第8話「母さんと、アフレコ見学 後編①」

 どうにか収録のほうは、無事クランク・アップとなり、その日あったアフレコの全行程は終了した。


 収録後に、かなえは共演者であるふた回り歳のはなれた後輩である珠希を打ち上げにと、スタジオからほど近いチェーン系のファミレスへ誘った。


 ちなみに珠希の他にも、かなえのマネジャーである福岡、そして自身の息子の聖也らを引きつれて、やってきたのである。


 当のファミレスに入って暫く。


 かなえは幹事然といった調子で、なみなみとビールが注がれた己が大生ジョッキを豪快に片手で担ぎ上げつつ言った。


「それじゃみぃんな、今日はホントにお疲れっサマー! はっピィ――――スっ!」


 先ほど来の音頭の後に続くようにして、そんなかなえの隣を陣取る福岡も中生ジョッキを掲げ、ハニカミつつも口にする。


「ふふっ、はっピィスっ」


 ご機嫌な様子である、かなえ・福岡両人。


 しかし、一方で、そんなアダルトペアにそれぞれ向かい合うようにして座っていた珠希及び聖也括りのヤングペアはすっかり置いてきぼりを喰らっていた。


「…………え、えっと、あのっ」


 向かい側をただただ、きょろきょろ見、惚ける珠希と、


「…………。」


 躊躇いも、迷いなんかも一切合切捨て去り、むしろ無の境地へと達したようなスッキリした面持ちの聖也。端から見れば、「なんとテンションの対照的なコンビ同士とで向かい合ってるんだろうか」と思わざるをえない、そんな感じである。


 聖也は、自らが店内のドリンクバーで選別した、グラスに注ぎ入れたコーラを無意識に見遣った。


 和らげでほの暗い水面にて、炭酸を秘めた泡沫が底の方からやってくると、冷房の利いた外気にふれてたちまち、相次いではじけ飛んだ。


 すると、今のいままで、閉じ込められていたその芳醇な甘みを含んだ空気が晒されそこはかとなく彼自身の鼻腔をくすぐる。


 コーラ由来の爽やかな香りで脳を刺激された聖也は、己の中で思考を加速度的に移行させてった。


(まあ、母さんもよかれと思って『乾杯』の音頭取ってるつもりなんだろうな。でも、今の僕らには、ハードル高すぎるって……いくらなんでも)


 ちらりと脇に視線を仰ぐ。すると、そんな彼の隣にて、珠希がなんとも肩身を狭そうにしているではないか。


 完全に両肘がテーブルにてひっついた状態で、かすかに震えた両手には、アイスティーの入ったグラスがわなわなと流動してく様子が垣間見えた。


 目の前には大物声優でなにより己の先輩としても一目置いている、あの国吉かなえがいる。


 そして、自分の脇にはそんな大物の先輩である彼女のコネを利用してキャスティングにごり押したという、ありもしないメロドラマ張りな設定で見当をつけて難癖を吹っ掛けてしまった彼聖也がいるというこの状況。


 天井知らずの期待感と、底なしの罪悪感とがいっぺんに押し寄せてきたことで、珠希は完全に己のキャパシティーを超えてしまったと判断するに至った。


 結局のところ、それらを抱えきれないあまりすっかり顔を下に俯かせ、珠希本人にはやり場のない緊張感ばかりが渦巻くのだった。


(……ま、そういう反応が普通だよ)


 隣の彼女を見、しみじみと聖也は思う。致し方なさそうに、目を瞑らせてみた。


 すると、いやいやオイオイと、やるせない空気を醸し出す彼らに突如としてかなえが申し立てる。


「こぉ~らッ、なぁに、しいんと静まり返っちゃってるわけっ?! 君ら若い衆が盛り上がらずに私だけ盛り上がっちゃってどうすんのさっ」


 吃驚した拍子に、軽く閉じていた瞼を、聖也はすぐさま開け放つ。


 ためらいつつも、実の母に向き直って言った。


「ご、ごめんなさい」


 ついでに、隣にいる珠希もそんな彼にやや遅れ気味になるも、謝罪の言葉を口にする。


「…………すみません」


 すっかり浮かない雰囲気がまとわりついた彼らを目の当たりにする、かなえ。


 それらを見、逆に観念させられた様子になりながら、ため息をこぼしつつも口を利かす。


「ま、別に、いいんだけどさ。……んーと、それじゃあ、ねえ、改めてふたりにも言って貰おっかな」


 腕を組んだ様子で、何の気無い感じにそう言ったので、訊いたとうのふたりはすっかり呆気に取られるのだった。


「『えっ』」と、互いに意図せず音声が重なりあう。


 微かに訪れた沈黙に晒されるも、懸命に、聖也が意図をくみ取ろうと聞き返した。


「……なにを?」

「だーかーらぁ、はっピィスだよ、はっピィースっ。 “ハロー・ピース平和にごあいさつを”略して、“ハッピース幸福であれ”……だかんねっ?」


(そんな大層な願いがこめられてたなんて)


 物心ついたころから聞かされ続けた、単なる放言と思えていた単語に予期せぬバックグラウンドが垣間見えた瞬間であった。


 すると、それを聞いた福岡は突如として、次のように大仰な様子で叫んだ。


「あれ、そんな大層な願いが込められてたんですかっ?!」


 ナイス、代弁。


 心の中で、己が母のビジネス・パートナーに対し、そんな感じに言葉を捧げる。


 すると、彼の隣に居た珠希が徐に口を開け始めるのだった。


「は……」


 瞬時に彼女の言を察知し、バッとそちらへと首を振り動かした。


「はっピィス……ですか」


 偉人が言い残した箴言よろしく、しかと先の言葉を噛み締めるよう言った。


 そんな様子が、彼女の傍に座ってた聖也には、よもや滑稽だの剽軽だのを通り越してそういう彼女の実直そうな見た目も相まって、一層クールっぽく思えたのである。


 そして聖也は、そんな彼女を傍目に一抹の胸騒ぎを思い出した。


 それは、彼女がそれまで机の上に置いていたアイスティーを片手で持ち上げ始めた段階で巻き起こった。両手で以って固定していたグラスをひょいと片手で掲げると、もう片方の手がまずお留守になる。


