第9話「母さんと、アフレコ見学 後編②」
さて、場所は先ほどのファミリー・レストランからまたまた移り変わり、彼ら四人は店に踵を向け路上を練り歩いていた。
店内トイレでの死闘が繰り広げられた後、かなえはすっかり燃え尽きそれは白灰なんてのを通り越してもはや青色(ブルー・)金剛石(ダイヤモンド)のような顔色を浮かべていた。
目は虚ろで、口は建てつけが陳腐なドアみたいにぽかりと開け放たれている。
ボサボサに痛んだ長髪もそうなのだが、楽しい楽しい宴の代償として見るに明らかなのはその両脚のおぼつかなさにある。
己が身体の強制デトックスでアルコールはほぼほぼ抜け出ている。
しかし、後遺症として激しい頭痛が襲いそれに伴うべくして全身の、猛烈な虚脱感がかなえ本人の中にて纏わりつくこととなった。結果、かなえはその足元を絡め取られたようにぐだぐだと縺れさせてしまっていた。
当たり前だが、このような状況下においてかなえは歩くどころか立つことすらままならないのだ。
「国吉っ、さん。大丈夫っ、ですかあ? ……ほら、しっかり」
「まったく、もうっ。……あれだけ馬鹿みたいに飲みまくりゃあ、そりゃ、そうなるって」
へべれけのかなえを介助にと、彼女のマネジャーである福岡そして実の息子聖也らによってその御身は支えられてく。かくして、かなえは彼女の身内に肩を貸してもらう形で以って、ようやく地に足をつけるまでに至ったのである。
「あ…………あ、ああ足が、ふわふわ、浮いてるうっ。私は、カモメぇ?」
「うん、誰がどう見てもアホウドリって答えるよ。ほら、ちゃんと脚立たせて」
世迷いごとも甚だしいと言わんばかりに、聖也は自らの母親をいつになく辛辣な言葉を浴びせ鼓舞させようとする。
道路沿いの道にそんな感じで、福岡がかなえの右半身を。もう一方の左半身を聖也が。暗がりの続く都内を、三人四脚でひょこひょこと渡って往く。
そして、その一座から三歩下がった所を付いて歩く、珠希。ちなむとそんな彼女の右手には、未だに、あの時ファミレス店内のトイレ前で譲り受けた聖也の蒼いハンカチが握られていた。
そして、彼女の視界には彼らが嫌でも入り込んでくる。
木偶と化したかなえ。それからそんな彼女を懸命に支えんとす福岡と聖也の光景が、珠希のメガネにくっきりと映し出されていた。
マネジャーである福岡はともかくとして、自分とは推定同世代にあろう聖也が力いっぱいかなえを担ぐ様子を見、珠希は何も言えなくなっていた。
「…………。」
それから節目がちに、自己の中にて考えを巡らせていく。
ああ、どうして。
どうして、私はこんなにも何もできないでいるのだろう。
いつもよくしてくれているかなえさんには、今までもこれからも、感謝の気持ちでいっぱいなのだというのに。
どうして、たった今苦しそうに喘いでいるあの人に何もしてやれないのだろう。
私は、卑怯だ。
私は、身勝手だ。
私は、不謹慎だ。
……私は、馬鹿で愚図で鈍感で最低かつ最悪な女だ。
「……私は、」
不甲斐なさと膨大な憐憫が自己に、寄せては返すように絶え間なく訪れてくるあまり珠希はとうとう口に出し始める。
そのささやきは、万に30デシベルも満たないほどのか細い弱音でしかなかった。
しかし、そんな頼りなさげな音声は真夏の夕涼たるいたずらな風に運ばれ、途中で掻き消えることもなく眼前にいる聖也の耳にしかと届けられた。
「えっ?」
パッと、聖也が後方の珠希を振り見た。
「……っ! う、ううっ」
急にこちらを見遣ってきたので、予想外の事態にひどく困惑するあまり珠希は思わず顔をそっぽ向かせた。
固く目を瞑り、さあっと顔を紅潮させていく。
右手に内包せしハンカチはより一層、強く握り緊められてつぶれていくのだった。
一方、それらを一部始終余すことなく見届けたとうの聖也はというと、神妙な顔つきで珠希を迎えながらもこう考える。
(何か言いたげだったみたいだけど、わっかんないや。あ、そういえば、僕。
さまざまな思惑が知らず知らずの内、交錯しあうも、それらが絡み合う事はけして無い。
分かり合えそうでなかなか分かり合えないというもどかしさはというと、この場にいる誰もが思い、そして皆の共通認識として挙げられているものだ。
そんな彼ら四人は都内の道路沿いの歩道を、ただひたすら暗夜行路するばかりだった。
☆☆☆☆☆☆
「ふう、やっとトイレに行けたよ。おかげで、すっきりした」
