第7話「母さんと、アフレコ見学 中編」

 母のお使いにと、聖也が収録スタジオへ馳せ参じてきて、とうに三十分が経つ。


 聖也は、「珠希」という少女からの洗礼(?)を貰い受けて以来、立ち直れぬままである。


(もの悲しい……はずなのに、涙がひとつとて流れ落ちないなんて。それにしても不思議なもんだなあ……もう、こんなに、帰りたいと思うなんて)


 はあ、と聖也は息をつく。


 そして、未だ自らの手元にて握られた母親の台本へ視線を傾注せていく。




 ――――俺のクラスメイトに幼なじみやお嬢様やら中二病がいるけど、そんなことより妹が可愛すぎるんだが。――――




(ひっでぇタイトルだ)、と。


 今一度、深くため息ついてそう抱いた聖也。


 すると、


(ひっどいタイトルね)、と。


 彼とは精神的構造が似たり寄ったりであるかなえのマネジャー、福岡も思わず吐息を零しつつ、心中にて苦言を呈す。


 ちなむと、そんなふたりは他に数人いる人々らよろしく、とある一室に設けられた居敷きに腰かけてる有り様である。


 彼らの他はというと、例えば先述した異様に長ったらしいタイトルのアニメそのものの制作に携わるアニメ監督とアニメプロデューサーやらが五名ほど。


 並びに、制作側にとっての出資者である(断じて、味方にあらず)、提供者スポンサー連中。


 そして、海外アーチストの楽曲PVなぞにてよく目にすると思わる高価そうな録音機材。および、多種多様なスイッチや機器が張り巡らされた巨大なコンソールが聖也の目に映った。そこの真ん前で機器の調整を行う男性の後ろ姿がふたつほど確認できた。


 ここは、“調整室”といってアフレコ・ブースの一室であり、隣の防音ガラス一枚隔てたところにてもう一方の”収録室“がそこから確認できた。


 収録室はというと、国吉かなえならびに数多の声優が一斉に並び座る状況であった。


 すると、そんな彼らを前にして、音響監督が片手に台本を携えてなにやら指導を注いでる最中である。


 一通り指導が終わったのか、音響監督は自分の台本を履いていたジーンズ後ろのポケットに筒状に丸めて仕舞いだす。かと思いきや、何やら渋い顔をしながらとある人物に語り掛けてるようでもある。ついでに言えばその語り掛けられている人物は他でもない、国吉かなえであり困ったように笑って返して、韜晦とうかいしきってる様子だった。


 その一部始終をと、調整室側から臨み覗き見する聖也。


(いかにも気まずそーな雰囲気ッ。そういや、来たとき福岡サンが泣いて喚きながら母さんに訴えてたっけ……。――――おかげで音響監督が『俺の許可を仰がずに、勝手にブースから出てくとはなにごとだー』、ってキレまくってますよ、私にっ!――――……って)


 福岡に対する申し訳なさと同じく、不甲斐なさやらげんなりした感情その他諸々が込み上がり、アァ――――――ッと長いため息をつくに至った。


「ふっ、ふふ……」


 聖也の隣で同じく座る福岡は、一切合切燃え尽きた様子で、死戦期っぽくほくそ笑んだ。


 お疲れ様です、とささやかにエールを福岡へと彼が送っていた時である。


 ガチャ、と。


 収録室と録音室とを直接繋ぐ、防音扉が重厚そうな音とともに開かれてく。


 はた、と聖也が見遣るとその音響監督と思しき初老男性がそこに突っ立っていた。


 長身の痩躯、並びに石川五右衛門を彷彿とさすボサボサ頭を無理繰り野球帽で覆った出で立ちと、無精ったいひげ面。


 土気色の肌をしたその男は、扉の遮閉音を背後にして、徐に調整室の中へ突き進んだ。


 のさのさ、とした調子でたどり着いた矢先。ちょうど、みんなのいる居敷きと厳かな巨大な調整機器に挟まれた、一人分の席。小型のモニターとそれに繋げられたヘッドホンと、扉むこうの録音室へとスピーカーを通して指示するためのスイッチャー付きマイクが机上にそれぞれあった。


「あ、どっこいせーっと」


 机の前のイスにどっかりと腰掛け、年季を感じさすその嗄声が室内にて響き渡った。


 間もなく、尻ポケットから丸めた台本を取り出し、しかるべき箇所を見開いてスイッチャーを押しマイクに吹き込む。


「えー、皆さんっ。おかげさまでAパート(前編)は、なんとか無事録り終えることとなりました……で、このままの流れでBパート(後編)もテンポよく入っちゃいたいと思うんで、よろしくお願いしまーす。じゃあ、Bパートテスト行きます」