 すると珠希は、しげしげと徐に指を折りたためてく己が左手を、意味深長に見遣り始めた。


 その様子を目の当たりにした聖也は、心中大慌ても大慌てで、極度に焦り出す。


(えっ……ちょっと、ちょっと! 何するつもりだ、いったいなにを、まさか。いやっ、そんな馬鹿な、ありえない。まさかっ)


 緊張により、心臓の拍動がけたたましくそして篤く、乱れ始める。


 聖也の生命のポンプからはかつてないほどの量で、血流が下から上へと押し上げられてく。


 脳内では、脈拍音という名の警鐘が彼の頭蓋内全域にてがなり立てていた。


 気分はもう、内分泌系の第三次大戦が勃発したとでも、言うべきなのだろうか。


 そうしてく内に横の珠希が徐に言を発し出す。


 おまけにそんな彼女の左手が、人差し指と中指を立たせてピースサインを作り出そうとするのが見てて分かった。


「は……」


 すると聖也の不安感が、彼の中にて加速し始めた。


(まさか……)


「は…………」


(まさか…………?)


「は……………………」


 肝心の珠希の右手には、自前のアールグレイが淹れられたグラスが握られてあった。それと、左手にはそのピースサインをありありと示されてるでないか。


 聖也の緊張と切迫さはついぞピークにまで達する。 


(まさか……………………っ?!)


 そんな、彼の“まさか”は見事的中した。




「…………………………………………はっ、ピィスッ」




(や…………………………………………やりおったあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!)


 胸中で、その衝撃とともに文字通りの阿鼻叫喚が轟いてく。


 聖也の目は完全にひん剥かれており、口元はというと事切れる寸前な鯉とか鮒と言った淡水魚よろしくパクパクと、痙攣をきたしていた。


 そんな様子で隣を見遣っていると、とうの彼女は自分でも、柄にもないと言わんばかりに顔を真っ赤っかにさせるほどの漲りようである。


 それから、ゆっくりと、彼女のペースに則って彼女の両手が下へ下へと下ろされてく。


 改めて、机一枚隔てた向かい側にいる、かなえに対して確認を乞う。


「あ、あのっ……これで、よろしかったですか?」

「うんっ、明かよろしいっ! ばっちりばっち、グー! ……だーけーどーもー」


 そう言った矢先、突如かなえは表情を甚だ不服であるといわんばかりな感じに一変させる。それから、ケッタイそうな顔つきをそのままに、向かいの聖也へと無言の抗議を呈す。


 そんな様子な実の母親に対しややうしろめたくなりつ、毅然と寄越してみた。


「な、なにさ」


 すると。


 それからかなえは、まるでタガが外れたみたいに、聖也に抱いていた思いの丈を炸裂させた。


「なにさ、じゃありませんっ! せっかく珠希ちゃんが、勇気を振り絞ってやってくれたのに、どーしてっ!? マサくんはやってくれないのんっ!?」

「ええっ、僕もやるのォ?!」


 実母から贈られてきた熱烈なラブコールを、聖也は、バツが悪そうに受け止めざるを得なかった。


「あったりまえだのクラッカーだよ。ひとりだけ、逃げようとしたって、そうはイカの金科玉条っ!!」


 いつになく強い口調で迎えてくる、かなえ。


 と、同時に、ちょうど軽く気圧された感じになっている息子の眼前へと人差し指を思いきり差し向かせてきた。


(……イカの金科玉条ってなんだよ)


 突発的であろう、かなえの創作慣用句に対し小首を傾げつつ、聖也はすっかり辟易とした目でその先を見据えた。


 そして、


 次に彼の瞳にて宿したものと言えば、一瞬黙りこくっていたかなえが、再び口を開く様子だった。


「……やっぱり、『そうはいかんざきっ!!』のほうがプリチーだった?」


 キョトンとした態様であたったかなえが、己が造語から乗り換え温故知新、と言った感じでかねてより存在し得る言語を息子に対し明示しだす。


 一転して、大衆に擦られまくったかつての死後を耳にしたことで、辟易とした感情が彼聖也の心にて沈殿してった。


 ため息を掃いつ、すっかりとうなだれた様子の頭部の額に手を押し抱くと、呆れたように聖也は答えた。


「どっちでも、いいっての……」


 結局。


「はっ………………………はっピィスっ」


 流れと、雰囲気。そして、何よりも実母であるかなえにて発せし脅威的同調圧力によって、聖也の背丈がごとく小さな意地は書いて字の如く圧し潰された。


 それを見たかなえは、途端に、瞳の潤みの上にて満天の星屑をピカピカ煌かせた。


「はいっ、よーく出来ましたっ! ほんじゃ、まあ、最後にみんなでぇ~~……」


 かなえと福岡、それと、彼女らの真向かいにて据えあってた珠希ならびに聖也。


 彼らの手にはとりどりの飲みものが注がしグラスが掲げられている。


 音頭を取るかなえの言葉を、合図にと、皆が待ち望む。


 漠然とした沈黙が取り巻いた刹那、言い出しっぺのかなえのコールを皮切りに、四人分の重なった乾杯の音声がたいそう炸裂した。





「『はっピィィィィ――――――――――――――――――――スッッッッ!!!!』」





 ☆☆☆☆☆☆


  そして、かなえ一行の催しが開かれて、最初の乾杯から二時間弱ほどが経過する。


 現時点で、打ち上げはというと現段階で宴もたけなわに差し掛かっていた。


「ホォラ、フクフク~。もっと、のみなってぇ~」


 絡み酒の延長線として、ふいに、かなえは福岡に悪魔の囁きを差し向けてきた。


 ヒョイと、ファミレス店内のテーブル上にてそれぞれ用意されてあった、薄く透明なアクリルフィルムの中にはめ込まれた“世界のビール・フェア”と銘打たれたメニュー表をマネジャーにこれ見よがしにと、提示してくる。