そう言いながら、聖也は公園内の公衆便所の男性用出入り口から出てきた。
手洗いした直後そのままだったので、彼の手は未だ濡れそぼったままにある。
便所から少し距離を置いた所で、濡れた手を拭くべくハンカチを取り出そうとポケットに手を入れようとした際に肝心なことに気付いた。
「あちゃー、そうだった。ハンカチ、あげちゃったんだった」
途端に顔をしかめさせて、聖也はがっくりうなだれた。
それからはというと、聖也は観念したかのようにそのまますごすごと歩みを開始させちょっと離れた先のところで母を介抱してくれている福岡らの元へと向かった。
依然手は濡れたままなので、聖也は己が濡れ手を自然乾燥さそうと腕の先端を手折り滴りの生じている手元を下に向けながら歩いていく。
すると、聖也は自嘲気味に渇いた笑みを浮かべた。
「あはは……。なんか、僕ってゾンビ映画のゾンビみたいだ。夜もとっぷりと更けているし、全くもって今夜はスリラー・ナイトだな」
顔をあげると、空の遥か彼方にて満月が盛大に君臨していて、それらを中心に目映いほどの星々が深く青いキャンバスの上に敷き詰められてあった。
見遣りて、聖也はスッとした気分になり鬱蒼とした今日の出来事のあれやこれやが浄化されていくように思えた。
一旦、その場にて立ち止り、ふと自分が今まで通ってきたところを振り返った。
自分の足元近くにはついぞさきほど滴りたての、自分の手から零れた雫が路上にて留めていた。
そして、そこから点々と雫が続いてって、その彼方には先ほど来自分が出てきた公衆便所のところまでその軌跡が達している。
公園内の往復路にて等間隔で設置された電灯の明かりで照らされて、それによって雫は光を反射させることで以って、その存在をありありと示しているのだった。
それを見た聖也は、「なんだろ、汚いヘンゼルとグレーテルだなあ」と一言言って我ながら苦笑させていく。
やれやれと思いつつも、息をはらってから態勢を正して再び歩みを再開させた。
暫しの間、公園内の電灯の明かりをたよりに道なりへと進んでいく。
そうしていく内、やがてこの園内における遊具置き場へと差し掛かった。
聖也はそれに気づくと、置き場のすぐそこなところで立ち尽くし、眼前にて数々の遊具を見据えだす。
まず、大きさから言って二メートル強はあろうかという高さでそびえ立つジャングル・ジムが目についた。それからシーソー、砂場や鉄棒といった他の公園でも実に馴染みの深い遊具がならべられていた。
「へえ、こんな東京のど真ん中であっても、遊具とかはしっかりあるんだ」
感銘を受けつも、のんびりと感想を述べだす。
その後も、他にそこにて点在している遊具を目で追った。
遠巻きで見ていてブランコもあるようだったので、それにも軽く目を通す感じで視線をくれた。
すると、四人ほど座れる許容を誇る当のブランコにおいて、だれかが聖也から見て一番左端の所を利用していたのが見て取れた。
「あれ、こんな夜更けに……」
ふと気になったので、少し目を凝らして見てみる。
じぃっと、暗がりの遊具置き場の彼方にて配置されているブランコを穴が開くほど見遣った。
そうした中、段々とターゲットの実像がはっきりとしてきて、やがて全体の輪郭がくっきりと浮かび上がってきた。
そして、聖也はその正体を知ってあまりの予想外さに、目を見開いた。
それは、彼にとっては最早、他人ではなかったのだから。
「あれっ、 ————黒部さん?」
☆☆☆☆☆☆
意を決した聖也は遊具置き場の域内へと入り、現状珠希ひとりがいるブランコの下へと近づいた。
ゆっくり歩いていき、とうとうブランコの周囲を取り囲むようにして設けられた鉄柵の前までたどり着く。
聖也はそこにて立ち止ると、今度は、当の珠希の顔およびその風貌を観察し始める。
まず頭上から下げられた二本の鎖の先端にくくり付けられた座板にて、惜しげもなく座り込む珠希の様子がある。それだけで無しに、彼女は左腕で片方の鎖を掴むことでバランスをとっており、右手にはもう一方の鎖を掴んでいる様子は見られない。代わりに、その右の手中にて収められしは、携帯電話であった。正確には、先ほど来ファミレスにて貸し出したとされる自分のと思しき蒼いハンカチにより、彼女の携帯電話の全体が包み込まれているものだった。そして、とうの本人の意識はというと下に俯いた様子でそちらへと移行してしまっており、肝心の表情は聖也でさえうかがい知れなかった。
