第四話「とある家族における冷戦の記録」




 小学校に入学した当初こそ、名残の母親は彼女の名前についての周囲の評価をしつこく聞きたがっていたが、すでに散々な目に遭い、疲労困憊していた名残が煩わしそうな態度をとると、それ以来、その話題についてはあまり触れてこなくなった。それでも気に掛けている様子はあったが、そもそも独立した学校での自分に干渉されたくなかった名残は頑なに名前の話を避け続け、そうしているうちに、いつの間にか名前についての話題が水瀬家からは消えていた。

 名残はといえば、勝ち取ったその結果に大いに満足していた。するかどうかは別として、成人するまではどうせ改名なんて出来やしないのだから、ならば今後一切はこの話題に触れられないようにした方がラクチンだと、そんなことを思いながら平穏な日々を過ごした。

 名前を呼ばれる機会は日常にあり触れていたが、その時をきっかけに、彼女の家庭では名前という概念が消失したかのように二人称が多用され始め、そうして大した事件も起きぬまま今に至る。水瀬家から消えた名前は、彼女たちの時間を凍結したかのように凝り固まり、ある種の禁忌のような扱いを受けていて、だから名残の勝ち取ったその結果とは裏腹に、なお一層、彼女は自身の名前を見るのも、書くのも、呼ばれるのも嫌いになってしまった。

 以上が、水瀬家に於ける冷戦の記録であり、今もなお存在している親子のしこりの話である。彼女も、そして彼女の母親も、家庭に埋められた地雷原を踏まぬように、色んなものを回避しながら日々を過ごしている。

 そんな事情を抱える彼女の身に変化をもたらさんとする出来事が起きたのは、思春期真っ只中、中学二年生の夏のことである。暑い日が続く、七月中旬のことであった。

 国語の授業にて、「自分の名前の由来について調べてくる」という、名残にとってはなんとも不愉快極まりない宿題が出されたのだ。いかにも融通の利かなそうな、眉間に皺の寄った中年の教師を、名残は心底呪った。

 戦い続けてきた、あるいは逃げ続けてきた家庭の事情に、自分の名前に、彼女はようやく対峙することになったのだ。



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