 新宿界隈にて幅を利かすキャッチを彷彿とさすかなえを脇に、福岡は、至って冷静に応じて見せた。


「すいません、私この後事務所に戻って少々片付けねばならないお仕事がありますのでちょっと、」

「わたしちゃんと、呑むのも一端にお仕事だぁ~~い! それにぃ、フクフクなら酒をカッ喰らったあとで仕事片付けるなんか、余裕のよっちゃんだいっ!」


 躱そうとした福岡を逃がさんとばかりに、強く言葉をおっ被せてくるかなえ。


 そんな往年のギャグを吹聴さす彼女はと言うと、円らな瞳を重だるそうに見開かせ顔を含めた、首のつけ根から頭のてっぺんまでをすっかり紅潮させている始末だ。


 まさしく、誰がどう見ても一端の酔っ払いだと判断できるくらいの、見事な酔いどれっぷりである。


 しかし、そんな無茶ぶりを前に、当の福岡は全く意に返す様子もなかった。


 やれやれまたか、と。


 自身の中にて、お馴染みの光景となりつつある彼女の反応に対し、こちらも負けじとこの場を切り抜けるための、とっておきで十八番の言葉を言い放つ。


「……それ、社長の目の前で一言一句全く同じ文言で、言えますか?」


 途端に、かなえは押し黙ってしまった。それからその場にて腕を組みあたかも長孝してるかのごとく決め込んだ。


 それらをテーブル一枚隔てた辺りで傍観していた聖也は、注文したジェノバ風チキンピザの一切れをみつつ、思った。


(多分、何も考えてはいないだろうな。……盛大に、お酒ぶち込んどいて冷静に処理できる、そんなアタマじゃあるまいし)


 そして。


「ん~~~~、無理ンッ!」


 自身の胸の前にて、両腕ででかでかとバッテンを作り言う。


「さすがに、あの松平鬼軍曹……いやっ、松平女社長に対して『ガンガンいこうぜ』って対応は洞窟内でルーラ使っちゃうのに等しいわけで」

「だからいつも私をふくめた社員一同、あの女社長に対しては『いのちだいじに』ってコトで一致してるんです。そんなことは、レベル1にもかかわらず、ひのきのぼう一本でゾーマに楯突くのと一緒ですもんね」

「まーねぇ~。あの人のクレイジーは今に始まったことじゃないからっ。でも、そっかぁ。フクフクゥ、この後もお仕事があるんだなんて、大変だなあ」


 そこまで言うと、かなえは再びジョッキを口元へ差し向けつつも、やりきれなそうに福岡を見遣った。


 余計な心配を掛けさせまいとばかりに、福岡はなんてことのないみたく振る舞う。


 かなえへと手を差し出し、さらなる飲酒をと乞う。


「ま、まあ。お仕事が忙しないのも、今に始まったことじゃありませんし。国吉さんはどうぞ私に構わずいっちゃってください」


 これ以上にない社交辞令に満ちた謙遜だが、それが、今のかなえには大層耳に心地いい文言にとれたのだった。


「そぉーお? ならお言葉に甘えて……ッ!」


 おもむろにジョッキに口をつけて、それから、自ずとのど元へ黄金めいた液体を流し込む。


 店内には、そんな彼女の嚥下音が威勢よく、そして惜しげもなく響き渡った。


 ごくごく咽喉をうならせ、ジョッキの中身を全て腹ン中に納めた直後。


「ぷは――――っ! 美ン味ッ!? やっぱ、一仕事終えた後のビールは格別に美味し――――ッ」


 盛大に口周りへビールの泡をこびりつかせ、かなえは高らかに謳い上げた。


 ため息、味の感想、そして今日仕事を頑張った自分に対しての溢れんばかりの賛美が飛び出る。


 強いて曰く、これぞ、酒飲みの決まり口上というやつである。


 最初に含んだビールでとうにほろ酔い状態にあった福岡だったが、空気を読んで相槌をかます。


「はいはいっ、よかったですね」


 一方、聖也はというと、そんなふたりのやりとりを漠然と眺めてはその間、ひとりピザにありつくばかりだった。


(ピザ、美味いな。それにしても、いつにもなく楽しそうだな母さん。……やっぱりこのピザ、美味い)


 ピザの感想と、眼前にて控えるは母親とそれに戯れている福岡らに対する率直な考え。


 思考の板挟みに陥った聖也はと言うと、それから、何の取り留めもなく自分の横を見た。


 しかし隣には、いて然るべきはずの存在である、珠希がいないでいた。


 始めの乾杯から、かれこれ約一時間が経過していた。


 その間に、かなえは酒をたらふくカッ喰らう一方で、聖也は次々と運ばれてくる料理を充てにそれらをコーラなぞで流し込んでいった。


 飲食だけでなしに、酒の入った大人連中(特にかなえ)の態度が聖也と珠希にとってのクッションとなったおかげもあり会話も弾んでいき、さほどいい雰囲気に包まれていたのだ。


 すると暫くして、途端に珠希が中座しだし、それから忽然として姿を現さなくなったのである。


 聖也が最後に記憶にて留めていた彼女は、何やら物々しい顔つきとおぼつかない調子の足取りでどこかへ立ち去っていく姿であった。


 まるで、得体の知れないモノによって、引き寄せられるかのように……。


 そんなこんなで、珠希が席を外してすでに三十分近くはとうに経っており、累積的に彼らがファミレスにと訪れてから一時間半近くが経過しているのだった。


(そういやあの、黒部さんとかいう娘。どこ行っちゃったのかな、愛想尽かして、帰っちゃったのかな。……それならそれで、いいんだけれどね。だって、今の僕と居たところでかえって気まずくなるだけだし)


 そこまで考えを堂々巡りさせると、聖也は珠希について意識を向け始める。


 しかし昼間の件もあってか、聖也は彼女の事となるとつい消極的に耽る始末だった。


「だけれども、やりきれないよ。こんなんじゃあ……」


 小さくつぶやいた言をもう一度飲み込むかみたく、手元のグラスにて注がれたコーラを一杯丸々飲み干しだした。


 ゴキュリと、聖也ののど元が唸りだす。


「ぷっはー……」


(やっぱり、一気なんてヘタにやるもんじゃないな。単に、苦しいだけだ)