謎の緊張感が、ここ遊具置き場にて自然と横たわってくる。
そういったものをひしひしと感じ取りつ、聖也は意を決して、彼女に問うた。
「あ、あのさ……」
瞬間。
珠希はびくりと身体を震わせて、目の前に現れた聖也をまるでこの世のものとは思えぬ顔で見遣ってきた。正しく青天の霹靂と呼ぶに相応しいリアクションを彼女は取ってしまっていた。
「っ! や、やだ……なん、で」
そして、戸惑いを隠せない様子の珠希。慌てて、右手をポケットに突っ込み、携帯と彼の所有であるハンカチの隠蔽を図った。
自然と、もう片方の鎖を掴みとっている左手に力がこめられてく。
きりきりと音を立てて、鎖がとうの珠希の手によってしかと捻じれてくのを聖也は見届けていた。
そして、同時にこう思った。これは一肌、脱がねば! ……と。
まずは落ち着かせるべく、聖也は優しく、そして明確に言を述べていった。
「ま、待って。僕はっ、ただ近くのトイレに行ったついでにたまたま通りかかっただけだよ。だからっ、……お、落ち着いて」
「ほ、ほんとうに?」
珠希が目を白黒させながらも、聖也に聞く。
聖也は静かにうなずいた。
「もし、嘘だと思うんなら、この手を見てよ。……ホラ」
そう言って、珠希に向け手洗いしてからそのままな濡れそぼった手を見せびらかした。
次に珠希はそれを見て、それからようやく正気に立ち返ったかと思うと、徐にポケットへ手を忍ばせた。
それから、かつて彼に貸し出されたハンカチを返す形で以って差し出す。
「あ、あのっ、こ、これっ! よければ……と、言うか元々あなたのだけれど、どうか使って」
差し出されるままに、聖也はハンカチを受け取った。
聖也は、すがるような顔つきを帯びた彼女と彼女の涙が滲み込んだ蒼いハンカチとを、交互に見比べてからその場で説き伏せるよう優しい口ぶりで答えた。
「あのさ。ちょっと、話し合おっか?」
☆☆☆☆☆☆
それから、間も無く。
聖也は先述の言い出しっぺを実現すべく、ひとまずはとうの彼女の隣のブランコ
に居座りはじめた。
(とは、言ったものの————)
妙案を思索さす前提で、参考にと珠希を観察することにした聖也。
チラ、と聖也は静かに横を見遣り出した。
「…………ッ」
先ほど相変わらぬ様子で、所定のブランコに腰かけている有り様の珠希がそこにいる。背筋をピン、と張り詰めさせなおかつ両脚膝を直角に曲げそれぞれの足裏をきっちり地にくっ付けており、口元は頑なに閉ざされた印象である。
とりわけ、両肩を前へ突出させて肘を真っすぐ伸ばした状態で太もも辺りに据え置かしているので、大変窮屈そうな姿勢を取ってしまってた。
緊張を抑えきれない様子の珠希が彼の目に見てとれたのである。
彼女陣営での交渉材料の欠乏ぶりが如実に見え、逆に聖也はそれに対し辟易させざるをえなかった。
(参ったな。こんなんじゃあ話し合いどころか、碌に顔を合わせることすらかなわないよ)
ため息をグッとこらえつつ、いやいや、と「まだ話し合いは終わってない。むしろ、まだ始まってもいない」そんな風に考え方を改めあたかもいい風に捉えだした。
一旦は、間をとりなしてから、深々とそれから粛々に深呼吸させて心の準備を済ませる。
やがて、意志が明確に定まり、聖也の心には闘志によく似たモノがメラメラと滾り始めた。
それから、こう思えるようになった。
(やるなら、やらねば! ここから始めていかなきゃ、どこでやるって言うんだ)
はやる気持ちもそこそこに、意を決した聖也は傍でタジタジな様子の珠希に思い切って声を掛けてみた。
「あ、あのうっ」
すると、咄嗟に珠希が不意を突かれたようにこちらへと、振り返ってきた。
「……は、はい。なに、か」
そこはかとなく、身を震わす珠希を見据えだす。
「何か、あったの?」
「どうして、そう、思った。の?」
「……いや、だって、見てて明らかに辛そうな顔しているから」
「そ、そう」
「まあ、だから何か抱えてるんじゃと思って。あのさ、僕で良ければ聞いてあげない、こともないけど」
「べ、別に。あなたにそこまでされる由縁は」
相変わらず茶を濁す態度を表明する珠希の言葉に被せる勢いで、聖也は軽く腹立たし気にも強引にねじ込んでくる。
「『誰かに言うだけでも、それだけで救われたような気になる』……って、オバサンが言ってたよ」
それを聞くなり、あからさまに珠希は目の色を変え、問うてきた。
「えっ? く、国吉さんが、そんな、ことを……?」