 音響監督の気だるそうな声が、発せられる。


 かくして、後半部分の収録は只今を以ってして、火蓋が切られたのだった。


 テストは、至って淡々と行われた。まず、当アニメでの主人公にあたる男子高校生役を演じる男性声優がテストへ臨む。


 台本内の台詞が一通り吹き込まれ、音響監督からお墨付きを頂くと、また別の声優に立ち替わられる。主人公、ヒロインその一(幼なじみ)、ヒロインその二(お嬢様)――――の順で、音響監督にとって先述した通りにコトはうまい具合に運ばれてく。


 同じ作業を見守ってくなか、収録室の聖也はそれらのやり取りを前にすっかり漠然とした心境に浸っていた。


 と、そんな時、


「次のテストは……おい国吉、こい」

「は、はいっ!」


 いつも通り、快活そうに声を挙げた様子の母に咄嗟に背筋を伸ばす聖也。


 慌てて、手元の台本を捲り流し、かなえがこれから言わんとするであろう台詞を彼は見つけた。


(あった、コレだ! ……えっ、コレでいいんだよな。むしろ、こんなのしかないのかオイ)


 そして、それを見遣り、嫌な予感が胸中に蠢く。


 一瞬にして顔を青ざめさせた聖也のソレは、見事、的中することとなる。




「くっくっくっくっくっくっく、ここであったが百年目。今こそ、旧アヴァンストレングス歴にて勃発した先の大戦での因縁をここで晴らしてくれようぞ! 行くぞ、ゲルマニア帝! ぬおおおおおおおおおおおおおおおお前のことが好きだァァァァァァァァァァァ! 好きだッ、好きだぁッ、すきすきすきスキ隙ありだあああああああ、結婚してくれぃ、我が君ぃ!」




「かゆい……かゆいっ、かゆ過ぎるぞコレは……!」


 ぞわぞわっ…………。


 鳥肌を通り越して、じんましんを患ったような気になりあちこち裾から裾へと手を突っ込む。全身を掻きむしるほどに、彼の母かなえの演技は凄まじいものであった。


 ちなみに、彼女の配役はヒロインその三(中二病)にあてられている。設定的には、「前世からの因縁(があると思い込んだもの)によって転生したかつてのライバルが、異性として邂逅した(と思い込んでいる)ので今までの憎しみがすべて愛情に裏返ってしまったヒロイン」というよくよく考えずとも常人には理解しがたいキャラ付けである。


 自慢の長髪を振り乱すほどに、激しいモーションを付けて台本無しで見事演じきったかなえ。


 すると、


「カット。……おい、国吉ぃ」


 音響監督が、スイッチを押して先の言葉をガラス一枚隔てた向こう側へと吹き込んだ。


 当然、呼ばれたかなえは反応せざるをえない。


「は、はい」

「……てめえ台本どこやったんだ、コラ」

「え、えっとお、自分のセリフの内容とかタイミングとかはひととおり頭ん中に叩き込んでいるので」


 様子のおかしい音響監督に、再び、韜晦させる態様を示しだすかなえ。


 やがて、そんなような事を言い出す彼女に対して露骨に苛立たせた。


「そういう事じゃあねえ。テメー、テストにもかかわらず台本も持たずに演技なんざ、随分、良い御身分であらせられるなぁ……ええ、小娘がッ!」

「い、いや、だからそのぉ」

「仕事なめんじゃねえ、このアバズレ声優がぁ! てめっ、Aパートで自分の出番が終わったとみるやいきなしブース飛び出していきやがってよ……全体のチェックは全部この俺の仕事なんだよ、勝手にテメーで仕事に見切りつけてんじゃねえ! 真剣さが足んねえんだよ真剣さがよお! ええ?!」

「あ、あのう。アバズレ声優じゃなくって、せめて、アイドル声優と……。」

「うるっせぇ、小娘ぇッ! こっちゃ、テメーのために説教してんだろうが! 水差すんじゃねえ!」 


 現場は、しん、とした空気に包まれた。


 現場の総責任者でもある音響監督の男性は、今までの気だるそうな嗄声を一変させて、途端に野太い声色でかなえを捲し立てたのだった。


 録音室の他に控えている声優、並びに調整室の人間だれもがその様子を固唾を呑んで見守っていた。


 ただ一人、かなえの一人息子である彼をのぞいて……。


 聖也はむしろ、堂々とかなえを威圧した初老の男性へと、エールを送っていた。


(ありがとう……ありがとう、かわりに叱ってくれて! 音響さん……ありがとう! いい、薬ですっ)