 一息ついたところで、放蕩しきっている様子のかなえが茶々をいれだす。


「いよっ、いい飲みっぷりぃ! 流石、それでこそ男の子なだけはあるわっ!……フ~ク~フ~ク~」

「はい、いかがされましたか?」

「わたしもッ、このわたくしちゃんこと、かなかなちゃんも一気やったろうじゃあぁぁ~~~~んッ!」

「もう、すでにやってるじゃあないですか。一気」


 そういわれると、かなえは大仰そうに自らの掛かった長髪ごと頭(かぶり)を振り乱し始める。


「ち~が~う~の~ッ!」


 それから、言葉と態度でもって、真っ向からそのマネジャーの言葉を切り捨てた。


 かと思えば、とうに酒の回りきった頭を急に動かしまくったおかげで、バッドトリップしかけつつ乱れた髪を手で簡易的に修正を施しだすかなえであった。


「うぅ~ん……あのねぇ。わたし。かなかなちゃんはさあ、これまでずっと頑張ってきたわけなんですよ。フクフクがウチにマネジャーとして出向くずうっと前から、額に汗流しつひたに、ひたひたとひた走ってきたわけなんですなこれが」


「はあ、そう、ですね」と、福岡が口をはさむ。


「不遇と挫折に満ちた、業界の箸にも棒にも引っ掛からなんだ下積みの最中だった二十代……それと、今もなお燦然さんぜんかがやいてはその輝きの絶ゆることをしらない、栄光の三十代…………。ここまでで、結婚に出産や子育て、それから他事務所への電撃的移籍等等ッ。わたしはひとりの声優ならびに、ひとりの女としてやるべきことは一通りやりこなしたんでさァね」

「はあ、そう、ですね」

「でもっ、だからとて、こんなところで引き下がるというのはっ、わたしの信念に反することだっちゃ! せっかくわたしちゃんの息子きゅんが、一気してひと肌脱いだところをわたしに見せてくれたっちゅうのに、ただそれを指咥えて見てるだけだなんてそんなの自分で自分が許せんのじゃい!」

「はあ、そう……なんですかね?」


 単に同調しようにも肝心の判断材料が乏しいこともあり、もはや、福岡は相槌を打ち続けることすらしんどくなってきていた。


「そだよぉ!」


 気だるげに対応しだした福岡の両肩を自分の両手でガシリと掴みかかると、かなえが感情をこれでもかとあらわにしだす。


「だってだって、かなかなちゃんはぁ――――! なんてったってアイドルッ! 声優ッ! なんだわってばよッ!」


 かなりの迫力で差し迫ってきた様子のかなえ。


 それに対して、とうの福岡は両肩に持ってこられた手を丁重に右それから左といった要領でつまみ、退けていく。


 軽くあしらう姿勢をそのままに福岡が改めてかなえをまっすぐ見据えて、言った。


「もう、さっきっからずうっと気になってたんですけれども、語尾が無茶苦茶で話も支離滅裂ですよ。顔も真っ赤っかですし、いい加減にしないと、本ッ気でお体に障りますよ」

「んなこたぁ~ないッ! これでも二十代の時分は、クレイジー・マツダイラモンドことあの松平女社長に連れられまくり、飲み屋街をハシゴしまくったおかげで鍛えられたんだってばねッ! 伊達に酔いつぶれてきたわけじゃありゃしまへんがな!」

「元々、お酒の方は強くなかったんですね……と言うか、国吉さんは今何弁でお話になられてるんです?」

「……のっ、のり弁」

「すんません、今のはホントに面白くなかったです」


 完全に明後日の方向を目指した解答に、全力で侮蔑の態度を表明してみせるのだった。


 右肩上がりだった宴会ボルテージも、ここに来てわずかな落ち込みを見せ始めた。


 すると、今の今まですっかり放かされていた聖也が、徐に手を上に差し出す。


「あ、あのう」


 ほんのちょっぴりしょげた姿勢を見せるかなえ。


 しかし、実の息子の何かを欲する声を聴き、直ちに彼女自身の内に秘められしその母性本能が神がかり的な反応速度で以って聖也を振り見てみせる。


「なになに? どっかしたマサくん? ひょっとして、寂しかったの? それとも、お腹減った? ぺっこぺこ? 晩御飯食べたくって、さっきからペコペコペコペコと今夜はあげあげ盛り過ぎ、バデー・アンド・ソー?」

「い、いやっ。違ッ」


 いつにもなく聖也のしおらしい態度に意識を傾けるあまり、皮肉にも彼女の耳には彼の言葉は入らなかった。


 すると、かなえはテーブルの端に設置されたホルダーからメニューを引っ張りだす。


 それから、聖也に向けておっぴろげた状態のメニューをと差し向けたのだ。


 聖也の潤んだ双眸に、ピサやらドリアやらグラタンにパスタといったいかにもイタリアンな献立が映りこむ。


「さあっ、どうぞ! 好きなものを、選んで? どれだっていいし、何個だって頼んだっていいからッ! 何にする? ドリア? それか、パスタ? やっぱ男の子だからいっぱい食べれてこそなんだよね、そうなんだよねぇ~! もしくは、ピザでももう一枚、どう?」


 酒の勢いも手伝ってか、聖也からすれば普段から厚かましいくらいに接しにくる実の母親が尚のことダイレクトに、そしてことさらに饒舌な口ぶりで捲し立てに来てるのでタダものではない迫力なのだった。


