第7話

 わたしは自分を知っている。荒野のこともよく知っている。あとは敵の情報も揃ってしまえば、おのずと解は見えてくる。

 織原七重を除く敵八人をわたしはさらに精査する。戦力はもちろん数値だけでは割り切れない。そのため予想の揺らぎは悪い方に倒している。それでも取りこぼれる各人の警戒すべき個性については、特殊能力として認識する。八人のうち特能を持っているのは二人だった。左の方の8は目がいい。精密な挙動と鋭い反射神経を持ち合わせている。以降、こいつは8視と呼称する。それから右の6は顔に精気がみなぎっており呼吸も荒い。戦力こそ高くないもののアドレナリンが出まくり落ち着かない。自他のダメージを省みずアグレッシブに動くだろう。6怒とリネーム。他に評価に値する個性の持ち主はいなかった。

 それから武器だ。右にいる方の7がサバイバルナイフを持っている。隠さずこちらに見せているのは、輪姦を円滑化するための威嚇用だからだ。戦闘で使うにしてもこちらを刺す気がないのが分かる。しかし扱いには不慣れな様子だ。手元が狂ってこちらを傷つけることもあり得る。そのためブラフは結果として成立している。その効果は戦力2相当の上乗せだ。7+2の答えはいくつであるか。9だ。荒野を上回った。以降こいつを7+2と呼称する。

 ほかの連中が武器を隠し持っている様子はない。いま知れるだけのことは知った。Xの性能は不確定なままだがこれは後で炙り出せばいい。わたしは荒野に小声で指示を出す。

「全員逃さず潰すよ。わたしが攻めるから荒野は退路を断って。四人倒した後でいい。金髪は目がいいから気をつけて。あとナイフは舐めないで」

「はい」

 敵の数は多い。つぼみがいればもう少し楽なのだが仕方が無い。準備は終わった。先手を打って仕掛ける。


 6怒に肉薄する。


 不意を衝いた。不規則なリズムで走り、速度に緩急をつけて意識振動の間隙を縫った。正面からの強引な不意打ち。臨戦態勢の不備を衝く必要があるので一度しか使えない。夜襲。言わばわたしの特能だ。6怒は急に目の前にわたしが出現して面食らっていることだろう。周りの連中も反応できていない。まるで止まったような時の中で、わたしは十分に集中して一撃を繰り出す。拳を顎にかすらせる。脳を揺らした。倒すまでの手数をこれで大幅に省略した。これも特能だ。針穴通し。特殊な集中を要し、自分の意識振動の極点でしか使えないので連発はできない。

 6怒の体が力を失う。もう立っていられない。危険な相手なので真っ先に無力化した。本当は総合力で最も強い8視の方を先に潰したかったが、奴の特能にこの不意打ちは通じない。だから距離も近い6怒の排除を優先した。集団戦で誰を先に倒すのか、優先度を決めるのは脅威と倒し易さの二点だ。

 まだ時間に余裕がある。誰も反応しきれていない。わたしは特能を惜しまず使う。舞踏。勢いに乗って体を翻す。倒れつつある6怒の横をすり抜けて、いい角度の位置に立っていた4の側頭に回し蹴りを見舞う。こめかみ。脳を直打する一撃。隙が多い相手だったので、針穴通しも要らなかった。4も崩れる。わたしは特能を連発することで、先手で二人を無力化した。

 左足を上げた。背後から迫っていた、ロウキックとも足払いともつかぬ曖昧な蹴りを避ける。このわたしの反応も特能だ。結界。わたしが能動的に用いるのではない。身を包む領域が、接近物に反応してわたしに回避を強要するイメージ。強力だが脳の一部がへたばるので数に限りがある。残り二枚。

 完全に回避するのではなく、爪先を垂らしてかすらせる。速度と重さを量ってみた。それなりの蹴りだ。食らえば痛むだろうが、脅威となる速度でも精度でもない。

 蹴りの主はXだ。あえて敵の輪の中に移動したわたしは、織原七重を視界に入れないように振り向いてXを視認する。特能発動。透徹。戦力5。武器、特能なし。これで情報が出そろった。すべてが見えるようになった。あとはもはや消化試合だ。