「う、うん。まあ、今のは完全にオバサンの受け売りなんだけれども」
言葉をしたためてくと、珠希は途端に神妙な顔つきで聖也のことを見遣り始めた。
その後、一度だけ暗がりの地面に目をくれると、
「だ、誰にも言わないでよ」
ゆっくりと、聖也の方に顔をむけ、どこか恐怖をはらんだものものしい雰囲気で言い聞かせた。
かすかに震えた声により、より一層、聖也のなかで、緊迫した様子が訪れていく。
二、三度ほど首を頷かせ同意の念を示す。
「は、はい」
「あ、あのね……」
「はいっ」
「その、わたしっ」
「な、なんですか」
「わたし……親と、喧嘩してそれで、ね?」
そう言った珠希はその後、みるみるうちに顔を紅潮させて、咄嗟に頭を抱えるよう振る舞った。
「……ヒィッ! い、言っちゃった。とうとう、言ってしまった……恥ずかしいっ! キャーッ!」
黄色の悲鳴が、次々と珠希の口元から発せられては、それらが続々と聖也の耳元にと運ばれてくる。
(う、うっせぇ……むしろこっちが聞いてて恥ずかしいくらいだっての)
呆れた様子でそう思いつつも、先ほどまでの沈んだ様子の珠希とは打って変わりイキり始めた彼女の気を沈めんとして、精一杯同調している(風に装った)言葉を使い説き伏せていく。
「あ、ああ。なっ、なぁ~るっ、ほっど~。……うんうんっ、わかるわかる、わかるよ。だって、だって……そのっ、厚かましいくらいに面倒くさいよね、親って」
建前からでた文言を百パーセント鵜呑みにした珠希は、それに従って完全に心を向き直るのを通り越して開きなおった。
「それな―! ……あーよかった。わかってくれる人がいて、ほんっと助かる。ありがとっ。ありがと、ありがと、ありがとおっ!」
隣に居る聖也の手をひったくって、無理矢理握手へ縺れ込んでいく。
何度も、何度も、上下に一方的に握り緊めた手手を振り動かさせた。その力のあまり、彼女の座っている方のブランコの鎖が軋んだ音を上げてしまうくらいだった。
安穏とした笑みを浮かべ、たいそうほっとした態様で聖也に接する珠希。
それに対し、聖也は顔を引き攣らせながらも、同じく笑って応じた。
「あ、あははは、はあ。ど、どうも」
(なんだろ。この人はたった一人のはずなのに、なぜだか、大人数を一手に引き受けて応対しているような感覚だ。いろんなタイプの彼女がいて、そのくせ事あるごとにコロコロと態度を変えられる。気分屋って言うか、情緒不安定なのか……)
彼女における目まぐるしい態度の変遷を垣間見た聖也はというと、なんだか、どっと疲れたような気分になるのであった。
身も心もクタクタになった気分に浸る聖也。
一方で珠希は、逸る気持ちをどうにか抑えて、改めて聖也にと弁解を始める。
「あ、ああ、ごめんねっ。ひとりで盛り上がっちゃって……まあ、なんていうか、親と喧嘩したってのは別に今始まったことで無くってね? 前々から関係は冷え切ってて、そいでもって、それが今の今まで縺れ込んじゃってるってのが、真相。今朝なんか寝てるところに電話かけてくるもんだから、おかげさまで呼び出しベルにたたき起こされちゃって。も~、最悪の目覚めったらありゃしない。朝食ついでに母親と一発バトってから、電話を途中で切り上げて今日のアフレコに来たんだけど。でも、今朝がたあんなことがあった手前で頭の中はそのことでいっぱいいっぱいになっちゃってて、肝心のお仕事に集中できなかったのね」
「な、なるほど」
彼女から直々に種明かしをしてもらい、徐々に溜飲を下げていった。
と、同時に聖也は、漠然とロビーでのファースト・コンタクトの場面を思い返していた。
『いや、私も実は考え事で頭が回らなかったもので……だから、あまり気負わないでください。私のほうこそ大変ご迷惑をお掛けいたしました。』
(考え事って、つまりそういう事だったのか。どうりで、なんかあの時は心ここに在らずみたいに思えたんだよなあ)
あえて、口には出さず胸の内にてその考えを留めた聖也。
そんな彼をそのままに、珠希は弁明を続けた。
「うん、それで、ね? アフレコも無事終わって、国吉さんからも打ち上げに誘われてホッとしきったのもつかの間、また、ケータイから親の連絡が入ってきちゃったワケ。……もう、タイミングが完璧すぎて軽くゾッとしたって言うかうんざりというか、ね」
「あ、ああ。なるほど」
相槌を織り交ぜつつ聖也は彼女のそんな言葉を受け入れ、言う。