 心の中で称賛とガッツポーズをと、音響監督の男性に捧げた聖也。


 ちなみにそんな最中である、彼の母親のマネジャーはというと、


「あ、ああああ…………。と、とうとうお怒りになってしまわれた…………」


 顔面蒼白といった具合で、隣の聖也とは対照的な態度だった。


 福岡が、鬼気とした雰囲気に負け、ひとり遠くの故郷にて構えられた実家の前にて手を振る両親の笑顔を幻視していた時である。


 一通りかなえに対し、思いの丈をぶち吐いた音響監督の男性が一旦仕切り直しと言わんばかりに、長いため息をつく。 


 やがて、男性が口を開いた。


「おい、もう一度聞くぞ……台本は?」


 さすがのかなえも、すっかり調子を落とした様子で、応じた。


 徐に、右手を構えて突き出す。


「えっとー……そ、そこに」


 かすかに震えた指先にて留められた、ひとつの陰。


 そこには、しかと彼女のものである台本を握り緊めた様子の聖也が未だ居敷きに掛けてた。


「……なんだぁ、このガキ。どっから入ってきた」


 かなえによって、指し示された方へと肩越しに振り見たソレを怪訝そうに吐き捨てる。


 そこへ、彼女のマネジャーである福岡が恐れ多くも説明を挟みにきたのだった。


「あ、あのう。この子はですね……」


 しばらく、福岡の弁解は続いた。なお、ここへ入る際に、福岡は聖也のことを『かなえの親戚のツテを辿りアフレコ見学へやってきた一般人』として調整室の人間に言い聞かせていた。一方、まだ説明の済んでなかった音響監督へと、福岡は急かした様子で耳打ちする。


 聞きこんでから後、さすがに納得した様子でとうの聖也をつまらなそうに眺める。


 すると、


「す、すみません。これ、声、そっちのほうに繋げられてますよね?」


 突如として、かなえの声が調整室にて響き渡る。


 音響監督がマイクのスイッチャーを入れて、そうだが、と返す。


 マサくぅーん、とかなえは実の息子の名を呼んだ。


 咄嗟に、聖也もガラス一枚向こうにいる母の声に反応した。


「……は、はいっ」


 なにごとか、聖也の心にそんな思いがよぎった。


「悪いんだけど、その持ってる台本、こっちまで持ってきてくれないかなーって」


 申し訳なさそうに表情を浮かべ、かなえは実の息子に呼びかける。


 母からの思ってもみなかった頼み事に、憮然となるもすぐさま態度を改め向き直る。


「分かったよ。か……」


 すんでの所で、慌てて口を閉じる聖也。


 あわや口が滑りそうになり、背筋が凍る思いであった。


(ヤバ……危うく僕らの関係を大っぴらにするとこだった。じゃ、なくて……)


 刹那。


 これまでの経験とここであったやり取りを総合的に精算して、自分的に、最も当たり障りのないと思しき解答を口にした。


「う、うん! 分かったよ、えっと……オバさん!」


 そして、恐ろしいほどの静寂が聖也をつつんだ。


(あ、あれ……スベった、のか?)


 辺りを凝らして見ると、福岡を含めた調整室にいた人間すべてが自分のことを目玉をひん剥いて見遣っている有り様である。


 そう、まるで……“世紀末”を目の当たりにした廃人の目のそれだった。


 聖也は、怖いあまり隣の収録室にいる実の母かなえに対して、顔を向けられないでいた。


 の、だが。


 隣部屋の奥から、かなえから発せられるドス黒いオーラを、彼は生物本能的に感じ取ったのである。


 そんな沈黙を破るかのように、ひとりの乾いた笑い声が調整室から聞こえてきた。


 今度はそこにみなの視線が移行してくる。


 くっくく、と言った感じに例の音響監督の口から笑いが漏れ出ている。それから、男性は堰を切ったかのように笑い狂った。


「お、オバサン……あっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはっ! オバサン。おばさん……ッ! ぎ、ぎゃはははははははははははははは!!!! い、今っおばさん、て言ったのかおい!」


 そうとうツボに入ったらしく、男性の目尻には涙がこびりついていたのをマネジャーの福岡は捉えていた。 


「ひいぃ……っ」


 そして、その後全身をわなわなと小刻みに震わす三十路のビジネスパートナーを見て、戦々恐々とおののいた。


「おい、国吉ぃ。ちょっと、いいかぁ?」


 火中の栗を拾うを地でいった音響監督は、構わず当人に話しかけた。


「…………………はい。なんでしょう、か」


(声、ひっくぅ?! めちゃめちゃ声の調子沈んでるよ、母さんってば!)


