第2話「母さんと、お仕事」

 盛夏せいか


 早朝から東京・新宿では陽炎が湧き立つほどに、太平洋側からくる夏の小笠原気団の影響をもろに受け夏の暑さが本領を発揮していた。あまつさえも、あらゆる企業が軒を連ねるここ、新宿・丸の内のオフィス街の一角でさえヒートアイランド現象も手伝ってかすっかりと猛暑の憂き目にさらされている始末だ。


 それから時を同じくして早朝。とうの丸の内にと根を下ろす声優事務所こと、「プロシア・ステート」では……。


 ☆☆☆☆☆☆


「はっピィス! おっはよーごぜーまーす! みんなのアイドル、かなかなちゃんでっす!」


 きゃぴぴーん! という、どこかファンシーじみたオノマトペが響き渡るイメージだった。


 刹那。


 所内が一瞬にして、氷河期へ突入する。


 しかし、その声は間違いなく事務所内にて轟いていたし、同じくそこにいる新人マネジャーの心にも、あらゆる意味で響き渡っていた。


 と言うよりかは、むしろ、揺さぶっていた。


「……おっ、おはようございます……国吉、さん」


すっかり勢いに圧倒させられ、ひかえめな自分との差に愕然とする新人であった。


 新人マネジャーは女性で、名前を福岡ふくおかという。


 今年の春この事務所にマネジャーとして雇用されたばかりである。


 なお、彼女の最初のマネジメントが、よりにもよって、超人気声優の国吉かなえ(自称、かなかなちゃん)だというのは言うまでもない。


 福岡が、朝っぱらからご機嫌な様子の彼女を前に立ち尽くしていると、逆にかなえはそれを見かねたようで、先ほどまでダブルピースを極めていた両手を収め始める。


 かと思いきや、次にかなえはこんな言葉をふっかけてきた。


「も〜フクフク、まじ、博多本場の豚骨ラーメン!」

「えっ……と、豚骨?」


 かなえの放言を聞くなり、頓狂とんきょうな声をあげ、福岡は自身のかけていた丸眼鏡をずり落ちさせた。そしておもむろに眼鏡を元の位置に修正しつつも、眼前にいる、嫌に不満そうな顔を浮かべるかなえにと先の言葉の真意を尋ねてみる。


「そ、それはどう言う」

「だから〜、博多本場の豚骨ラーメンッ! フクフクってさ、なんか、カタいじゃん」


 ちなみにフクフクとは、福岡マネジャーのあだ名である。


「そろそろマネジメントの方も板についてきたころだからソフトめんくらいには柔らかくなってると思ったのに、むしろ日に日にガチガチに堅苦し〜くなってって、今日みたくすっかりバリカタな挨拶で迎えてるじゃん?」

「バリカタ……あ、ああ。私の態度を豚骨ラーメンの麺の固さに置き換えたんですね……」


 ようやく理解に達した。

 そんな感じに、福岡は頭をかるく頷かせた。


「そうだよー? だいたい、さあ、おしゃべりの洒落をいちいち説明するってのはすごくめんどっちいしつまらんもん。ダメだよ、そんなにカタくしていちゃ。心をオープンにして向き直んなきゃ……うむむむむ〜」


 そう言いながらかなえは福岡の目の前に握られた両拳を突き出す。


 それを見、何が飛び出すのかと考えたので福岡は少したじろいだ。


 そして。


「開け、ゴマッ!」


 そして、即座に両拳をパッと開いて見せた。ちょうど、ゴマの蕾が花開くかのように。


 なんてねっ。


 かなえは開いた両手を小刻みにヒラヒラ振りながら、笑って言った。

 

 無邪気なかなえの笑い声がコロコロと、福岡の耳に心地よく届けられた。


 まったくもう、この人ったら。


 いかにも能天気な感じのビジネスパートナーを目の当たりにした福岡。


 さっきまでの自分の態度がだんだん馬鹿馬鹿しく思え、自然と笑みが零れだす。


 クスリ、と。


 福岡が思わずそう綻んだのを、かなえは見逃さなかった。


「おーっ! それ、それっ。それ、それー! やっとこさ笑ってくれたのだー! よっしゃ、よっしゃ、今日も一日頑張ろー!」


 かなえの元気溌剌な音声が、所内にて響き渡る。


 声優歴十七年というキャリアの中で培われた喉笛から発せられる、とうのかなえの声。声だけ抽出したならば、それはまさしく十七歳の活力漲る少女の声に他ならない。


 そしてこの後、所の奥から駆けて出てきたプロシア・ステートの代表取締役こと初老の女社長・松平まつだいらから福岡・国吉ペアに対して「うるせえ! とっとと仕事行きな、ボンクラども!」と、青筋立てて怒鳴り散らされた挙句、オフィスにて備え付けられてあったティッシュ箱を投げ付けられる羽目になるのだが、それはまた別の話である。


