真正面に突っ立った飛鳥から無言のまま差し出されたのは、青い表紙のリングノートだった。ギターを抱えたまま反射的に受け取ったそれをパラパラめくると、どうも歌詞を書き溜めたものらしく、ずらずらと短文が連なっていた。


「では、正直な感想をどうぞ」

「えーと、うーん、私は素人だけど、そうだね、小学生の作文かよって感じ」


 正直にといわれたので思ったままそう告げると、飛鳥はそっと顔を両手で覆って、震えだした。


「ひどい」

「ええ!? 正直でいいっていったくせに! ていうかだって、語彙力!」


 こんなことが楽しかった、悲しかった、嬉しかった。そういうのがひたすら並んでいるノートには、ときどき申し訳程度に「すごく」や「とても」が入る。こんなのは歌詞というより小学生の夏休みの日記だ。


「いやー、わかる気がする。これはさすがにね、飛鳥くんの言語センスが壊滅的なの、確かになって感じする」

「だから俺本屋でバイトして、社割使っていっぱい本を買おうと思ったのに……」

「あ、なるほど。それで本屋のバイトに」


 いくら大学に近いからといって、飛鳥のような社交性も華もある若者がなぜ本屋で働いているのだろうと、こういうヤツは焼肉屋のバイトとかの方が似合うと常々思っていたから、彼の話を聞いて大いに納得した。語彙力を身につけるのならたぶん読書が一番だ。


「ちなみに今は何か読んでるの? 私のオススメ教えようか?」

「あ、今はね、なに読もうか迷ってるとこ」


 ああ、うん、それダメなヤツだなって感じ。


「吐きそうなくらい寂しいってさ、すごいな」

「え?」


 こいつしょうもないヤツだなと思って、生暖かい笑みを浮かべながら目線を逸らしていたら、急に飛鳥が真面目な声でしゃべりだしたものだから不意打ちを食らった。


「どうしたの、いきなり」

「いや、俺は寂しいなって思ったとき、そのまま寂しいとしかいわないし、いえないなと思って。吐きそうなくらい寂しいとか、思えたこと、たぶん一度もないからすごいなって」


 飛鳥は真剣にそうやって私を褒めた。悪意も揶揄も感じられないまっさらな言葉は、するりと入ってきて、耳に心地よかった。


 まじりけのない真摯なそれには、謙遜も計算も必要がない。なにも誤魔化す必要がない。嬉しかったから、私はただありがとうといえばよかった。


「なあ、俺の歌詞を書いてくれないか井岡。井岡の言葉、すごいなって、ほしいなって思ったんだ」


 彼のきらきらと濡れた黒い目は、ただ真っ直ぐに私のことを見つめていた。だからか、しばし見つめあったあと、私はごく自然に頷いた。飛鳥の申し出には純粋さしかなくて、それを受け入れるのはとても簡単なことだった。


「私でいいのなら」


 そう答えると、飛鳥はいつかのような爽やかな笑顔でニカっと笑った。それから突然、私の腕をわし掴みにした。


「よし、ありがとう。でもせっかくバンドに入ったんだから、歌詞を書くだけじゃつまらないだろ?」

「はい?」


 そのまま強引にくるっと扉の方へ向けて歩き出した飛鳥に引っ立てられて、私は慌ててギターを机に放り出した。引きずられながら教室を出て冷たい石の階段を上り、三階まで連行される。


 階段付近から数えて三番目の、弦の震える低音や、がしゃがしゃと金属の触れあう音が廊下まで響いてくる教室。その扉を、飛鳥はノックもなしにいきなり開けた。


 机や椅子を後ろの壁際に追いやって、中央に作ったスペースに、ピアノやドラムやその他の機器が設置されていた。飛鳥は、掴んでいた私の腕を狩りで得た獲物のように高々と掲げながら、中にいた人たちに向けていった。


「今日からこいつ、うちのコーラス兼ギターになったから。よろしく」


 それぞれの楽器を調節している最中だった三人も、私も、その宣言に呆然と固まった。飛鳥だけが混乱の中をずんずんと躊躇うことなく進んでいく。台風の目かこいつは。


「ドラムのとこの、ガタイよくて金髪で見た目ヤンキーなのが三島先輩、四年。ベース弾いてる優男、あれギターに似てるけどベースな、あの人は鮎川先輩、同じく四年。ピアノのとこの黒縁眼鏡の目付き悪いヤツ、新堂先輩、三年。で、こいつ井岡です。でかい。俺と同じ二年」


 以上、とじつに簡略的な、目につく特徴をざっと紹介されあった飛鳥以外の私たち四人は、とりあえずお互いに向けて頭を下げた。


「ど、どうも」


 中学の頃より八年女子校育ちの私は、うおう……と思いながら、年上の男性三人にお辞儀をした。バイトで少しは耐性がついたけれども、ただでさえ人見知りだし、男ばかり四人の教室はさすがに緊張する。そんななのに男ばかりのバンドに入るつもりか私。


「え、ていうか、え、ギター弾けんのこの子」


 ドラムのとこの身体の大きな怖そうな人、三島先輩が、まだショックを振りきれていないながらも口を開いた。そんな先輩に向かって、追い討ちをかけるように飛鳥が「いや?」と首を横に振る。


「全然、初心者」

「は?」

「俺が今から教えていく」

「は?」


 けろっとそういうことをいう飛鳥に、三島先輩は目をひん剥いていた。私も、は? しか出てこない。え、私、今から飛鳥くんにギター教わるの?


「おま、ちょ、そもそもコーラスってのは」

「ああ、なんかうちにはいなかった女だし、声が合わさったら面白いかなと思って」

「は?」

「まあ大丈夫。音痴ではない」


 音痴ではない、という飛鳥のいいかたには膝蹴りを食らわしてしてやりたかった。そりゃあんたみたいな圧倒的歌唱力なんかないけど、ない方が普通だからな。


 そんなこんなで目が点になったままだった先輩メンバーたちは、しかし、飛鳥が「俺の歌詞を書いてもらうことにしたんだよ。書店員で本好き。だからスカウトした」というのを聞いた途端、ああ……と納得したように頷いたのだった。

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