第6話 転生5



「…?」

「――――」

 瑞穂が己の怒りをいつも通りに鎮め、目を開けてみると、そこには最愛の妹がいた。

「…みず、き?」

「――っ!?」

 血の気が引き、目を見開き、瞳孔まで開き、涙を流し、自分の身体を抱き締め、全身を震わせている最愛の妹が。

「…瑞希?」

「――あ、あ――」

 恐怖という感情に呑み込まれ、心の底から怯えた表情のまま、まともに言葉も発することの出来ない、最愛の妹が。

「…え、は?ど、どうしたんだ瑞希?モンスターでも出たのか?」

「――っ、…お、おにい、…ちゃん、…?」

「あ、ああ、なんだ?いったい何があったんだ?」

「――っ!」

 次の瞬間、瑞希は瑞穂に抱き着いていた。

 それは先程のような俊敏な動作ではなく、弱々しい足取りの、崩れ落ちそうなものだったが。

「っ、み、瑞希?どうした?」

 自分が意識を内側に向けている間に、いったい何があったのか。

 周囲を確認しても、特に異常は見当たらない。大きな音や異音がすればさすがに気付くはず。

「???」

 なら、どうして瑞希はこんなにも震えているのか。どうしてあんなに怯えていたのか。

「――さぃ――」

「瑞希?」

 腕の中で震えるだけだった瑞希から、ようやく声が聞こえた。

「――め――さぃ――」

「どうした?もう大丈夫だぞ?」

 しかしその声はか細く、消え入りそうなもので。

「――め―な、さぃ――」

「…瑞希?」

 だが、次第にその声も聞き取れるようになってみれば。

「――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

「!?」

 まるで呪詛の様に紡がれる謝罪の言葉。

「……――」

 掛ける言葉を見失ってしまった兄は、それでも妹を抱き締め、頭を撫で続けた。



「(私が、私の、私の所為で、おにいちゃんが…!)」

 瑞穂がいつも通りに怒りを鎮めたと思い込み(・・・・)、意識を外界に向けたとき、瑞希の心中は、その時は未だ恐怖と怯えの只中にあった。

 だが、それは兄の声を聞いた途端、雪解けのように掻き消えていった。

 だが、その空いた穴を埋めるかのように生じた感情は、たった一つ。


「(私が、私の死が、…おにいちゃんを…!)」


 それは、罪悪感だった。

 

 瑞希は、兄の異常な様子の意味を、その理由を、直感的に理解出来てしまった。

 兄にとって、自分という存在はとてつもなく大きい。

 兄にとって、自分以外の存在は意識に留めることすらない。

 それは自惚れや希望ではなく、純然たる事実だった。

 そのことを、瑞希は理解し、受け入れ、受け止めていた。

 瑞希にとっての兄という存在もまた、それくらいに大きいのだから。

 だからこそ、兄が自分の復讐のために10人もの人間を殺したことを、理解し、受け入れ、受け止めた。喜びすら感じてしまった。

 だが、これは違う。

「(こんな、こんな風になるまで、私が追い詰めた…!私が!!)」

 怒りを内に閉じ込め、他者に悟られないよう消化する。普通に考えれば理解出来ない行動だが、瑞希はそれを兄にとっての一種のセーフティーであると考えていた。


 