 他の連中はまだ襲ってこなかった。寝ているのか? 荒野はドアを守る8に近づいている。


 残り六人。7、8視、6、5、7+2、8。


「なにこいつ」

「カツオやりやがった」

 6怒のあだ名だ。本名は勝俣信夫。どうでもいい。

「すげ。格闘とかやってんの?」

 7、6、5、7+2がじりじり寄ってわたしを包囲する。わたしは特能のため背後にも包囲にも強いので気にしない。むしろ動こうとしない8視を観察していた。彼はなぜ静観しているのか。分かる。わたしの性能を見極めたいのだ。それからプライドに裏打ちされた自信もある。他の仲間が負けても、まさか自分が負けることはない。ましてや相手は非力な女だ。そう思っている。頭は悪くない。それほど間違った思考ではない。わたしや荒野が持ち合わせている特能の豊富さなど想像もつかない普通の視点では、むしろ妥当な判断と言える。闇雲に攻めずに観察を選ぶ慎重さには好評価を与えてもいいくらいだ。問題は、彼の目を以ってしてもわたしのことなんて分かりっこ無いことだ。誰もわたしを分かってくれない、などと優位を追認したくなる。他人を負かしながら相手の弱さを悪徳だと非難する悪趣味な遊びは、まあ堕落するから滅多にやらない。

 しかしながら、この情報格差も向こうの知る由は無い。だって分からないのだから。

 囲まれている。わたしはこういう時、むしろ背後の方がた易く捌けることが多い。後ろから襲いかかってくる奴は、まさかわたしの背中に目がついてるなどとは思わないからだ。その油断をわたしは衝く。この特能を猿騙しと言う。

 前にいる7が掴みかかろうとしてきた。わたしはそれを避ける。下方に。接地して両手で地面を押さえる。そして同じくわたしに掴みかかってナイフを突きつけようとしていた7+2の睾丸を後ろ足で蹴る。冷徹。共感を完全に切り離して躊躇も容赦もなく急所を打つ。人を刺す時にも使える特能だ。7+2は悶絶し、よろめいて後退していった。膝をつき、うずくまって寝込む。無力化した。ナイフが落ちたけど遠い。回収はあきらめる。すぐに手放さなかったのは偉いもんだ。

 斜め後ろに飛ぶ。頭部を容赦なく狙ってきた6の蹴りを回避した。追撃が来そうだった5からもついでに遠ざかる。この俊敏な機動も特能だ。さきほども触れたが舞踏と言う。意識振動の周波数の優位と、力学的ロスをなくした動作の連続により、平均の倍以上に手数を増やせる。移動を減らしつつ運動量を増やすので、必然的に回転を伴った動きが多くなる。

 荒野も指示通り退路を断つべき時期を伺っている。敵に逃げたいと思わせるのは出来るだけ遅らせたい。逃がさないためだ。

 8視はまだ動かない。と言うか電話を取り出している。こらこら。結構賢いんじゃないのこの子。プライドは相当高いだろうに、そこに負けなかったところが素晴らしい。決めた。尋問はこいつにする。存在評価を格上げして名前で認識する。脳内で名簿を検索。戸所慎也。痩せマッチョだけどトドと呼ばれている。トド。

 会話の見当はついているが、わたしは765を相手にしながら傍聴した。当然向こうの声まで聞き取れる。

「おう。ナルセだ」

 ナルセ。権力のありそうな男として思い浮かぶところでは創攻会の会長である鳴瀬和孝や、その息子である鳴瀬克美、この学校のOBで今はバイク屋を営んでいる成瀬道夫などがヒットする。絞り込もう。

「トドでっす。7e囲んでたのは生徒会長の黒野宇多と男一人です。すんませんたぶん負けます。黒野は女なんですけどめっちゃ強いです。いやもうなんかおかしいですよこいつ。カツオとか瞬殺してますもん。もう三人……あ、四人やられてます。すんませんマジすんません」

 話し相手は鳴瀬克美だ。トドよりも立場が上のようだが妙に精神距離が近い。同じ高校生だからだろう。それに鳴瀬克美の親は暴力団のトップだ。織原七重とのリンクもこれで説明がつく。