 ☆☆☆☆☆☆


 売れっ子声優として名を馳せている国吉かなえは、今日も悉くスケジュールに多忙を極めていた。


 朝。都内のレコーディング・スタジオにて、自身がメイン・ヒロインとしてレギュラー出演をしているアニメ番組のアフレコ。


 昼過ぎ。いつものように最寄りのラーメン屋にて、急いで昼食を取ったあと次の仕事現場へ。インターネットラジオにてゲストとして出演する。


 ラジオ収録の後は、福岡マネジャーとともに得意先へ出向き挨拶して回る。


 夕方から夜中にかけて近々敢行される予定のある、自身も出演する夏の音楽フェスに関する稽古や打ち合わせをする。


「ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー……ストップ! かなえ、次はもうちょっとステップを意識してね?」

「は、はい! 気をつけます!」


 三方は手すりが横に備え付けられた鏡で覆われ、床はワックスが施されたフローリングというよくある赴きの稽古場である。


 区切られた空間のなかには、トレーナーの山形やまがたとその教え子であるかなえがそれぞれいた。


 かなえは稽古場にてライブのためのダンスレッスンにと、勤しんでいた。


 昔から世話になってるダンストレーナーの指導を、一言一句無駄にせず必死にそれらを噛み砕き、嚥下する。


 理解したのち、即座に身体を動かす作業に移る。


 そしてトレーナーに指摘された点を自分なりに、それらを動作として反映させ、あるいは熱情へと昇華させてゆく。


 後頭部で結い留められた太い一本おさげが彼女の激動によって、左右に大きく揺れる。


 はいっそこでジャンプ!


 トレーナーが出した指示通りに、かなえは勢いよく飛び上がった。


 膝を柔らかく曲げ、両足の踵に思い切り力を入れそのまま飛び跳ね上がった。


 瞬間、かなえの外皮にまとわりついてた汗が周りに飛散する。


 飛沫は、稽古場の照明の光にさらされ彼女自身を取り巻く熱気と混ざり合う。


 それらが、あたかもダイヤモンドのようであり……。


 それらが結果としてプリズムの働きをなし、かなえは己が身をまるで妖精よろしくきらきらと輝かせていた。


 トレーナーは、その様子をしかと目に焼き付けていた。


(流石よ、かなえ!)


「とんで、あがってー……ハイ、着地からのキメッ、 それを忘れないッ!」


 教え子を褒める気持ちとは裏腹に、トレーナーの女の口からは最後までかなえを奮い立たせる叱咤の言葉が送られた。


 そして、かなえは着地すると同時に両腕を大きく振り仰いだ。


 顔は頭の真上にある、煌々と自身へと灯される照明に向けられる。


 表情は、いかにもやりきったという笑顔を満足気に浮かべていた。


「はあ、はあ、はあ、はあ」


 かなえは、ひとり熱を帯びた息遣いを発していた。


 律動的な呼吸音の裏をとるかのように、トレーナーの山形はゆっくりと拍手を送り続けた。


 かなえに視線と賛辞を送りながら、彼女は何度も頷いてみせる。


 当人の顔には、しっかり、迷いのない微笑みが浮かんでいた。


「せ、先生……」


 かなえは、自身の緊張の糸がプツンと切れた感じだった。


 ゆえに、顔からははにかんだ笑顔が自然と湧き上がってきていた。


 今の今まで、国吉かなえは無我夢中だったのだ。


 たとえ他人から褒められようが、貶められようが、そんなことはどうだっていいとさえ思っていた。


 なぜなら、彼女からすればそれらはあまりとるに足らない評価でしかないのだ。どんなことでも一生懸命に取り組む、好きなことだったらなおさら必死になってやる。


 ただやりたいから。ただ、それだけ。


 それ自体が、一声優でありなおかつ家庭に身を置くひとりの妻、そして実の息子を愛して止まないひとりの母親でもある国吉かなえの本質である。


 ……とはいえ、彼女は肉体的に言えば三十七歳だが心は未だに衰えを知らない永遠のセブンティーンズ・マップ。


 自身が褒められると、やはり彼女はそれがとても快感に思えてきて仕様がないのだった。


(くぅー! これが所謂、『最高にハイってやつ』なのねッ?! )


