲んで、本当のところはどうなのかわからない。


「私の家な、ちょっと複雑なの。お父さん不倫してるし、お母さん鬱病だし、弟ともあんまり上手くいってない」


 そんな胸くそ悪い自分の家庭事情なんかを話す気になってしまったのは、きっと夜のせいだ。乾いた音を立ててマットにボールが食い込んでいく。


 このままでは球がもったいないし、クソみたいな私の告白を聞いている飛鳥の顔を伺う勇気もないし、なので滲んだ視界のまま正面を見据えて、飛んでくる球を追った。半分くらいは見えてないので、当然バットを振っても空振りするのだけど、もういいかなって気分だった。


 なにかをめちゃくちゃに壊したい。それは自分でもいい。


 球の発射音だけを頼りにやみくもに振ったバットがなにかに当たった。うお、当たった! とは思ったが打ち返しが甘く、球はゴロゴロと床を転がっていった。ピッチャーゴロ、ゲッツー、なんちゃって。ふっと息を吐いてバットを下げた。


「そういう家庭事情を盾にして、世の中を渡っていけるくらい可愛くて可憐だったらよかったのに、残念ながらそうではなかったし、暗い過去に囚われるより前を向いて生きたい、幸せになりたいとも思ってるんだよ。普通に」


 瞬きをすると、目に溜まった涙が流れて頬をつたった。それから視界が少しだけはっきりする。


「前を向きたいと思っているのに、向くことができなくて、スイートポテトを割られる程度のささいな意地悪くらいで、動けなくなるくらい傷つく。これからドラマもバラエティーも始まるっていうゴールデンタイムに、落ち込んで自室で泣いてるだけなんて、人生損してるよね。二十歳にもなってバカみたいだ」


 バカみたい。もう一度胸の内でつぶやいて、また泣きそうになりつつ、飛んでくる白球をにらみつけた。母親の顔がちらつく。バットを構えて、ぐっと腹の底に力をいれた。


「おまえなんか、死んじまえおらあああ!」


 叫びながらバットを思いきりよく振った。だれかの頭を殴りつけたような感触とともに、ホームランボードまであと少しというところまで、ボールは空高く飛んでいった。


 だけど達成感なんかなかった。頭を潰す妄想をしたところですっきりともしない。無理に大声を絞り出したのどが痛むだけだ。

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