「つまりてめえの話だとよ、てめえらは女一人まともに片づけられませんってことだよな。怒らないから言えよ。そうなんだろ?」

「すんません! はい! あ今も次々やられてます。駒沢も男の方に潰されてます」

 わたしは特能を連発し、結界を使い果たしながらも765と順序よく片づけていった。荒野も指示の遂行条件が満たされたのを認識してドアの8に攻撃を仕掛ける。戦力は同値だが相手は特能無しだ。荒野の方が有利だ。

 トドの受話器からドスの利いた声が聞こえてきた。

「おいトド、てめえはうんち君かこの野郎。やられてますじゃねえよやれよ。出来ませんでしたで済むと思ってんじゃねえぞ。やんねえとお前の妹犯すからな。俺じゃなくて犬がな」

「勘弁してくださいよ」

 そこで通話が切れた。

 鳴瀬克美は手下に容赦が無い。トドがよこした情報に報いず、こき使うための難癖をつける。向こうは完全なパワーワールドだ。日々発生する勝負の掛け金が大きいから成り立つのだろう。かわいそうなトド。


 痛みが走った。脇腹だ。


 なぜ? 刺されたから。なにで? ナイフで。7+2が持っていたサバイバルナイフで。誰に? 背後の誰かに。でもトドと荒野は視界内にいる。トド以外の男も既に全員無力化した。確実に。しかしわたしの認識の外からわたしを刺せる人間が一人いる。

 傷は浅くない。深く刺さっている。さらに傷口の中を荒らされる前に、わたしは体を回してナイフを抜いた。その勢いで回転し、わたしを刺した相手に向き直る。

 相手の姿は見えなかった。黒で塗りつぶされていた。こいつは誰か。言わずもがなの織原七重だ。視界は極めて悪く、ナイフを持つ手がどこにあるかも把握できない。しかしこの霧は払わない。織原七重を直視してはいけない。見ればそれでおしまいだ。

 今この瞬間だけでいい。わたしはセーフモードを起動する。灰色の時間を呼ぶ。視界から色が落ちていく間に、織原七重はささやいてきた。

「凄いでしょ」

 確かに大したものではある。

 織原七重の戦力は1だ。お話にならない。しかしとびきりの特能で、このわたしに一撃を入れおおせたのだ。これはちょっとした奇跡なのだが、彼女こそがそもそも悪い奇跡だった。

 そして彼女は黒に隠されたまま言葉を重ねる。

「痛いでしょ。嬉しいでしょ」

 嬉しくはない。そんな回路は作っていない。

「ナナエは魔法が使えるんだよ」

 知っている。彼女自身よりもよく知っている。だからこいつを倒すのだ。黒のヴェールも剥がれ落ちて、灰色の視界に彼女が映った。当然ながら笑っている。こいつはいつも笑っている。やわらかく。幸せそうに。うれしそうに。まばゆい光に満ちている。

「その魔法に限りは無いの。地の果てを越えて星を包むの。太陽を知らずにいられないように、誰もそれから逃げられないの。あらゆるものの振動をナナエは止めるの。オーバーキルマリア。呼吸させない。夜を明けさせない。次のいのちを生ませない」

 出血が激しい。体を酷使した影響で、立て直すのに時間がかかる。織原七重のナルシスティックな独白を許している。

「だからウタも貫いたの。黒の唄って、ナナエを誉めてるみたいじゃない? 光あふれて死ねばいいのに」

「七つの大罪の一つ――意味不明ポエム!」

 力を振り絞った。ハイキックで喉を蹴る。織原七重は数秒呼吸を止め、意識を失って地面に崩れた。無力化した。

 しかしわたしのダメージも大きい。膝を突く。ぼたぼたと脇から落ちる血は石畳の隙間に滲んだ。セーフモードは解除した。灰色のフィルターがなくなり、墨汁のようであった血も本来の色を取り戻す。

 なんとか振り返ってトドと向き合う。しかし余力が無い。戦えない。気力とは無関係に体が動かない。だから出来ることをする。すべてを見て考える。いつものように。

 トドがこちらに近づいてきている。自分の妹を守るためだ。わたしを倒してさらうことが妹の安全に繋がるのだ。荒野も走り寄り、間に入ってわたしを守ろうとしている。動ける敵は今やトドだけなのだから、退路を塞ぐ必要はもうなかった。

