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「これ初心者用の曲だから。難しいこといってもわかんないだろうから、まあざっと説明するとだな、ちゃーんちゃーんちゃーんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃーんを繰り返していく感じ。めっちゃ簡単だから」
とかなんとかいわれて、「はあ……」と気の抜けた返事をしながら、私は飛鳥と向かい合う形でギターを抱えた。秋にある文化祭での演奏デビューが当面の目標だった。
とりあえず使えるくらいのギターにする、と飛鳥からいわれた。練習場所はレンガ館の一階。バイトのない日の授業終わりに飛鳥とマンツーマンで。
そうやってようやく一曲をひととおり弾けるようになるまで、自前のギターを持たずにいた私では、バイトで顔を会わせるときにもアドバイスをもらっていたのだけど、なんだかんだ一ヶ月くらいかかってしまった。
ワン、トゥ、とリズムを取る飛鳥に合わせて、曲を頭から弾き出す。一番目のサビに差しかかったあたりで、手拍子だけでは飽きたらしい飛鳥が、すうっと息を吸っていきなり歌いはじめた。
相変わらず腹が立つほど自由でのびやかに広がっていく彼の歌声が、ありふれた古い教室の中を反響していく。身体の奥底にまで届いて、背筋がびりびりと震える。
そんな彼の声に自分の声を合わせてコーラスをすることは、気が引けるというかなんというか。
「つらいんですけど三島先輩」
「どうしたどうした」
飛鳥と私が一階を占領しているあいだ、三人の先輩たちは三階で思い思いの練習をしている。飛鳥とのギターレッスンが終わったあとにひょっこりと三階を覗くと、コードの後片付けをする三島先輩がいた。
ところどころ茶色や黒も入り交じる金髪の先輩は、180㎝越えの身長もあって、ヤンキーさながらの迫力がある。初対面では近づきたくない人栄えある一位だったのだけれど、話してみればこの人が一番面倒見がよくてやさしい。自分の楽器だけじゃなく、例えば新堂先輩のピアノが埃を被っていれば拭くし、今もたぶんドラムを叩いている先輩が使ったのではないコードを手際よくまとめている。
「私、歌そんなに上手くないのになあ」
「でも音痴じゃないだろ? 音程は滅多に外さないじゃんか」
「でも飛鳥くんは、くそ上手いじゃないですか」
音痴じゃないとか音程を外さないとかいうレベルの話じゃない、飛鳥は。ささやくような歌い出しから、爆発的にのびるサビまで、すべてが空間を震わせる。そういう人の声に自分の平凡な声を合わせること。それを想像してみると心臓がきりきりと痛む。
壁際に寄せられた机の一角に腰を下ろして、ため息を吐いた。
飛鳥くんの歌を聞いている人たちの耳に水を差したくないなあとぼやく私に、先輩がやさしく苦笑しながら振り向く 。
「水を差すわけじゃないさ。飛鳥の歌をより深めるためのコーラスだろ」
励ますような先輩の言葉に、うーん、と床に視線を落としながら唸る。コーラスというポジションの有用性について、理屈としてはわかるのだけど。
「ていうかそもそも飛鳥くんの歌にコーラスなんて必要あります?」
ていうかそもそも、私のコーラスにもギターにも、意味はあるのだろうか。技術的に未熟な私が、わざわざ練習してまで表舞台に立つ必要性とは。
そんなふうにして、うつむいたまま際限なく落ち込みそうになっていると、先輩がすぐ目の前まで寄ってくる気配がした。
「そりゃあるだろうよ」
上から先輩の声が落ちてくる。
「飛鳥の声はちょっと強すぎる。だからコーラスが合わさることでもっと柔らかくなる効果があると、俺は思うよ。第一、飛鳥はああ見えてちゃんと見極める目を持ってる。余計な拾い物をするようなヤツじゃない」
その言い様では、なんだか私がわざわざあの飛鳥に見初められて選ばれたように聞こえて、ついついまんざらでもないような気分になった。ついでにもっと誉めてと、甘えたい気持ちも沸き上がる。先輩は年下の相手が上手だ。床の木目と自分の足元を眺めながら目を細める。
「私のコーラス、ちゃんと意味があるんですか」
「うん」