「違うっての! とっくにお腹いっぱいだし、それに、そんなボリュームの大きいもの薦めるだけすすめといて僕の体型をどうしたいのさ!」


「えっ、じゃあ、いったい、なんなのぉ?」


 すかさずかなえは、亀みたくあからさまに首を伸ばすし、おどけたような顔を見せつける。


 そんなふうに、迫ってきたかなえの顔面に、咄嗟にたじろいだ。


「い、いや僕は、」

「『僕は』?」

「ただ……」

「『ただ』……、なあに?」


 先に聖也が発した言葉を、かなえは特にこれといって取り留めもないようで次々とオウム返しに述べてく。


 じわじわと己が精神的余白部分を切り詰めにかかってくる母を前に、彼は情けなくなったあまり胸中で舌を打った。


 躍起も、感情すらも自身の雁首みたくうなだらせつつも、色々申し訳なさそうに声を振り絞る。


「…………と、トイレに行きたかっただけなのに」


 そう言う聖也はというと、躊躇ためらいがちに、みるみる顔を紅潮させるとそれは耳元までに達する始末であった。


 もじもじと億劫そうに、振る舞う息子を眼前に据えるとかなえは大手を振って明るさ満天にこたえた。


「いってら~~!」




 ふう、と一息。


 吐息をついたと同時に、聖也は冷え切った身体を両の腕でもって擦り始めた。


 ファミレス店内における、それぞれで賑わいを見せる様子の客席という客席をよそに、徐に歩を進めて行く。


「コッチのが少しあったかくって、いいな。あっちはもう、夏だからって、少し冷房かかりすぎなんだよな」


 座席が冷房設備の真下ということもあって、トイレがやたら近く感じてしまってた。とにもかくにも、先ほど来辟易としていた場所からやっとの思いで脱出できたようで彼はトイレに向かいつ安堵の溜息を放つ。


 そうして移動してくうちに、やがてファミレスの奥にて細い木枠が施された突き抜け口のほうへとたどり着くことができた。


 抜け口のその先にも通路は続いており、楔を四辺状に組み合わせたかのような木枠にはニスが塗られ店内照明の明かりをぬらぬらと照り返す様子が見て取れる。


 そして、抜け口のその真ん前にて立ち尽くす、聖也。


 無言で周囲の木枠を見遣る彼はさしずめ、チョウチンアンコウの光に魅了されてしまう雑魚も同然だった。


 それから聖也はその抜け口、その周囲を取り囲んだ一番高い箇所に位置する木枠のさらに上を見遣ってく。


 そこで”TOILET”と、黒字表記が成された白のプラ板の配置を確認した。


 認知し終えると、聖也は尿意も手伝ってかそのままホイホイと向こう側へなだれこんでった。


 そうこうしているうちに、このファミレスでのトイレへのルートにおける最初の角に差し掛かり始めた。


 角にてどんと据えられた煙草の自動販売機が、不気味そうにギラギラとLEDをまたたかせているのが聖也の目にいやでも入ってきた。


 それにやや気にかけつつ、取り留めもなく右へ曲がり通った。


 半端な距離の直線をつつっと渡り、いよいよ最後の角へとぶち当たる。


「トイレトイレ……お、この角を曲がればっ」


 したらばもうこっちのものと言わんばかりにと、聖也は無意識に足を速めた。いざ左へ曲がらんとすべく、左足の外っ側に力を入れ踏み込んでく。


 と、まさにその時————向こうから、声がした。


「だから……もう、話すことなんかないっての」


 …………!


 聞こえた刹那、足を止め、咄嗟に後ろの壁に張り付くようにもたれ込んだ。


 声のしたほうへと、傾注させ耳をすまし始める。


「ちがう。だからっ、違うんだってばッ、そんなんじゃあ」


 何やら穏やかでない様子な音声が、聖也の耳にて入り込んでくる。


 そこはかとなく聖也はきな臭い雰囲気を思い出した。角からこっそり、慎重にその奥を知ろうと彼は亀みたく首だけを伸ばして見てみる。


 聖也は、ハッとする。


「あ、あれは、黒部……たま、きさん? だっけ」


 聖也が思わず口に出してしまうほどだった。


 見張ったその先には、彼女。数十分前に会席を中座して以来一向に姿を見せなんだ、あの黒部珠希がいるではないか。


 その事実を確認し、聖也はつかの間の仰天と安堵を胸に抱かせる。


(なんだ、やっぱりまだこの店内にいたんだ。……居て、よかった)


 ほっと、一息。


 だが直後に、別の考えを思い起されることとなった。


(でも何で…………よりにもよって、男女トイレの扉真ん前にて立ち尽くしてるワケ?)


 無意識に、聖也は眉をひそめ始める。


 見据えた先に珠希が神妙な顔つきで立ち尽くしており、なおかつ、そんな彼女の背後に男女トイレの入り口が赤青のピクトグラムによりありありと提示されているのが分かった。


 彼自身、現在進行形で段々とトイレが近く感じてきていることもそれらを手伝う要因たりえたのである。


 今のところ、聖也は頭の中でやれ公共の福祉だの経済活動の自由だの、健康で文化的な最低限度の生活がうんたらといった具合に社会科の授業で習いたての項目ばかりが渦巻くのだった。


 これでは自分が気持ちよくトイレを利用できないではないか、と。


 トイレにおける、使用の妨げが発生したことで苛立ち、それが聖也のアイデンティティーに他ならない「正当性」を焚きつけることとなった。


 すると妙に感情をムラムラ昂らせてるところで、眼前遥かにて据えられていた彼女。珠希が、なにやら歯痒そうな顔つきで独壇場を賑わせている始末だった。


「違うちがうっ、変な連中に絡まれてるとかじゃないんだってば。本当に、大事な人を待たせてしまっている最中なのよ。だからっ……」


 無意識に、珠希は身体を空に纏わりつかせるように、半身に翻す。


 結果として表沙汰となった珠希の右半身を聖也が反対側の角にて捉える。


 彼女の顔面、右頬になにやら長方形状のサムシングを押してるのが見えた。


 聖也は察知した途端、それがなんなのかを即座に導き出した。


(ケ、携帯電話?! 間違いない、あのターコイズ・ブルー一色の板みたいなガジェットは、ケータイそのものに他ならない! こんなところでお目にかかれるなんて……嗚呼、ユビキタス! 万歳、ユビキタス!)