 受信されたビジョンは、かの有名な金髪で、男とは思えない妖しい色気を放つイギリス国籍な吸血鬼だった。


 内から込み上げてきた感慨深さのあまり、かなえは身を震わせた。


 山形も、かなえも、誰もが夢見心地な気分だった。


 そこに……。


「あのぉ」


 突如として、稽古場にて小さな来訪者が姿を表す。


 そして、それはかなえの前へとやって来ていた。


 未だ現実への帰還を果たしてない向こう見ず状態の彼女が、例の来訪者によって肩を叩かれる。


 さっ、とかなえが視線を寄越した。


 そこにて立ち尽くしていたのは白いチュチュを身にまとった、小さなバレリーナの恰好をしたひとりの女の子だった。


 暫し、沈黙。


 推定小学五年生くらいの、頭に黒い団子結びが成された髪を引っ提げた様子のバレリーナがおもむろに口を開いた。


「すいませーん。私たち、すぐそこの小学校に通ってるバレエ団なんですけどー、もうダンスレッスンの時間なんでそろそろおばさんたちには出てって欲しいんですけどお」


 その時、かなえの脇にて立ち尽くしてた山形がハッとした表情を浮かべた。


 大きい縦長状のガラスがはめ込まれた扉の向こう側には、眼前にて立つ少女よろしく、真っ白なバレリーナの恰好を身に纏った数人の女の子たちが出張っているではないか。


 その女の子越しに見た彼女らは、みな一様にして腕を組んで頬を膨らし無言の不満を述べている有り様である。


 ちら、と時計を見遣ると山形はここへきて、予定されていた終了時刻をとっくにオーバーさせてしまっていたことにようやく気が付いた。


「あ、ああ。はいはいっ、ごめんなさいね〜。さ、かなえちゃん行きましょう」


 詰問されたかなえの代わりに山形が受け答えを述べる。


 次いで、少女の前に立ち尽くしたかなえに対して促す。


 しかし、


「お、おばさんってだれのこと〜?」


 かなえは黙って引き下がるどころか、全くもってそのそぶりすら見せない。


 なおのことかなえはその少女に食ってかかった。


「い、いや、あんたのことだし」

「ほ、ほら。ヘラヘラ突っ立ってないで、とっとと行くわよ」


 見兼ねた山形が、かなえに退出を呼び掛ける。


「でもでも、おばさんならこちらにいらっしゃる山形先生だってケッコーいい歳しているのよ? ねえ、あなた、おかしいわよねぇ?」


 かなえはその、少女のむき出しになったおでこを瞳にすっと宿していた。

 と。同時に、その少女の顔が見る見るうちに呵責に苛まれてくのと、むき出しになった少女の白い額に汗が滲んでくのをかなえは無意識下で認識した。


「かなえ?! アンタ、だんだん怖い笑みを浮かべてきてるわよ! そんな子どもに構わないではやく行くのよ!」


 山形の言うことは、そのものズバリだった。

 かなえはまっすぐ、じっと、目線の位置を手前の少女の目元に合わせ、まんじりともせず、ただ笑っていた。

 天真爛漫な彼女のイメージからは想像もつかないくらいの、夏なのにこの世の全てを凍てつかせるほどに冷酷かつ無慈悲そうな笑みを見せる。そう、たとえかなえ本人に完璧なまでの非があったとしても、それらを全く意に介することもなくあっさりと自己を棚上げしてみせることこそがかなえは人一倍できてしまう女だった。

 ……単に、大人気ないと言ってしまえばそれまでなのであるが。


「ねぇ、子供だからって、大人を馬鹿にするのも大概になさい。……でないと、いつか手痛〜いしっぺ返しを食らうことになるわよ?」


 かなえの周囲から、漆黒のオーラが立ち込めてくる。見開かれた瞳には、なぜか光がいっさい射し込まれてなかった。

 ひっ、という少女の引き攣った悲鳴が微かに聞こえた。

 その後かなえのふた回りほど歳をうわまわった山形が、なんとかふんじばって稽古場から追い出したことで事なきを得たのだった。


(やれやれ、この娘を焚きつけでもしたら最後どうなるかわかったもんじゃあないわね……。)