「なかなか席に戻って来なかったのは、そういった経緯があったからなんだ」
すると、申し訳なさそうに珠希が返す。
「ええ……おかげで、国吉さんには誘ってもらったってのに逆にひどいことをしてしまったわ。ほんと、こんなはずでは、なかったのに」
「いや別にそこまで気に病む必要はないと思うよ? だって、向こうも多分そんな風には捉えてないだろうし」
「そう、かしら。だって、私みたいなこんな辛気臭い女がいけしゃあしゃあとあの人に接するなんて、返って分不相応もいいところじゃないかしら」
「母さ、オバサンはそんな難しいことなんて最初っから眼中にないよ。あの人は、ただ単に自分の享楽を相手とも共有しあいたいってだけ」
「……ねえ、その言葉、私信じていい? ほんっとに、ただ、それだけなのよね」
そんな珠希からの懇願にもにた問いに対し、聖也は一度だけ頭を頷かせていく。
「本当も本当、ってかそもそもそんな辛気臭いだの云々抱いてたなら最初っから打ち上げにも誘わないと思うな」
「————————。」
珠希はその事を聞いて、まるで脳天にて稲妻が降り注いだかのように動作を麻痺させた。ハッとさせて、咄嗟に言葉に詰まる彼女である。今の今まで自分本位になりすぎてしまったが故に、周りのことがまったく見えなくなってしまったのだと悟った。
当たり前だからこそ、眼中になかった。人の『やさしさ』というものの、かけがえの無さに。
当たり前だからこそ、ついぞさっきまで見逃してしまっていた。かなえが自分に対して注いでくれていたこの感情は、他でもないかなえからの「寵愛」そのものに他ならないということに。
(そっか、国吉さんは最初っから私に対して……なのに、それなのにっ)
「~~~~っ」
身体を小刻みに震わす珠希。
「ど、どうしたの? ねえ、」
それを気にかけていた聖也。
すると、珠希の頬を伝い熱いものがふつふつとこみ上げられてきた。
「う、ううううっ、わ、私って、さ、最っ低ィ……! ぐすんっ、ひっく」
「いやいや、そ、そんな事ないって。だって、ねえ」
「ごめんなさいっ。国吉さんっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
嗚咽交じりに、かなえに対しての謝罪の弁をうわ言のように珠希は口にしていく。
(そんなこと、僕に言われたってどうすりゃいいのさ?)
そんな風に感じ取りつ、聖也は珠希にあまりにも居た堪れなく感じたあまり、先ほど来彼女から寄越されたハンカチを再び彼女の元へ差し出していた。
「ちょ、ちょっと失礼するよ……」
「ぐすっ、ぐすっ……。ごめん、なさいっ」
聖也はそれから幾度となく、珠希の頬に自分からハンカチをあてがわせて涙をふき取る作業をこなしていた。
ハンカチ越しに彼女の顔が熱くなっていくのが、文字通り手に取るように分かった。
泣いて泣いて、涙に明け暮れる珠希。
そんな彼女の涙を一滴たりとも取りこぼさんとする聖也。
傷心した様子のふたりをあざ笑うかのように、夜の公園内にてセミ共の大合唱がいたるところでこだましきっていた。
「……メガネ、取るね? 邪魔だから」
「うんぅ」
聖也の呼びかけに、珠希はしくしくと応じた。
耳掛けのフレームにそれぞれ手をあてがうと、ゆっくりと、なんとなく鞘から刀身を引き抜く感じでメガネを珠希の顔から離してく。
メガネを取り外した後、じっとその顔を見やる。
涙雨と脂汗の湿地帯と化した珠希の上っ面はというと、目じりは赤く腫れあがり口元は悲痛さのあまり歪んでおり深い皺をきたしていた。
「拭くよ? いいんだね」
「ぅわあ、んっ」
何とも言えない複雑な気持ちを抱きつつも、濡れそぼったその顔を拭っていく。
特に目元はポンッポンに膨れきっていたので、細心の注意を払いつ軽ーくハンカチをあてがってやった。
途中で、御留守っぽくなった左手にて掴んだままの彼女のメガネにも気を配り、そのメガネをそっと珠希のひざ元へと添え置いた。
「これ、メガネ。返すよ、ほら」
「あ……あり、がとう」
それからそんな感じで、ハンカチを珠希の顔へと当てがい続ける聖也である。
しばらくして、いい加減珠希も泣き止んできて、顔の紅潮も呼吸の乱れもいい感じに収まりがつきはじめてきた。
「もう、気が済んだ?」
「うんっ、お陰様でね、ありがとう。それと……あなたもごめんなさい、今朝あんな風に、ぶっきらぼうに接してしまって。今更猛省しているし、後悔だってしてる。本ッ当に、申し訳ないと心の底からそう思ってるわ」