 携帯電話端末――――”ケータイ”といった代物は、聖也の中では聖剣伝説で言うところのエクスカリバー。不老不死の御話でいうところのイエス・キリストの聖杯みたいにこの世のものとは一線を画す、聖別せいべつされし禁断の果実のような要素と同等として捉えられるのだった。


 すなわち、彼のなかでケータイはある意味大人の階段のためのパスポートという扱いである。単なる、背伸びした向上心の現れでもあるわけなのだが。


「……もうっ! いい加減にしてッ、もう子供扱いなんてしないでッ!」


(だいぶ荒れてるみたいだ。様子がなにやらおかしい…………いいなあ、ケータイ)


「幼稚園児みたいな心配を掛けられることが、どれほどの苦痛を私に与えてるか分かってるわけ?!」


(雲行きも怪しくなってきた……かっこいいなあ、ケータイ)


「お願いだから、私のやってることにいちいち、口を挟まないでよッ!」


(雰囲気が……でも、うらやましいなあ。ケータイ)


「私はただ、私のやりたいように…………」


(……ケータイ)


 彼の頭の中は、ケータイ一色と化した。


 聖也がケータイへと意識を割くあまり、焦点のほうもそちらに切り替わってく。


 ケータイが主体となって、肝腎かなめの持ち主である珠希は単に背景としてセピア調に映るばかりである。彼女のことなど、もはや眼中に無い。


 と、その時。


「分からず屋ッ!」


 凄まじい剣幕の一言とともに、珠希は怒髪、天を衝く勢いで背後の男女トイレの入り口と入り口の間の壁を衝き、殴りだした。


 唐突な衝撃が壁伝いで聖也に襲い掛かり、ビリビリする感触が全身に広がってくる。


 ハッとして、聖也はようやく我に立ち返った。


「ヘェア?! な、なんだなんだ」


 吃驚した拍子にあらぬ叫びを発した後、改めて、聖也は伸ばした首をそのままに携帯を握り緊めつ憤慨する様子の珠希を捉える。


 先ほど来、感情を炸裂させたとうの彼女はというと、なんの魂胆かスカートの裾をぱっぱ、と払い始めた。まるで、「仕切り直しだ」と言わんばかりに。


「……あら、ごめんなさい。いきなり大声だしてしまって。いえ、ね。私の言わんとするところはね、」


 背筋を真っすぐ正して、右耳に添いし相手との応対を再開さす。しかし、まだ鬱憤を晴らしきれなんだのか、どこか頼りなさげに声を震わせてしまっている。


 だめだこりゃ、と。


 現代の携帯を用いた代理戦争を前に、中々どうして終わりが見えてこないと思った聖也はそれからゆっくりとその場から離れていった。


 踵を返し自分の通ってきた角を曲がり直しつ、聖也は顎先に手をやりつつ思う。


(そもそも、なんであんなトイレのエントランスでおっぱじめたんだろう。プライバシーの観点からいっても、わざわざ店内でやらずとも他に選択肢はあったはずでは……外、とか)


 自分なりに至極全うな解を導き出したと確信した聖也は、それから緩やかな歩調をそのままに元の客席へと帰って————行けなかった。


「なあに、これ」


 憮然とした態様で、聖也が呟いてみせる。とうの彼はというと、身も心も強く凍てついてきて、思考すらもフリーズしそうだった。


 聖也は突き抜け口手前にて立ち呆けており、そこからだいぶ離れた所に位置する客席あたりなんかをしっかり捉えていた。


 厳密に言うと、それは「場所」というより「人物」を見据えていた。


「よっしゃあっ! 酒だ、酒だ、さぁけぇだあぁぁ————!」


 色鮮やかなカクテルやらサワーとがそれぞれ入れられたグラスが、ところ狭しと机上にてズラリと並べられたのを見、すこぶる上機嫌になるかなえ。


 客席にて完全に出来上がったサマのかなえが、かんらかんらと笑いながら雄叫びをあげていた。


 両手を鶴翼かくよくのごとく拡げており、気分はもう王様のソレであった。


 脇に控えていた福岡もあわあわとてんやわんやだった。


「し、シィ————! み、みんなこっち見ちゃいますってばあ!」


 とかく人目が気になる様子の福岡であったが、一方で周囲の客らは皆視線を己の足元へ置くか眼前にて運び込まれた料理を貪るのに集中したり、あるいはスマホをフリックしまくるなぞしてただやり過ごすスタンスであった。


 関わったら負けだ、と。


 猛獣から身を隠すことに徹した小動物的思考によって、みごと見ず知らずの不特定多数の客らは勇気心を一つとさせていた。


 一方で完全に冷え切った様子のファミレスのホールを、聖也は、ただ乾いた双眸そうぼうによって見届けることしかできないでいた。実に葬式に出席してそうな顔をしているのだった。


「……た、退路を封じられた」


 聖也はかすっかすの声を振り絞りながら、言わしめた。


 戻るに戻れなくなったので、結局、聖也は元いたトイレの方へと撤退を余儀なくされた。


 再び、先ほどの男女トイレのエントランス直前の角に差し迫る。立ち止って、そこから首だけを延ばし様子を見た。


 相変わらずその場にて、携帯を片手に立ち尽くしている珠希が確認できる。


 まだいたんかい、と。


 うんざりやら腹立たしいという感情はとうに通り越して、もはや、感心する領域にまで達していた。


 傍立てた耳からは、そんな彼女の消耗しきった覇気のない声がありありと聞こえてきた。


「……もう、十分でしょ? 言いたいことは全部言い切って、疲れてるでしょお互い。うん、うんうん、わかったわかった。わかったから、もう、こっちへ掛けてこないで……あんたなんか、大っ嫌いよ」


 最後に強烈な一言を吐き捨て、珠希は通話を切り上げた。


 ワンピースのポケットに携帯をねじ込むと、珠希は、深くため息を伸ばしうなだれた。


 そして、それらを見届けていた聖也は、ほっと胸をなでおろす感じで、しみじみと安堵する気持ちにと浸っていた。


(これでようやくトイレいける。しかし、恐ろしいほど長かったな)


「……おっと、ぼうっとしてる場合じゃない。アリバイつくらなくちゃ」


 するすると聖也は、元いた角のところから離れていき、もう一つ前の角のところへ移動した。


「この辺でいいかなっと」


 頃合いと思える場所に着くと、そのままそこに突っ立つ。


 もしこれで用を済ませた珠希がこちらへやってきたとしても、聖也がそのまま逆の方へとすれ違ってけば、相手は当然たまたま通りがかったものと思い込み完結、というのが彼の算段だ。