 この世で最も恐ろしいものは、自身の健康診断の結果と幾つになっても色褪せない純真な乙女心なのだと女性ながら改めて、トレーナーの山形は思い知らされた。


 そして、この後。


 かなえはマネジャーの福岡を飲みに(半ば強引に)誘いだした。


 結局、朝まで呑んだくれたのだった。


「ちっくしょう! さんじゅうななさいだって、おんなのこなんだぞ――――い!」

「く、国吉さん!」

「あん? だれがくによしかなえ、だってぇ?」

「言ってませんってばぁ?! そ、そうじゃなくてっ」

「アッハハハハハハハハハハハハ! お酒だーい好き、! ハッピィース、ときたもんだこりゃー!」

「その八◯山の瓶、前の店に返さないとダメですってええええええ!!」


 まさしく、呑んだくれ親父の姿に等しいかなえ。


 繁華街の午前様方が辟易としたご様子で、彼女の事を見遣った。


 しかしそれもつかの間、即座にフォローを彼方此方あちこちで入れてくる福岡の健気さに、赤提灯あかちょうちん御用達ごようたしの紳士たちの目からソルティードッグがちょちょぎれたのは言うまでもない。


「あはははは、せっ、声優ばんじゃーい!」


 自身の猛烈なまでの酔いとその場限りの勢いついた調子でもって、かなえは自身でさえ滅多に言うこともないようなことを口走った。


 そしてそれらを目の当たりにした福岡はといえば、ほぼパニックに陥りながらも必死になって諫めようと声も身体も何もかもを迸らせるのである。


「万歳じゃなくって、八◯山がぁぁぁぁぁぁアアアアアアアアアア!」


 もはや破れかぶれの酔いどれ女と、それを追い掛ける若き女マネジャー。


 今まさに夜の帳にて、つわものどもの大捕り物が展開されている。


 声優・国吉かなえの夜はこうして更けていったのだった。

 

 ☆☆☆☆☆☆


 それから翌日の朝もかなえはレコーディング・スタジオにて収録にと臨むのだが結局帰宅できたのはそれから昼過ぎのことであった。


「た、ただいまぁ~~……」


 自宅であるマンションの扉をくぐり、それから玄関のわきにて備え付けられた靴ベラでもって、むくみきった足からパンプスを引っぺがすと彼女は疲れたあまりとうの玄関先から数歩歩いてみせたのち渡り廊下である木目の板の上にて倒れ込むようにして突っ伏した。


 ドカっ、と。


 前日の酒の影響となんだかんだあって福岡とともに夜を明かしてそのままの勢いで収録に向かって行ったことも相まってか、かなえはとうにピークを迎えた己が体躯を盛大に音を立たせながら床上にとほっぽり出した。


「ド、ド疲れたぁ……っ」


 端的に自己の状態についてそう吐き捨てたのち、かなえはそれから長い長いため息を口にしていく。


「は、ははっ、ははははァァァァ~~~~ッッッッ。……あぁもう、しんどいなぁチク、ショ……ゥ…………」


 恨み節のような言葉を発してから、急速に意識を沈下させるほうへと移行していった。


 十何年来に亘ってくったくたになるまで着古され、なおかつリンゴのポップ・アートが施された完全にくすみあがったピンクの半袖と、お気に入りのヴィンテージ・ジーンズを寝間着代わりに。そして、未だ手に持ったままであった靴ベラを胸元へと摺り寄せてから、彼女はその後まもなく眠りについた。


 現時点ではここにはいない、学校へ赴いた息子である聖也の帰りをまちわびながら……。


「……うふふっ、ただいま。マサくん…………」


 しばらくして。


 ガチャ、と。


 再び扉が開かれ、何者かが入ってくる。


 息子の国吉聖也、彼であった。


「ただいまー……うおおっ!?」


 そしてここからは余談ではあるのだが、聖也が実の母、かなえのあられもない姿を見て大層なリアクションをあげさせてしまったことはもはや言うまでない。


 ☆☆☆☆☆☆


 ちなみに、その頃福岡はというと。

 実の上司に他ならない、女社長の松平によって胸倉を掴まれている状況に身を置いていた。

「クン、クン……。おいッ! 酒くっせーぞ、オメー! まさか昼間っから……」

「ち、違いますってばぁ……かなえさん、ですってばぁ……!」

 ビジネス・パートナーのかなえに酒を付き合わされ、しかもその時の残り香によって凄まじい剣幕でもって社長直々に捲し立てられ、福岡はとうとう最後の自尊心すらべきべきにへし折られてすっかりとすごまされる始末だった。


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