「もう、いいよ。気にしてないし、それに、もう十分伝わったよアンタの思いは。こちらこそ、ありがとう。うちの母さ、オバサンを大切に思ってくれて」
謝罪と謝礼に満ちた挨拶を聖也はゆっくり受け止めて、やさしさでもって珠希へ返した。
静かに沈黙が舞い降り、雨降ってとうに地も固まったふたりの間に涼やかな夜風が吹き付けた。
いたずらな風に遊ばれるふたりは、それに気分をよくしたようで、ともに安らいだ感じに微笑みあう。まず聖也が切なさそうに笑んだ。
「へ、へへっ」
それから、珠希もそれにつられる形でもって、顔を綻ばせる。
「ふふん、うふふふふっ」
真夜中の公園に身を置いていれど、ふたりはその状況に物怖じひとつせずにしっかりと向かい合っていた。
いつの間にか、耳障りだったセミの音もすっかり鳴りやんでいたのだった。
それからしばらく経って、聖也が口を開いた。
「そういえば、さ」
「えっ、なあに」
「うーん、今更蒸し返すみたいで申し訳ないけど。さっき親のこと言ってたじゃん。で、その時アンタが親と喧嘩したって言ってたんだけれど、ちょっと疑問に残ることがあったんだ」
「あー……そう、ね。確かにそんなことも言ったっけね。それがなにか」
「ああ、うん。……そいでもって、なんか、今朝から電話がかかってきてー、って言ったよね? 普通親も一緒に住んでるんだから、いくら関係が冷え込んでいても直接対話はするもんなんじゃないのかって思ったんだけども。なんでかなって、そんだけ」
その後、珠希は顔をハッとさせて、補足がてら聖也に答えた。
「そういえば、言ってなかったっけ——————ウチ、親とは離れて暮らしてるって」
一旦、静寂が周りを飲み込む。
それから、聖也の驚愕の音声がたいそう夏の闇夜にこだました。
「えっ、あ……エエぇ————ッ?! う、うそでしょっ」
対して、珠希が申し訳なさそうに笑って返した。
「ほっ、ほんとうだって。本当も、本当っ! 私、今マンションで一人暮らししているの」
「一人暮らし……よもや、そのような若さでっ」
衝撃の事実のあまり、驚愕を身に宿してるとさらなる衝撃の事実が聖也の小さな体躯にと差し迫ってきた。
「若さ、って。うん、まあ、一応私もまだ十二歳そこそこなわけだから。そう、ね……」
「じ、じゅうにさいぃ?! マジでッ、僕と同い年そこそこじゃんか」
(僕よりちょっと年上だと勘ぐってたのに……本当、今日は驚かされることばっかりな一日だ)
そんな風に捉えていると、ふいに珠希からもこんな驚きの声が挙げられた。
「あっ、同い年だったんだ。ごめん、ずっと年下相当だとばっかり」
思いもよらぬ辻斬りが、聖也のコンプレックスにヒットするも辛うじて堪え、また改まって珠希のほうへ向きなおる。
「ふっ……ふぅ~ん、面白いね。十二才そこそこでマンションにひとり暮らし、おまけにせ……声優もやってるなんて」
「ふふっ、この年にして親とうまくやってないって知って、どう? 正直、みっともないったらありゃしないわ。そう、でしょ?」
「いやっ、全然? むしろ、逆。感動した」
「ええっと、そこまでかしら?」
困惑した空気を纏わりつかす珠希。
そんな様子の彼女を差し置き、聖也は期待と興奮とで滾らせた心持ちで両腕をぶんぶん振り回してその逸る思いを動作に変換させた。
「だ、だってっ。その若さで一人暮らししててなおかつ、仕事もしているなんて、すでに自活しているってことじゃんか。自分用の携帯もあるわけだしっ、なんかもう大人の仲間入りを果たしてるって感じだよ」
「……言っておくけど、私は普段ちゃあんと学校にも行ってるわけだから、別に仕事っつったってそこまでは、」
「へぇ——っ、学業と声優業とを両立させてやってるのか。いいなあ、カッコいいなあ……」
感慨深いあまり、聖也は間延びしたようなため息を織り交ぜつ、賞賛と羨望に満ち満ちた台詞を彼女へ贈った。
対して珠希はというと、控えめに彼の言葉に頭をふるもあまり満更でもない表情を浮かべあしらい始める。
「ほ、褒め過ぎよ褒め過ぎっ。だいだい私の住んでるところなんて賃貸だし、家賃や敷金礼金なんかも全部親にケアして貰ってるわけだから、とても自活なんて……。だから、せいぜい、今回みたくお仕事があった際にもらうお給料で自分が消費するものものを買ってやり繰りすんのが、関の山ってわけよ」