橘瑞穂は、壊れている。



 それは、瑞希が小学校3年生の頃。

 両親の死というショックからも抜け出し、兄との生活も安定してきて、新たな幸せを感じ始めたものの、学校にはまだ馴染めてなかった頃。

 その日は学校の遠足で、クラス毎に分かれてバスに乗り、山道を登っていた。

 そして、私が乗っていたバスは、ガードレールを突き破り、谷底へ落ちた。

 気付けば、横倒しになったバスの中、大勢の子供の泣き叫ぶ声に満ちていた。

 先生や運転手といった大人の声は無かった。おそらく意識を失っていたのだろう。

 私は泣くことも叫ぶことも、動くことすらしなかった。

 辺りが暗くなってくると、大半の子供は寝てしまった。起きている子も、体力が尽きたのか、すすり泣く程度が精一杯のようだった。

 私はそこでようやく動き出した。呼ばれたような気がしたから。

 その日は綺麗な満月だった。月明かりのおかげで、周囲の様子もよく見えた。

 その日は風のない静かな夜だった。動物や虫の声が少なかったおかげで、その声を聞きとることが出来た。

「――ぃ――」

 最初は、本当に微かに。

「――み―ぃ――」

 次第に、はっきりと。

「――みずきぃーー!どこだー!」

 それは、こんな山奥で聞こえるはずのない、兄の声だった。

「…おにい、ちゃん…」

 私は、声の聞こえる方へ誘われる様に、歩き出し、駆け出し、全力で走った。

「瑞希ぃー…、っ!瑞希っ!」

「おにいちゃん!」

 その時のおにいちゃんの格好は、今でも覚えてる。

 買ったばかりの紺色のスーツはボロボロで、破れてたり穴が空いてたりして。

 私がアイロン掛けしてあげていた白いシャツは、白い部分を探す方が難しいくらいに真っ赤で。

 2人で買い物に行った時に私が選んであげたネクタイは、左腕に巻いてあった。太めの木の枝と一緒に。

 でも、服も身体もボロボロなのに、私を見つけた途端、なんでもないように、笑いながら、飛びついた私をしっかり抱きとめてくれて。

「っ、瑞希…、無事でよかった。怪我はしてないか?痛いところはないか?」

 その時の私は、おにいちゃんに会えた安心感と、おにいちゃんが探しにきてくれたことへの嬉しさで、ずっと泣いてた。

「ははは、瑞希はまだまだ泣き虫だな。ほら、早く家に帰ろう。あ、その前に病院だな。もしかしたら怪我してるかもしれないし、念の為な」

 そう言っておにいちゃんは、泣きじゃくる私を抱いたまま、山を徒歩で下りて、私のために携帯で救急車を呼んだ。救急隊員の人はおにいちゃんを見てかなり驚いてたけどね。

 そのまま2人で病院に行って、私は消毒と絆創膏を貼っただけで済んだけど、おにいちゃんは集中治療室に、文字通り引き摺られていった。

 


 それから一週間後、私が乗っていたバスはようやく発見された。


 

 乗客の半数以上が亡くなったらしい。

 おにいちゃんはその間ずっと、私と一緒にいた。

 バス事故のことなんて、忘れてしまったかのように。

 私以外の人のことなんて、興味がないかのように。

 お仕事はしばらくお休みだと言って、久しぶりに2人っきりで長い時間一緒にいられた。

 家に大人の人が来ることもあったけど、おにいちゃんが家から出ることはなかった。



 それが、おにいちゃんが壊れていると感じた最初の出来事。

 それからも、度々、その片鱗が垣間見えることはあった。

 でも、それはおにいちゃんの中である一定のラインを越えてしまった時にだけ見えてしまうもの。

 そのラインが、怒りを内に鎮めるという行為にあるんだと気付いたのは、中学校に上がった頃だった。

 あの時は、高校生が6人、精神病院に入る程度で済んだけど。


 だから、おにいちゃんにとって、あの行為は、犯してはいけないもの。

 おにいちゃんが完全に壊れるのを防ぐ、防波堤。

 瑞穂が抱える狂気を堰き止める、セーフティーライン。


 それを、よりにもよって――


「(――私が壊すなんて――!!)」





「…ご、ごめんね、おにいちゃん…。もう、大丈夫だから」

「…ああ」

 そう言いながらも、瑞希は兄から離れようとはしなかった。いや、離れられなかった。

 謝罪の呪詛も、全身の震えも収まり、表情も少しは笑えるようにまで回復したと思う。

 しかし、いくら言葉で誤魔化そうとしても、立ち上がる気力が湧かない。

 なにより、離れた途端、兄が壊れてしまうのではないかという強迫観念すら感じてしまっていた。

「ごめんね、ごめんね?すぐ、すぐに大丈夫になるから。えっと、ちょっと腰が抜けちゃって、力が入らないだけだから…」

「…大丈夫、ゆっくりでいいからな」

 その間、今の今まで、瑞穂は妹のため、優しく抱きしめる腕の力を抜くことなく、優しく撫でる手の動きを止めることなく、周囲の様子に気を配り続けながら、――思考はフル回転していた。