「お、おまえってさあ…………確か、初めてプロとして現場入りしたときが、いくつだ?」

「…………それは、私が二十歳のころです」


 平静さ装うかなえに対し、聖也は強く驚かされることとなった。


(母さんが、敬語をつかった?!)


 そして、音響監督は実にしみじみとした様子でコクコクと、頷かせる。


「だよな。そいで、初めていっしょに仕事したときがそん時だな。俺もその頃すでに三十路に突入したオッサンだったわけなんだが……。そーか、そーか、あれからもう十七年もの時が流れちまったわけなんだなあ」

「えっと…………さっきっから、手前が何を仰りたいのか判りかねるのですけれども」


 音響監督に対し、腐ったミカンを見遣るように視線をぶつけるかなえ。柄にもなく丁寧に受け答えをしてみせた。


(か、母さんが、とうとう事務的な返事を……こりゃあ、夏なのに雪でも降るんじゃないの?)


 実母によるあまりに想定外すぎる対応に、驚愕を通り越して恐怖を覚えた聖也。


 すると、


「いや、簡単な話だって、」


 へらへらと笑みを顔に浮かべて、とうの音響監督はなおのこと口撃を続けた。


「十数年経って、俺はオッサンからオッサンのままなんだがお前は何というか、二十歳そこそこのそれこそ本当の意味での小娘からババアにジョブ・チェンジしちまったってことだよ! いやあ、決して悪い意味でババアっつったんじゃあるめえよ? テメーと言う名の初ガツオが、そこから幾多にも亘って声優界というなの大海を漂い、十七年という茫漠とした時間を経て戻りガツオのように人間的にも演技力的に見ても今まさにアブラが乗り切ってるわけだからな。それは、胸張っていいぜ?」


 それはフォローと受け取るには、あまりにお粗末な弁解であった。


 調整室ならびに録音室にいる人間は、誰もがぽかんと口を開けてその言葉を聞いている。


(あ、あきれてものも言えない)、と。


 聖也が胸中にて述べたのだった。


「まあ、とはいっても……お前の年齢なら、あれくらい大きなガキがいても不思議じゃないんだけどなあ! ははっ、まあ、なんだ。お互い、下腹あたりの肉が気になる齢に達しちまったわけだし、むやみにトシってのはとりたくねえもんだなオイ!」


 よせばいいのに、泣きっ面に蜂のように口撃の上にさらに口撃をお見舞いする。


 そして、


 コオオオオオオオオオオオオ……。


 収録室にいるかなえが、新たな呼吸法を生み出した。こみ上げた怒りのパワーで空気に波紋を生じさせて新たに産生されたエネルギーが、かなえのまわりにて渦巻いてく。


 目に見えないエネルギーの流れを聖也は、足の裏からひしひしと、感じ取った。


(あっ……。マズイ、察した)


 聖也は、座った姿勢のまま身をすぼめて、それから徐に両手で己が耳の穴を塞ぐ。


 そんな彼の観念した様子の表情を読み取り、まず福岡それから監督やスポンサーとが次々と一様に両耳に手をあてがう。


 気が付けば、調整室において耳を防いでいない愚か者は、音響監督ただひとりとなっていた。だが、だれも火に油を喜々として注ぐ様子の彼を止めに行くほど、彼らは愚かでなかった。


(だって、あんなにたのしそうなんだもの……)


 である。


「歯ぁ磨いているとえづくし、重いもの担ごうとすっと腰を痛めるし……俺らもそろって老けたもんだぜ、小娘。いや…………小姑かっ! ダーッハハハハハハッハハハハハ……!」