「じゃあ、私はここにいていいんですか」
いってから、しまったと思った。つい雰囲気に飲まれて、言い回しが詩的すぎた。恥ずかしい。
しかし三島先輩はまったく気にしていないようで、ぺちん、と最後に激励するかのように後頭部を叩かれた。
「当たり前だろ、おまえ、俺らのメンバーだろうよ」
ほら早く帰れよ、もう日が暮れるぞと先輩にいわれて、ゆるゆると顔を上げながら立ち上がった。
「そっかあ」
おまえは俺らのメンバーだから、当然ここにいていいんだよ、なんて、なかなか正面からいわれたことがない。そういうことをさらっといえてしまえる年上の先輩はかっこよかった。
窓から遠く、オレンジの太陽が見えていた。私という人間を疑うことなくまるごと全面肯定する言葉。
胸の内が震えるほど、思わず泣きそうになるくらいに嬉しくて、今日という日を確かに覚えていようと思った。
上機嫌で好物のスイートポテトを買って帰った私に、母は嫌な顔をした。スイートポテトとミルクティーとチョコが入ったコンビニの袋を下げてリビングに入った途端、ええ!? と大袈裟な声が上がる。
「夕飯のあとにそれ食べるつもりなの!? 夜の間食が身体に悪いことも知らないの!? それに太るわよ、あなたもう65㎏も体重あるのに、女子としてそれはどうなのとか思わないわけ?」
私とは似つかないつり目の勝ち気な美人であるところの母親を上から見下ろして、
「だから何? しばき倒してやろうか」
などとはいえるわけもなく、思うだけに止めて、だけどせめてもの反抗に手近にあった母親のスマホをソファにぶん投げた。
ソファに当たったスマホはぽすん、と可愛らしい音を立てた。もっと硬くて派手な音がすると思ったのに、いやでも派手な音を立てたらお母さんにめちゃくちゃ怒られるのでよかったともいえるのだけど、残念だ。
でも、どこか間抜けな投げつけた感触に気勢も削がれた私は、何事もなかったようにスイートポテトもろもろを冷蔵庫におさめてチャンネルを手に取った。
リビングの真ん中にあるテーブルに私と弟と母の家族三人で座って、夕飯を食べてテレビを見る。いつも通りに。ときどきテレビに向かってツッコミを入れたり談笑したりして、母から順番にお風呂に入っていく。
そういえばと思って、スイートポテトを食べようと冷蔵庫を開けた。取り出したスイートポテトは、中央に爪でぐりっとされたような裂け目ができていた。買ったときにはなかったものだった。思い当たる人は一人で、遠くから聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、その悪意に心臓が止まりそうになった。
明かりを消した自室で、布団にくるまりながらベッドの上で泣いていた。扉一枚隔てた向こうから、母と弟が私の話をしている声がした。何をいわれているのか知るのが怖くて、耳を塞いで丸くなる。
馬鹿みたいな話だった。あれはスマホを投げ飛ばした報復だきっと。ただそれだけのことで死ぬほど落ち込んで、部屋で泣いている。お酒も煙草もできる年なのに、親と喧嘩して泣き寝入りするしか思いつかないなんて、くだらない。
そんな絶望的にみじめな気分のときに、私のスマホが震えてディスプレイが光った。
『通しで弾いたのは三回目だけど、今日はよくできました 完璧 お疲れさま』
こんなときに飛鳥から優しいメッセージが来ていて、よりいっそう泣けてきた。同時に三島先輩にいわれたことも思い出す。今日は素敵ないい一日だったはずなのに。今日という日を確かに覚えていようと思ったはずなのに。涙があふれてくる。
助けて、助けて飛鳥くん。
普段なら絶対にいわないようなことをいったのは、悲しみの勢いに身を任せて、どこかハイになっていたからだ。起きたら後悔するのは目に見えているのに。
『ここのバッティングセンターまで来い』
引かれるかと思っていたのに、ものの数分で返ってきたメッセージと地図に、泣きながら起き上がって身支度をした。
「どこ行くのよこんな時間に!」
そう後ろから飛んでくる制止を振り切って、私は人生ではじめての家出をした。
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