「(瑞希がこうなってしまった原因、それが何なのかを突き止めるのは後でいい。瑞希から直接聞かない限り断定出来ないのだから。必要なのは、考えておくこと、備えておくこと。可能性として、幻覚を見せられたのかもしれないが、もしかしたら瑞希の内面的な要素が原因かもしれない。もしくは、俺。俺が瑞希を怯えさせるなんてことは有り得ない。だが、有り得ないなんてことは有り得ない。可能性を切り捨てるな。全てを抱えておくべきだ。それに、この状況についての認識も改めないとだな…)」

 その思考は、元々の瑞希には無かったもの。復讐に費やした6年で得た、貪欲に結果を追い求めるための思考。

 今の瑞穂が考える結果とは、2人で無事に街へ辿り着くというものだった。

「(…ダメだ、完全に平和ボケした頭でいたおかげで、必要なことが何一つわからん。身体能力も武器の性能も。特に、この環境について。瑞希の知識を基にして、ある程度無茶してみるのがいいか…)」

「…ねえ、おにいちゃん?」

「ん?どした?」

「…おにいちゃんは、おにいちゃんだよね?」

 瑞希の表情は見えない。それでも、不安を感じていることだけは、声音から感じ取れた。

「当たり前だろ。俺は何が合っても、瑞希のおにいちゃんだからな」

 ならば、その不安を払拭してやるのは兄の勤めと言えるだろう。

「…うん、…ありがとう」

 瑞穂の言葉のおかげか瑞希の中にあった不安は消え去り、止まっていた血流が戻るかのように、身体に活力が戻って来た。

「ごめんね、いきなり変な感じになっちゃって。ほんとにもう大丈夫だから」

 その言葉を証明するため、瑞希は軽快な調子で立ち上がり、その場でくるりと一回転して見せる。

「…そっか。その様子なら、とりあえず大丈夫そうだな」

 そんな妹の姿に多少の無理を感じはしても、その気概を無視することはせず、瑞希もまた立ち上がった。

「さぁおにいちゃん、気を取り直して調査再開だよ!」

「(…これはつまり、さっきのことを聞かれたくないってことか…)…ああ、わかった。日没までの時間も限られてるし、今日中に出来るだけ調べるか」

 あからさま過ぎる妹の言動。だが、そこで蒸し返しても今は意味がないと瑞穂は考えた。

 もしも先程の事態が自分達に危害を加える存在や事象に依るものであったなら、瑞希はこんな風に誤魔化したりはしない。詳細を語らないということは、今語らずとも問題は無いと判断した上で、語りたくない、あるいは語る必要がないと考えたのだろうと。

 ならば、そんな妹がなるべく気負わずに済むように、その言動に乗るべきなのだ。

「うん。とりあえず基本的な調査は私がしていくから、おにいちゃんは周囲の警戒をお願い。あ、でも、気になったこととかあったら全然言って来ていいからね?」

「了解。なら早速で悪いんだが、さっき俺が樹を斬り付けようとしたときに考えたことってなんだったんだ?」

「ん?ん~とね…」

 瑞希は樹の根元にしゃがみ込み、草原に生えている草とは違う種類の、見た目はただの雑草にしか見えないものを観察しながら答える。

「樹自体を傷つけることで、毒性のある樹液が吹き出してくるかもしれないとか…、強い衝撃を与えた所為で上から虫が降ってくるかもとか…、そもそもこの森の樹を傷付けることで、森の主みたいな存在が怒り出すとか、かな。ちょっと希望的観測も入ってるやつだと、この広場を囲ってる樹にはモンスターとかが入れない結界の要としての役割があって、樹を傷付けるとその結界が壊れちゃうとかも考えたよ」