 意識が霞んでいく。目が塞がっていく。両目の視界だけではなく、比喩としての目、すなわち世界を認識するあらゆる知覚が閉じていく。もう外界は認識できない。それでもわたしは考える。気絶するまであと四秒。多量の出血で供給が断たれた思考処理エネルギーの残量を気にしながら、これからのことを考える。トドと荒野ではどちらが勝つだろうか。トドが妹を守る意志の後押しと、荒野がいま物理的にわたしを守らなければならない足枷を鑑みるに、八割でトドが優勢か。

 どうしてこうなったか。織原七重だ。あんな異常値をを相手にしているのだから、二回や三回の予想外はあるだろうと予想していた。覚悟していた。その一回目がここに来ただけだ。

 これからわたしは気を失う。無防備になる。生命も危うい。焦っても未来は好転しない。だから焦りはしない。



 まず意識が目覚めて、次に体が起動する。

 全身を包む倦怠感と絶望感を、意志の力で解体していく。数秒でコンディションを整える。周囲の状況を認識するために目を開く。わたしが持っているすべての目を。


 ワゴンに乗せられていた。


 わたしは最後列の右に座らされていた。隣には大男が座っていた。本体が厳つすぎてコスプレみたいになっている高校の制服と虹色の坊主頭。呼吸の間隔がとても長い。並大抵のことでは驚きもしない神経の図太さ、腹の据わりようが見える。首も太い。格闘で倒すとしたら骨が折れそうだ。おそらくこいつが鳴瀬克美だ。こいつがわたしを拉致したのだ。手下を使って。

 向かい合う席に、派手なシャツを着た男二人が電話でゲームをしていた。創攻会の組員もしくはその傘下のチンピラだろう。

 性能を確認した後、わたしはまた目を閉じて自分の状態を確認する。体の三カ所がガムテープで束縛されている。両足と膝と、背中に回された両手。怪我人相手に徹底していると言いたいところだが、口は塞がれていない。尋問時に剥がす手間を省いたのだ。そして何より肝心の目が塞がれていなかった。これは減点だ。おそらく状況が見えた方が恐怖を与えられると考えた、と言うよりはわたしの反応を見たかったのだと見える。迂闊な判断だがこいつらはわたしの目の性能を知らない。

 シャツがはだけられて下着と腹に巻かれた包帯が露出している。傷は手当されていた。きつく巻かれたナイロン生地の下に、傷口を押さえる綿の布が挟み込まれている。わたしの鼻腔が血の臭いをより分けてその布の正体を特定する。荒野だ。荒野のTシャツとYシャツの切れ端で止血がなされていた。つまり荒野は、わたしをトドから守りきることは出来なかったが止血は出来たことになる。おそらくギリギリの交渉があったのだろう。トドは腕を慣らした不良だとは言えどちらかと言うと平均的な神経の持ち主だ。喧嘩で死人を出すことも、織原七重を殺人者にすることも彼は望まなかったはずだ。だから荒野はその利を説いてトドに邪魔されずにわたしを手当することが出来た。その間にトドは仲間を起こす。荒野がわたしの止血を完了した頃には、その周りを連中が囲んでいる。荒野一人では勝てない。昏倒させられるか脅されて、わたしの誘拐は阻止できなかった。ともかく荒野はわたしを生かしきった。上出来だ。あとで誉めてやろう。

 また目を開く。このワゴンには織原七重も荒野もいない。しかし別の車で運ばれているはずだ。わたしは体をひねってワゴンの後方を確認した。遮光フィルム越しに別の自動車が一台見えた。凝視。後部座席に織原七重と、同じく束縛されている荒野が見えた。荒野からわたしは見えない。遮光フィルムを透過するほど彼の目は良くない。

「起きたか」

 動いたわたしを見て、鳴瀬克美が口を開いた。補正をかけてみると、やはりトドが電話していた相手の声に一致していた。彼の声に反応してチンピラ二人がゲームを止めてこちらを注視する。鳴瀬克美の支配力の大きさが伺えた。