 キャストは、完璧。演出も申し分なく、ここいらで一丁、三文芝居を公開するには本日天気晴天なれども波高し。


 あとは、きちんと聖也の手がけた目論見きゃくほん通りに進むのを見届けるだけである。


 聖也は軽くストレッチをするなりして、万全の態勢で臨むことにした。


 身体も温まり、成功への布石としてますます期待に拍車がかかってくる。


 さあ、本番だ。


 それから聖也は、トイレのエントランスにさしかかる直前の角を真っすぐ見据えた。一度息をつけ、肩に込められた強張った余力を滑り落とさすと、至って自然体の構えで来るべき彼女を待ち望む。


 そうこうしてる内、現実的な経過で一分もの時間が流れた。


 未だ、彼女は現れない。


 三分経過……五分経過……そしてとうとう、十分(じゅっぷん)が経過したものの一向に珠希は姿を見せないでいた。


 予想だにしなかった待ちぼうけに、聖也は釈然としない心境である。


「随分と、待たせるな。……もしかして、今さらトイレで用を?」


 なんだか肩透かしを喰らった気分に陥り、ここぞとばかりにと皮肉を呈する。


 自然と顔を苦笑させて、それから、もう一度寸前の角を見遣った。そこにはやはり何もいなく、ただ構造上の曲がり角がでんとそびえ立ってあるばかりだ。


 やり場のない憤りのあまり、聖也は自分の後頭部にと右手を持ってくるとそのままばりばり掻きむしった。


「ええい、百聞は一見に如かず、だ」


 待ち見兼ねた聖也は、そう言って自分から歩み寄って今一度、角の方へと戻っていく。


 それから、またまた首を亀みたく伸ばして、エントランスに目をくれた。


 確かに、そこには珠希がいる。


 だが、何かがおかしかった。


 エントランス前にてひとりしゃがみ込む様子の彼女。小さく肩を震わせ、顔を俯かせ、そこから嗚咽が漏れ聞こえてくる。


「う、ううっ……。ううう、う…………っ、ぐすん、ひっく」


 泣いていた、たったひとりで。


 珠希は広い世界の片隅にて小さくなりながらしとしとと、湿っぽい空気のなか、むせび泣いているのだった。


「……嘘だろ、おい」


 そんな様子を見、心底呆れるあまり聖也は声を震わせていた。


 勘弁してよ、と。続けて言を重ねてく。


 そして、重みを感ず頭部に右手の平をあてがった。その悩ましいほどの重さをしかと感じ取りつ、ため息をこぼす。


「はぁ————ッ」


(これだから女のひとっていう、生き物は……。逆に羨ましいよ、そこまで自分を解き放つことができるなんて)


 帰りたい、そんな風に思考を巡らしたのもつかの間。ホールにいた実の母の顔を思い出して、一気にその気が萎えていく。


 前門に居わすは泣きの珠希、かわって後門に構えし酔いのかなえ。


 いずれにせよ、当の聖也にとっては進むも地獄、止まれども地獄に違いなかった。


 鬱蒼とした気持ちが胸中にて蔓延る中、それを打ち破るかのように彼は思いきり両手で顔を張り気持ちを取り直した。


「ッ! ……さて、と」


 そう言って、聖也は一度だけ天を仰いで呼吸を整えだす。


 頭を掻きむしり、両手を七分丈のズボンのポケットに突っ込むと、歩み始める。


 聖也が向かいしは、やはり、未だトイレのエントランス前を陣取る彼女の所であった。


 行かないことには、肝腎かなめのコトが始まらないというのは聖也が誰よりもわかっていた。


 一歩、また一歩と彼女のもとへと近づいていく。


 するすると歩み寄っていき、やがて、珠希本人の周囲50センチまでに差し掛かった。


 そこで立ち止ると、徐々に目線を下げしゃがんだままの彼女を眺める。


「ぐすっ……」


 初対面の際、あれだけ尊大に振る舞っていた彼女が嘘みたいに小さくまとまってしまっていた。


 まず第一に聖也はそれを見て、まるで夢でも見てるのではないかと切に考えた。


 今朝がた見せた傲岸不遜もいい所な態度はというと、どこかへ吹き飛んでしまった印象であった。


 それまで収めていた手をポケットから抜き、深々しゃがみこむ様子の彼女を推して量っていく。


 聖也は軽く息を一度だけ払って、さめざめとしてる珠希に思い切って声を掛けた。


「ねえ、アンタ。大丈夫?」


 唐突に声を掛けられた珠希は、いきなりすぎるあまり身体をびくりと震わせ、泣きはらした顔をそのままに彼の顔を見上げていく。


「…………けほっ」


 自分のもとへとすり寄ってきた彼の顔を瞳の奥に宿すと、ついぞさっきまでしゃくり上げさせてた喉で珠希は声にもならない声で返した。


 憮然とした感じの珠希に、聖也はそっと、手を差し出す。


 差し出した手の先には、ポケットに隠されていたハンカチがささやかに握られているのだった。


「よかったら、これ。使って」


 その時珠希はというと、両頬を真赤に、まるで果物屋の店頭にて並ぶ林檎のごとく紅潮させてしまってた。その上を這うように、涙の軌跡が頭上の照明によりキラキラとありありと示される。


 彼女は流れ落ちた涙をそのままに、向けられた手の方を見遣った。


 ハンカチ、それから持ち主の顔。蒼く染められたハンカチ、そしてそれ掴む聖也本人。


 何度も、何度も、何度もそれぞれを目で追っては見比べた。


(早く、早く手に取れよ)