「…よくそんなことを、瞬時に思い付けるな?」

「まあ異世界モノだとあるあるな話しだからね~。ただ、樹の上から虫が降ってくるのだけは普通に有り得ると思うよ。地球でも山登りしてたらヒルが降ってくるとかよく聞くじゃん?」

「…それもそうだな」

「だから、樹に衝撃を与えるとかは当然として、普通に歩いてたとしても何かが突然降ってくる可能性があるってことを念頭に置いて移動しなきゃいけないの。もちろん、足元や周囲にも気を配りながら」

「あ、ああ。そうだな」

「あとは、なるべく互いの身体を観察するのも大事だよね。変な虫がついてないかとか、気付かない内に傷付けられてたとかもあるかもだし。っていうか、小説読んでるときには何も感じなかったけど、こうして実際に異世界転生してみると、平然と森の中歩くなんて危な過ぎて出来ないよね~」

「お、おう…。(…なんか、こっちに来てから、妙に饒舌になったな…)」

「特に女の子キャラ。今回は天使さんが用意してくれたこの服のおかげで助かったけど、スカートとか生足出して森歩きとか怖すぎて出来るわけないし!なんで今まで感じなかったのか疑問だけど、やっぱり創作物だからなのかな?」

「ん、あ、ああ。そうなんじゃないか?(…言いたいことは分かるんだが、微妙についていけない…)」

 そんな他愛のない話をしながらも、瑞希は手際よく調査を進めていた。

 雑草にしか見えない草であっても、見て、匂いを嗅ぎ、触れて、千切って、観察する。そんなことを、一つ一つ丁寧に行っていく。

 ちなみに瑞穂もまた、妹の話しをしっかりと聞きながらも、周囲の観察を絶え間なく続けていた。

「あ、おにいちゃん!見て!」

「ん?」

 そんな中、瑞希のあげた声に反応し、その指刺す先を見てみると。

「虫、虫だよ!」

 そこには、虫がいた。

「…マジかよ…」

 正確には、虫としか言い様のない見た目を持つ生き物がいた。

「うわ~、やっぱりこういうのも異世界だね~!地球じゃこんな虫見たことないし、なんかもう、すごいね!」

「…これを見て、笑いながらそんなことを言える瑞希の方がすごいと、俺は思うんだが…」

 それは、地球の生物で例えるならば、アリだろうか。

 全長は約10センチほどで、身体は3節から成り、足は6本。

 色は全身が毒々しい赤。頭部らしき箇所から数センチほどの触角を6本生やし、顎には見て分かる程度に鋭利な牙が左右に別れる形で2対。

 背中には1本、5センチほどの棘が天を向いて生え、お尻にも同様のサイズの棘、いや、こちらは針が生えている。

「…こんなに殺意満載な虫がいて、なんで笑えるのかね…」

 アリもどき(仮称)は溢れる殺意とは裏腹に、のんびりとした動きで兄妹の目前1メートルほどの地面を横切り、その姿生い茂る草木の塊に消えていった。

「え?いやだって、襲ってこなかったじゃん」

「まあそうだったけどさ。あんな物騒な虫がいる森を歩くって考えたら憂鬱にならないか?背中の棘とか、あれ踏んだらかなりヤバそうだし」

「確かにそれはあるけど、保護色ってわけでもなかったし、この距離で簡単に見つけられるからそこまで危険ってこともないと思うよ?それより大事なのは、私達の存在に気付かなかったなんてことはないと思うから、あの虫は人間がいても問答無用で攻撃してくるような生物じゃないってことが分かったことだよ。つまり、この森にいる生き物に対しての危険度がほんの少し下がったってわけ」

「…まあ、言われてみれば確かにその通り、か…?」

「さ~て、少し明るめな希望も見えてきたし、張り切っていこー!」

 テンションを上げていく妹に対して、兄のテンションは緩やかに下がりつつあったが、

「お、お~」

 それでも努めて明るく振る舞う妹につられ、兄妹は軽く笑みを浮かべていた。


――ガサッ――

「「!?」」


 森の奥から聞こえた異音に気付くまでは。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る