Midnight Eagle Eye

祈岡青

コーラス、アンド、ギター

 久世飛鳥の歌声は、小宇宙のようだった。鼓膜の奥で世界が爆発して、目の前に急速に広がっていくような感じ。


 四月、バイトしている本屋の新入歓迎会に、私、井岡瑞希は珍しく参加した。人見知りで引っ込み思案で、学校の友達以外とは遊びたがらない私でも、この本屋で働いてすでに一年が経っていた。


 駅ビルの中に入っている大手チェーンの本屋は、近隣の大学から学生たちがたくさん集まってくる。なので、本屋のくせに明るく社交的な人たちが多い。久世飛鳥もそういう男子大学生のうちの一人で、火木金の夕方からラストまでのシフトがよく被る、私と比較的仲の良いバイト仲間だった。


 総勢二十人の本屋スタッフたちは、新歓シーズンの居酒屋でよく飲みよく食べ、はしゃいですっかりテンションがあがり、終電があるからといって簡単に解散するわけがなかった。かくいう私も、引っ込み思案のくせに簡単に雰囲気に流されるので、カラオケでの二次会に行くと即答していた。


 未成年と明日も仕事のある人たちは帰ったけれど、それでも半数は残り、みんな朝までオールする覚悟を決めて、深夜のカラオケになだれ込んだ。そこで私は、久世飛鳥の歌声を初めて聞いた。


 彼の歌声は、聞く人の鼓膜で爆発的に震え、小宇宙を作り出す。


 歌っているときの彼は心底、だれにも臆することなく幸せそうで、きっとこのまま死んだって彼に悔いはないのだろうと思わせるほどだった。


 ワン、トゥ、とリズムを取った彼が大きく息を吸う。輝く瞳がこちらを見ている。歌なんか上手くないのにという思いも、プライドも羞恥も、目の前で大きく身体を揺らす彼の姿に呆気なく引き剥がされて、私も思いきり息を吸い込んでいた。


 歌い出しも呼吸のタイミングもサビの上がりも自然と沸き上がってきて、自分でもびっくりするほど声が出て気持ちがよかった。久世飛鳥が爽やかに笑う。真っ黒な髪はウェーブがかって、目元を隠すほど前髪が長かったけれど、笑うと途端に好青年になる。


 バイトの同期があんな深い声で歌うとは、思わなかった。世界が爆発するような、圧倒的な歌いかたをする彼という人間について。



 ヘルプで入った昼から夕方にかけてのシフトの休憩は、昼食をとるには遅すぎて、夕飯を食べるには早すぎた。


 最上階にある休憩スペースには向かわず、客波を避けて社員用通路に入り、そのさらに奥の扉を開けてビルの裏手に出た。


 白を基調とした清潔な中身とはうってかわって、赤茶く錆びた非常階段が、へその緒の名残りのようにビルの脇にくっついている。ちょうど強烈な夕日のオレンジが建物を照らし出していて、扉の隙間から外の眩しさに目を細めた。ビルの隙間を抜けていく風が涼しくて気持ちよい。


 ほとんどだれも使うことのない古ぼけた階段の、三階と四階をつなぐ踊り場にて、ピンクのパッケージが可愛かった煙草に火をつけた。女性向けに作られた、甘い匂いがする。この甘さが私の匂いになればいいのに、煙草のあとは苦味しか残らないのが不思議で少し悲しい。


 久世飛鳥の歌声に受けた感動ならいくらでも、3000字レポートを書いて提出できるほど、語れる言葉があるのに、私が私という人間を語るときの言葉は足らない。


 私が私自身を語ろうとするとき、どうしても私は、自分の家を思い浮かべて、家のことを語ろうとしてしまう。そしてふと気づいたことに、唖然とするのだ。


 私から家庭環境を抜くと、なにも残らない。私という人間はからっぽで、語れるほどの多くを持たない底の浅い人間であるということ。それは軽い絶望だった。


 駅ビルの中の休憩スペースにはきちんと喫煙室が設けられているのだけれど、それでもこんな崩れかけの階段で煙草を吸うのは、喫煙室の副流煙が肺を犯してくるようで、一息吸っただけでも病気になりそうだったからだ。おかしな話だとは思う。煙草を吸ってる時点で健康もなにもないのに、毎日少しずつゆるやかに自殺している私は、病にかかるのが恐ろしい。


 頭上の強すぎるオレンジから逃げるべく階下へと視線を逸らして、澄んだ空気に囲まれながら、煙を吐き出す。肩で切り揃えた髪が落ちてきて、あらわになっているのだろううなじが、夕日にじりじりと焼けた。


 私が小学三年生の頃、父の浮気が発覚し、母は精神を病んだ。たぶんそのせいで弟は社会というものに馴染めなくなり、自分の殻に引きこもるようになった。そんな感じで井岡家は常に荒れている。


 もしも私が可憐な美少女であったなら、髪を染めて夜の街をさ迷っているか、もしか、とっくに制服のスカートの裾を翻して屋上から飛び降りているところなのだけど、あいにく身長172㎝の体重65㎏の普通顔なものだから、グレることもできずに漂いつづけて、気がつけば二十歳まで生き延びてしまった。


 父は未だにその愛人とつづいているし、母は父を呪いつづけているし、弟は唐突に髪を真っ赤に染めた。そして私は、そんな家族と上手くいっていない。以上。それが私という人間のすべてで、どんなに憎んでも嫌っても、家のことを抜くと私という人間にはその他になにも残らない。


 久しぶりに我が家のあれそれについて考えたら嫌な気持ちになって、心が折れそうなくらい落ち込んだ。白シャツが汚れそうなほど錆びた手すりだけれど、もうかまわないような気がして、そのまま全身でもたれかかった。煙草の吸い殻を携帯灰皿に捨てて、腕の上に顎をのせながら、虚ろに宙を見つめる。


 このままだと最後まで頑張れそうにないなと思ったので、気分転換をしようと、本屋のロゴが胸元に入った黒いエプロンのポケットをまさぐった。百円で十本買えるような量産型のボールペンを取り出す。それの両端を左右の手で握ると、ありったけの負の感情を込めてへし折った。


「……よしっ!」


 バキバキと音を立てて粉砕されたプラスチックに満足して、息を吐いた。後半も頑張ろう。煙草の苦味を打ち消すためにフレグランスの香りのする消臭剤をシュシュッと吹きかけて、売り場へと戻るべくターンを決めた。


 いつのまにかうしろの夕日は暮れかけて、空の半分は暗い青に沈んでいた。

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