「気分はどうだ? 黒野宇多さんよ」

 悪くないよ、鳴瀬克美さん。などとは答えない。わたしが鳴瀬克美のことを知っていることを鳴瀬克美は知らない。みすみす情報をくれてやることもない。さらに言えば、わたしの性能をさらけ出す必要もない。相手の期待や想定を出来るだけ裏切らないことが情報戦では有利だ。


 わたしは表層だけを取り繕う偽装人格を生成した。

 トドの報告と矛盾しない程度に弱い黒野宇多の人格だ。



「何よこれ……なんで縛られてるのわたし? ちょっとこれ外してよ。はやく外せよ今すぐ!」

 わたしの預かり知らぬうちにわたしに不利な状況が出来ていてわたしは許せない。何よこれ。これ何よ。冗談にしても質が悪すぎる。ふざけるな。

「何笑ってんだよ。外してよ。外してって言ってるでしょ! 日本語分からないの!?」

「うるせえよ」

 鳴瀬克美が手の甲で、わたしの鼻っ面をぶっ叩く。ぞんざいに、蠅でも払うかのように。わたしは避けた。攻撃に反応して頭を伏せた。

「食らわねえよバカ!」

「ああ、お前だけで六人ぶっ倒したんだったな」

 奴は嘲るように笑う。それでわたしの中の何かが切れた。お前もぶっ倒してやるよ。わたしは口を開いて、鳴瀬克美の首筋に飛び込む。手足が縛られていてもわたしは動けた。頸動脈を噛みちぎってやる。

 しかし奴の反応は速かった。奴の大きな手が動き、わたしの首が捕らえられる。握られる。首全体ではなく喉をつまむようにして力を込められた。

「、ぁあ……゛っ! かふっ」

 息が止まるとかいう以前に、捻じ切られてしまいそうな痛みがわたしの神経を支配した。思わず口を開く。口腔への刺激で涙が滲む。わたしはむせた。

「暴れんなよ」

 勝ち誇った声。頭に血が昇っておかしくなる。殺してやりたい。いやそれじゃ足りない。きっちり同じ目に遭わせた後で社会奉仕させてやらなければ気が済まない。だけどわたしは何も出来ない。

「後で可愛がってやるからよ。色々聞きたいこともある」

 奴の手が離れた。わたしはせき込みながら、高ぶった感情を抑えようとする。だめだ。むかついてどうにもならない。感情は言葉になって爆発した。

「何なの……ここどこよ! わたしをどこに連れてく気!?」

「うるせえってのが分かんねえのか?」

「痛っ!」

 右胸を思いっきり掴まれた。潰れるかと思うくらい強く。前がはだけられていたのを思い出して、わたしは今更羞恥の感情がこみ上げた。力なく拒絶する。

「やめて……やめてよ」

「てめえがうるせえからだろうが」

 鳴瀬克美は攻撃的に目が吊り上がった、その闘牛のような顔をわたしに寄せてきた。わたしはもはや噛みつく気にはなれない。どうせかわされ、痛めつけられる。ちくしょう。畜生畜生畜生。わたしは精一杯の抵抗で奴を睨みつける。わたしにはどうして織原七重のような魔法が無いんだろう。わたしが抱いているこの想いの、十分の一でも伝われば奴を呪い殺せるのに。

「静かにしねえと握りつぶすからな」

 鳴瀬克美がわたしの胸を掴んだまま警告する。その上で、そんなことを言っておきながら、わたしをべろりと舐めてきた。

「い、厭っ!」

 首もとから、頬を経由して目元にかけて。うっえええええ。最悪だ。不快な感情が、同時に沸いてはいけない数を越えた。嫌悪と羞恥と屈辱と嘔吐感と……そしてわずかに恐怖と不安で……わたしは身を縮こまらせる。叫ぶなというのか。この状態で。わたしの奥歯がぎりぎりと鳴って頭蓋に響いた。

「おうよく我慢したな。やりゃあ出来んじゃねえか、なあ?」

 痛い痛い痛い。気まぐれに胸が絞られる。わたしは泣いた。屈辱が目からこぼれるのを、意志の力では止めきれなかった。このわたしが、こんな。

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