 滑稽な場面を前に吹き出しそうになる聖也はというと、差し出した手をそのままに笑いをこらえるべく下唇を軽く甘噛んだ。


 そうこうしているうちに珠希が手に取り、それを濡れそぼった顔にあてがってく。


 すると、


「あ……」


 唐突に珠希が声を発してきた。


 当然、聖也はそれに応じる。


「え、なにいって」


 問いただそうとする彼であったが、次の瞬間予想だにしていなかった第三者によってそれは阻まれることとなった。


「どッ、どいてェェ——————————ッ!」


 反射的に、声のした方へ向くとそこにはホールにて酒宴に饗していたはずのかなえがこちらへと走り込む様子が見えた。


 手で口元を押さえ、たいそう気分の悪そうに顔を真っ青にしながら。


 聖也と珠希は二人して呆気に取られたように見てることしかできなかった。


 そんな二人の間を突っ切るかのように、かなえは全力疾走そのままに女子トイレへと駆け込んだ。


 かなえが過ぎ去ったエントランス前には、ものすごいアルコールの匂いが立ち込めており、珠希は思わずその揮発臭に顔を歪ませた。


「な、なんなの、このひどい臭い」


 一方で、聖也のほうはすでに検討がついてしまってた。


(あのひどい酔い様は、まあ、盛大にちゃんぽんでもやらかしたんだろうな)


 先ほど来ホールへと一旦舞い戻った際の光景を彼は思い返していた。


 しばしの沈黙が、嵐の過ぎ去った直後のエントランスにて訪れる。


 そして、その後に断末魔が劈いてきた。


「うぇええ…………ッ! ァ、カハッ……………ィイヤアアアア………ッ!」


 女子トイレの奥から声が響き渡る。苦しみに悶え、足掻き、のたうち回ってるかのようなかなえの慟哭が、雄叫びが、発せられてそのたびに聞こえてくる。


 彼らの耳に、そして、ここファミリー・レストランの男女トイレのエントランス全体にその残響が跳ね返ってくる。


 以下のような状況でもって、真っ先に口を開いたのは聖也だった。


「ああ、もう。まったく、仕様の無いんだから」


 頭を掻きつ、「やれやれまたか」といった様な風体で、未だ苦しみに囚われたままの母親を案じて彼は歩みを進めた。そうしようとしたのも、つかの間。


 誰かに文字通り、後ろ袖を掴まれているのに気づいて一旦歩みを止める。


 振り向くと、思った通り珠希が聖也の服を咄嗟に掴んでしまっていた。


「……なあにすんだよ」


 この期に及んで、と言わんばかりにふてぶてしくも珠希に問うた。


 とうの珠希はというと、大粒の涙を流したのですっきりしたとでもいうのか、実に純粋かつ澄み切った瞳で彼を捉えていた。


「あ、あなたこそ。何する気なの」

「いや、母さ……オバサンとこ行って自分が介抱しにいこうかと」


 そう弁明すると、途端に、珠希はすっかり狼狽しきった様相で彼の後ろ側を指差し言った。


「こ、ここ! じ、女子トイレッ、なんだけど」


 肩ごしに振り向くと、目の前には壁に掛かった赤いピクトグラムの描かれたプラ板が見えた。


 それは、珠希の言う通り、紛うことなくそこが女性専用の御手洗場だということを示すものに他ならなかった。


 それらを認識して、さすがの聖也もこの時は噛み締めるようにその状況と意味を理解したのである。


 しかし、あくまで「理解」しただけだった。


「ん? あぁー……いやぁ、だから?」

「えっ、だ、だからつまり、その」


 社会的引いては人倫的常識をものの見事に否定され、珠希は漠然とただ素っ気ない感じでその辺にて突っ立つ聖也に対し、せいぜい言葉を詰まらす事しかできなかった。


 すると、そんな様子を垣間見た聖也がとんでもない話を彼女にと持ち掛けてきた。


「じゃあ、なんなら、代わりに行ってくれないかな」

「えっ?」


 キツネに抓まれた面持ちで返してきた珠希に、聖也が続けざまに述べていく。


「確かに、男の僕がこんなとこ入るのはいくらなんでも、さすがにマズい。じゃあ、これも何かの縁だと思うからさあ、その……同性のアンタが行ってくれたら全て丸く収まるし、何より僕の、いやいや僕とアンタの名誉も守られるってワケ。どう?」

「な、何を言っているのかさっぱり」


 珠希が韜晦しきってると、それは突然響いてきた。




「ゥヴォアアアア…………ッッ!!」




 女子トイレの奥から、凄まじいうめき声が発せられて、彼らのいるエントランスまで運ばれてきた。


 その場にいた聖也も珠希も二人揃って、思わずたじろぐ。


「うわっ……」「きゃあっ」


 その後も、奥からは獣の咆哮がごときかなえのえずき声は続いた。


「うううう……っ、がぼごぼぼぼっ、あっ、あっあっあ」

「国吉さん苦しそう……」


 眉を八の字に下げ、心配を掛ける珠希を見て聖也は彼女のことをやっぱり普通の女の子でしかないと考えるに至った。


「はぁ、ったくもう」


 ため息をひとつはらってから、聖也はひとり女子トイレの奥へと歩み直した。


 もちろん隣にいた珠希はそれに気付いていた。


「あ……」


 しかし、彼女は気付いただけでそれ以上になにか行動に移すことはなかった。


 なぜなら、もう彼は女子トイレの奥深くへと突き進んでしまってたから。


 そして、自分よりも少し背の低いはずの彼のそんな背中がなぜだか、とっても大きくあたたかくなにより大層頼もしく映ったからだ。


 そんなドラマが自分のすぐそばで繰り広げられていたとはつゆ知らず、かなえは、ひとりしみったれた気持ちに浸りつつもトイレで苦闘を繰り広げるのだった。


「うっ、うううう……ぐっ、苦しいよう辛いよう」


 それから、聖也がゆったりとした足取りで、介抱すべく肝心の母のもとへ向かっていった。


 労いの言葉を掛けつつ、精一杯の優しさを振り絞って。


「はいはいっ、今行くから待っててよー。あと今日は本当に、お疲れ様。————はっピィスっ」


 ☆☆☆☆☆☆


 さて、場所は先ほどのファミリー・レストランからまたまた移り変わり、彼ら四人は店に踵を向け路上を練り歩いていた。

 店内トイレでの死闘が繰り広げられた後、かなえはすっかり燃え尽きそれは白灰なんて

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