そうした珠希の態度も顧みず、聖也はずずいと頭を突き出させてさらに深く聞き出そうとした。
「ち、ちなみに、いくら貰えるもんなの?」
はぁ——っと、ややつかれたみたくして息を吐きそれから渋々応じた態様で突出した聖也の頭へと同じく顔を近づけ、耳元へそっと言を打つ。
ゴニョゴニョゴニョゴニョ…………。
すると、
「……う、うわあ。そ、そんなすんの?! ハェ——、すっごい」
驚きのあまり、本性を隠し通せれなくなるほどだった。
その金額は、世間一般的に考えても聞く人によるとおよそシビアであるが、今の聖也のように生まれてこの方日雇いの経験すら無くおまけに小学生高学年相当な人種からすればおおよそ疑う余地すらないほどの大金っぷりと窺える代物であった。
一方で珠希は、そんな彼をまるで対岸の火事を見遣ってるかのような眼差しで出迎えた。
「い、一応、言っとくけど多分あなたのオバサンも同じギャラでやってるはずよ?」
聖也はさらに驚いた様子を見せた。
「えっ!? ……そ、そうなの」
「そもそも、アフレコの現場ではセリフが最も多いとされる主役級も、一言二言しかないようなモブの役も基本給は変わらずお値段据え置きってのが現状ね。極端に言うと、早口で十分以上にわたりのべつ幕なしフレーズをべらべら口喋ろうがマイクの前に立ってたった一回息吹きかけるだけでもそれらは皆同等の金額で扱われるってワケ」
…………!
目をかっと見開き、聖也はまるでこの世のものとは思えぬものを仰いだように珠希を眺めた。
「ぼ、ボロい……っ! なんて、ボロい商売……っ! どれだけやろうがやらなかろうが、ギャラは同じなんてっ……!」
「まあどこもそんな感じよ。おかげで、こっちからしたらこれ以上にないくらい美味しいとこどりができるから、かえって願ってもないことだけどね」
「はっ、”どんな過程を経たとしても、最初と最後が同じであればその仕事量は変わらない”……もしかして理科の授業で先生が言っていたこれがもしかして、”フックの法則”というやつかっ」
「……それ多分違う、そんなんじゃない」
だんだんと、雑多な雰囲気がはびこり始めてきており先ほど来彼女から発せられた辛気臭い空気はどこぞへ置いていってしまったようだった。
しばしの間にわたって、聖也と珠希はそんなふうにくだらない話をし、互いに盛り上げ合うのだった。
☆☆☆☆☆☆
それから幾ばくかの時間が流れ、聖也と珠希はふたりしてかつてのブランコが設置されし遊具場を後にしていた。
あたりは暗いから、と言って聖也が男らしく彼女を先導すべく彼が珠希の前に位置して後ろに控えてる珠希の腕を引っ張って歩いていた。
ちょうど、そんなときである。
「ま、まってっ」
その言葉に聖也は、さっと振り向かせた。やがて立ち止って、
「え、どうかした?」
「……放して、よ」
「あ? う、うんわかったよ」
パッと、聖也がそれまで掴んでいた珠希の右手首から己が左手を引っぺがした。
すると、
「……いたい」
珠希は顔を俯かせ、その自分の右手首を見遣って言った。そんな彼女の手首にはちょうど自分がさっきまでその部分をつかみ取ったとされる跡がくっきりこびり付いているのが、ちょっと遠ざかったところにいる聖也でも確認できた。
途端に、申し訳ない気持ちに晒され、聖也は謝罪しようとした。
「あっ……! ご、ごめっ」
しかし、そんな彼をよそに珠希はすっと手を自分から差し出してくる。
「こ、これはいったい」
呆気にとられた、聖也。
それから、珠希が付け加えてきた。
「手を繋ぐんなら、ちゃんと手を繋いでっ。同じ歩幅、同じペース、それから同じ立ち位置でもって歩きたいの」
「……はい」
すごすごと、その手を取ると、再び彼らは夜の公園内を歩き出した。
「えっと、黒部さん……でいいかな」
「私、自分の名前の黒部ってあまり好きじゃないのよ厳つくって。だから、珠希でいいわよ」
「じ、じゃあ、珠希さん。あの、多分こんなこと言っても「ウチはウチ、ヨソはヨソ」なんて思うかもしれないけれど、きっと珠希さんの親御さんはあなたを責めたいばっかりに言ってるわけではないと思うんです。それは、やっぱり、親心ってものの一種の現れのような気がするんです」
珠希は目をぱちくりと開けたり閉じたりを繰り返しながら、黙って聞いていた。
「…………。」