 世界征服を企てるプロトタイプな悪役よろしく馬鹿笑いを示しだす音響監督。


 すでに、爆発までのカウントダウンは手の施しようのないところまで達していたとも、気付かずに。


 臨海、突破。……南無三。


 そして、次の瞬間。かなえがありったけの声量をきっちりと丹田までふりしぼり、スタジオ中にて大音声を炸裂させた




「黙れえええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」




「っふう……ど、どうなったんだ?」


 恐る恐る聖也が己が耳をその手から解いた。すると、音響監督が両耳を押さえ苦悶そうにすっかり床上でのたうち回っている姿が見て取れたのだった。


「みっ。耳がっ、耳が……。お、俺の耳がぁ……っ!」


 小学生ながらも、南無阿弥陀仏、と聖也はいたたまれなさそうに思った。


 すると、


「……マサくぅーん」


 実の母親とは思えぬ嫌にドスの利いた声が、聖也の鼓膜をつんざいた。


 ぶるりと、身体を震わせ、冷や汗が背筋を伝るなか声のしたほうへと振り向いた。


「オバサンの台本持ってきて? …………できるだけ、なる早でオバサンの台本をね」


 “オバサン”というフレーズをやたら強調させながら、それでいて至って淡々とした物言いで聖也に説く。


 息子の聖也から見てもわかりやすいくらいに、かなえは全身から暗黒オーラを漲らせていた。


 口元は確かにいつもみたいにニコニコさせていたが、目元は全くと言っていいほど笑っていなかったのだ。


(こっ、怖ええええええ!!? こんなに怒った母さん見たの、今年の正月にウチへ帰ってきた父さんがうっかり『あれなんか、シワ増えたな』って口を滑らせた時以来だよ!!?)


 あの時の、床一面に、おせちの中身が散乱した事を聖也は思い出していた。


 父親の両目に伊達巻きと鼻の穴に黒豆がそれぞれ一粒ずつ、それと口の中にて突っ込まれた活きた伊勢海老の様子を、けして聖也は忘れていなかった。


 今年の正月早々、実の母親が父親の面めがけて怒りのデス・ダンクを叩き込んだことは、彼の心の深層心理にばっちり刻み込まれていたのである。


「あ、あのう……」


 声を震わせ、先ほど来倒れ込んだ音響監督を必死に介抱するディレクターに請うた。


 二人いたうちの一人が、聖也に気付き次のように指示を仰がせる。


「き、君っ。ドアなら開いてるから、早く渡しに行って。……ほ、ほうら早く」

「…………はーい」


 かくして、


「失礼しまーす……」


 聖也は生まれてきて初めて、母親の“仕事場”へと通じる扉を自らの手で開ける事となった。


 “仕事場”に同じくいる声優の面々は、先ほどのような実に“世紀末”的な表情そのままに、彼を見遣ってくる。


 当然だが、同室内にて据えた彼らの口から、祝福の声はまったく挙がらなかった。


(うわあ、め、めっちゃコッチ見られてる! ……き、気まずいなあなんか)


 肩身が狭くなりつつ、聖也はゆっくりと確かな足取りで、一歩ずつかなえのほうへと突き進んでく。


(……それにしても、声優さんって、色々なひとがいるんだなあ。母さんよりもずっと若い人たちは粒揃いだし、母さん以上に歳を召したひとなんかもいる。声優さんの印象って、見ただけじゃわからないものなんだなあ、その証拠に僕と同い年くらいの女の子だっている始末だ。……うん?)


 咄嗟に、それまで動かしていた足を止めた聖也。


 まさかな、とは思いつつも先ほど来感じた違和感を頼りに、彼はその先へと向き直った。


 聖也の疑問は、確信へと変わっていった。


 収録室にて、だれもがかなえの絶叫によって、固まるなか。ひとりだけ、その少女だけが聖也を意識して、驚愕のあまり叫ぶ。


 ロビーにて別ったはずの少女。黒部珠希、そのひとであった。


「あ、あ――――ッ?!」


動揺を隠しきれないようすで、思わず珠希は彼を指差して、


「あ、あなたっ。あの時ロビーでっ」


 遅れて聖也も、ハッとした感じで、自身の想定と目の前にて巻き起こっている現状に対して答え合わせしだす。


「け……見学に来たんじゃ、なかったの……!?」


 と、震えた声と震えの一向に収まらない様子の人差し指を彼女へと差し向けた。


 すると、珠希も自分の前で立ち尽くす彼と同じように。


「……共演者じゃあ、なかったの…………!?」


 しばしの沈黙がふたりの間にて横たわってくる。


 そして……。




「『え、ええ――――――ッ?!!』」




 ふたりの絶叫が、録音室ないし調整室ブースを飛び越え、ロビーを含めた一階全体にて響き渡った。


 お互いがお互い、全力で勘違いした末に訪れた現象に他ならなかった。


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