「おー、井岡だー。相変わらずでかいなー? 俺帰りたい」

「いや今来たばっかでしょうが、働け。あと一言余計だわ。でかいのわりと気にしてるんだからね?」


 売り場に戻ると、カウンターの裏には遅番シフトの久世飛鳥が来ていた。私を見つけるなり、連絡帳を片手にうだうだと話しかけてくる。


 なかなか自分からは他人と打ち解けられない私も、話すきっかけさえあれば応答できる。そんなわけで、積極的に話しかけてくる彼とは軽口もぽんぽんいえるような、よく気の合う友人だった。まあ、所詮はバイト仲間なので、バイト以外では一度も連絡を取ったり遊んだりしたことはないけれど。


 まだ帰宅ラッシュが遠い本屋では人の入りがまばらで、レジに入ったはいいものの、売り場の隅々を見渡せるくらいには空いていた。お互いに暇をもて余して落ち着かなくしていると、ふいに「カラオケ行かね?」と彼が聞いてきたので「いいよ」と応じた。


 仲は良いけれど付き合いは悪い私の即答に、隣のレジで飛鳥が驚いたように眉を跳ね上げた。自分から誘ったくせに「なんで?」と間抜けなことを聞いてくるのに呆れ果てつつ、素直に答えた。


「飛鳥くんの歌をもう一度聞きたいから」


 なので、カラオケじゃなかったらついていかなかった、とも。


 ちなみに私が久世飛鳥のことを飛鳥くんと呼ぶのは、大学の友人にすでに久瀬さんがいるからである。奇跡のクゼかぶり。そんなことを思い返しながら、飛鳥のバイトが終わるまでの三時間を、ぶらぶらと同じ駅ビルのカフェで潰した。どうせ家には戻りたくない。そんなことより、あの圧倒的な音量の歌声をもう一度聞いてみたかった。


 予定の時間に他の遅番メンバーも引き連れてきた飛鳥と合流すると、駅から徒歩五分のカラオケへとみんなでワイワイ向かった。


 大部屋に案内されて、マイクを手に取り、機械をいじる。そうして相変わらず腹が立つほどのびやかに歌う飛鳥の声を聞きながら、一度でいいから彼のように自由に、思い描いた通りに歌えたのなら、さぞ気持ちがいいことだろうと思った。


 彼は他人を巻き込むのもとても上手くて、彼が目の前に立って歌いはじめると、歌う恥ずかしさも声がでない懸念もなにもかも引き剥がされて、誘われるまま、私もいっしょに大きく口を開けていた。高音が出しにくくて、好きなのにずっとうたえずにいた歌も、飛鳥に背中を押されて大きく息を吸い込めば、腹の底から声があふれた。


 小学校は歌の盛んなところで、始業と終業の会で一回ずつ、決められた今月の歌というのをうたわされた。だから歌うのは嫌いじゃない。本当はたぶん、大好きだ。


「吐きそうなくらい寂しい」


 あっというまに終電があるからと解散していく中で、同じ路線の、でも反対方向の電車に乗る飛鳥に思わずそんなことをいっていた。すっかり暗くなってしまった駅前、会社帰りや夜遊び帰りの人々の黒い波に飲み込まれて、すがりつくように、少し先を歩いていた飛鳥のパーカーの袖口を捕らえる。騒いで楽しかった反動が、だれもなにもいわずに流れていく静かな帰り道で一気に吹き出した。四月の夜はまだ少し肌寒くて、ふとした寂しさを加速させる。掴んだ袖口はすぐに離して、私はじっとうつむいていた。


 少し前で立ち止まったらしい飛鳥は、振り返ってしばらくじっと私を見下ろしていたようだった。視界の端に写っていた彼の靴が、ゆっくりと近付いてくるのを見つめる。


「なあ、俺といっしょにバンドやらない?」


 すぐ近くまでやってきた彼が、おもむろにそういった。


「……は?」


 予想の斜め上を行く話に、勢いよく顔を上げた私の口からは間抜けな返事が出た。


 翌日、地図つきのメッセージで呼び出されたのは、飛鳥の通う大学の一室だった。スマホでマップを眺めながら、はじめて訪れた他大の校舎を見上げる。


 正門から入ると、小綺麗でスタイリッシュなデザインの一面ガラス張りの建物がある。それが飛鳥の大学の売りのひとつでもあるのだけれど、そこを通りすぎた先、レンガ建ての古びた館の中に軽音サークルの部室はあった。


 ところどころ蔦の這う崩れかけた外観の館は、中に入るとひんやりとしていた。さびれた雰囲気のわりに、軽音だけでなく美術部や合唱サークルなども所属しているらしく、あっちこっちと人の出入りが多い。廊下には色とりどりの彫刻が並べられ、どこからか聞こえてくる歌声も絶えない。


 指定された104教室、一階の最奥の部屋の扉を、ためらいつつ開けた。中は意外にも暖かな空気に満ちて、オレンジ色の光が照らす部屋は傷もなくつるんとして、新しく清潔だった。


「おう、来たか」


 扉を開けてすぐそこにいた飛鳥は、私の方を振り返りながら少し微笑んだ。それから、ケースに入れられることもなく近くの壁に無造作に立てかけられていたギターを掴み、そのままそれを私に手渡した。


「これ、俺の初代相棒」

「え、と、アコースティックギター?」


 ギターを受け取りながらそう聞くと、それくらいの識別はできるのなと笑われた。私だってアコースティックギターとエレキギターの見た目の違いくらいはわかる、つもりではいる。たぶん。ごめん、昨日夜中に検索した。


 とりあえず試しに抱え込んで弦を一本はじいてみると、予想していたよりも固くて、びいんと反発するような音が鳴った。


「井岡は本が好き?」


 久世飛鳥の後方には、教室らしく机と椅子が整然と並べられていた。飛鳥と向き合えるよう、彼の真後ろの机に渡されたギターを抱えながら腰掛けた。


「好きだよ。だから本屋でバイトしているわけだし」


 飛鳥の方も見ずに、弾けもしないギターをやみくもにいじりながらその問いに答える。よくよく考えたら、ちゃんとした弦楽器に自分の指先で触れるのは初めてのことだった。


「俺、どうやら歌詞センスが壊滅的らしい」

「はい?」


 唐突な告白に顔を上げると、いつのまにか私の手元をじっと見ていたはずの飛鳥は立ち上がり、壁際へと向かっていった。そのままごちゃごちゃと物が置かれている中を、なにやらかがみ込んでがさごそといじりだす。


 不審に思いながらその背中を眺めていると、しばらくして片手にノートを持って飛鳥は戻ってきた。

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