「僕の家なんかだと、むしろ両親が家を空けてることが多くっておまけに向こうから連絡が入るだなんて、それこそそんな滅多にあることじゃないんです。せいぜい、家の電話から「なにか家で変わったことはあったか」とか、「今日は遅くなるから先に寝てて」とか連絡が入るくらいで……多分、両親は僕のことをわりと信頼しきってる節があるんですね。ちょうど、珠希さんのとは正反対な感じに」
「じゃあ、あなたはこう言いたいの? つまり……あなたはいわゆる良い子だから両親から全幅の信頼を勝ち取っているのであまりうるさく言われない。逆に私は悪い子だから、いつまでたっても親にとやかく言われる……って」
珠希はだんだんと声を震わせながらも紡いでいき、無意識に手を取り合う聖也の手を締め付け始めた。
ハッとした様子で聖也は即座に、否定の意志を見せた。
「とんでもない! そういうことではなく、僕が言いたいのは、珠希さんとこは親としてすごく理にかなった役割を担ってるってことなんです」
「あら……そ、そうかしら」
「そうですよ。親が決まって子供に対して口うるさくいうなんて、絶対そして確実に子供を守ろうとして言っているんですって。だから、今日珠希さんとこうしてお話をさせていただいて僕自身大変羨ましく思ったくらいなんです」
「う、羨ましい……?」
思ってもなかったことを言われ、珠希はかつてないほど困惑していた。
すると聖也が畳みかけていくかのように、珠希に改めて向き直っていわしめる。
「ですから、珠希さんっ。家にかえったら、すぐあなたの親御さんのほうに電話をかけぜひともお話をしてあげてください。なんでも、包み隠さず、洗いざらい全てをお話ししてあげてくださいっ! ……恐らく、全てを納得させるまでには至らなくとも、きっと理解はしてくれるはずです。それに、珠希さんに携帯電話をもたせた理由もなんだか、僕分かるような気がするんです。もちろん、珠希さんの親から珠希さん本人へと連絡を行き届かせやすくしたかったのもそうでしょうけど————————珠希さん、なによりあなたから直接親もとへと連絡を掛けやすくさせたかったんじゃないかって、僕は思うんです。例えば、なにか悩み事とかを気軽に相談できるように、とか」
「わ、わたしから……そんなこと、一度だって考えたことはなかった」
珠希はなんだか核心を突かれたように、そして全てを見透かされてしまったように聖也から言われ、漠然と口を開かせた。
「……ま、まああくまでもこれは、僕の予想ですから。そうでなければ僕の単なる絵に描いた餅にしか過ぎませんし」
「……分かったわよ」
「えっ?」
「だ、だから、次からは私から親のほうへと電話を掛けてみようって言ってるの。ま、まあそれまでに少しいろいろ考えておかないといけないけれど」
「そう、ですか。なんだかすみません、せかしたみたいで」
聖也からの言葉に珠希はゆっくり頭を振ってから、答える。
「う、ううん。むしろ、スッキリした気分よ。なんだか突然道が開けてきたっていうか……まあ、なんていうか、ありがとうっ」
珠希はいたって健やかそうな笑みを浮かべ、言葉を述べる。
それから、聖也もそれに応じるべく、咄嗟にはにかみながらも応じてみせた。
「ど、どうも」
こうして、ふたりは軽やかに公園内の道を。
ならびに、そんな自分らを恐らく待ち迎えてくれているであろう、かなえ・福岡らの元へと向かい突き進んでいった。
☆☆☆☆☆☆
同公園内、往復路にて設置された複数台あるベンチのひとつにて。
マネジャーの福岡が座っており、同じくそこにおわしたかなえが福岡の膝を枕代わりに盛大に寝そべっていた。
すでに消耗しきったかなえは自分のためにと介抱をしてくれた福岡に対し、呼びかけた。
「……ねーフクフク」
「なんですか? ……国吉さん」
「私って、なんでお酒を飲むんだと思う」
「えっ、そりゃあ好きだからじゃないんですかね」
「……単に、好きだったならなにも吐くまで飲むこたぁないわね」
「は、はあ」
「違うの、いーいフクフク? 私はね」
「……はいっ」
「…………幸せになりたいの、よぉ」
そう言って、かなえはわけもなく涙をボロボロ溢れさせた。
福岡はそんな
「はぁ……っ」
ため息をひとつふかせて、それから満天の星空を見上げこう言った。
「黒部さんに、それから聖也くん。早く帰ってきてぇ……!」
”親の心、子知らず” まして、その逆も然りて更なり。
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