第8話

<荒野>


 見知らぬ車に乗せられて、俺はどこかに運ばれていた。運転は角刈りの中年がしている。

「荒野くん荒野くん、荒野くんはなんでそんな変な名前なの?」

 隣には織原七重がいる。騒いでいる。相席になったのは彼女の要望らしい。俺は黒野さんの手当にシャツを使ったので上半身裸だ。そして手足をガムテープで束縛されているので、何をすることも出来ない。だから俺の隣に彼女を置いても危険はないとの判断があったのだろう。リーダーが何者かは知らないが。

「そいつ荒野っつうの? え、7eはなんでそいつに親しげなの。友達?」

 助手席には金髪の不良がいる。例の目が良いと黒野さんが言ってた奴だ。こいつには黒野さんを助けさせてもらった恩と、袋叩きにされた恨みがある。

「邪魔すんなよ話しかけるなよこの田園。収穫するよ?」

 収穫時期の麦畑を金色の絨毯と言う。

「ナナエは荒野くんと話してるの分かれよ死ねよ。あっち行けよ」

 車の中なのに無茶を言いながら、ナナエは助手席を蹴り付けた。金髪はため息をついて何も言わなくなった。織原七重はなぜか俺に興味があるらしい。

「荒野くんはさあ、駅のホームから飛び降りたら好きなとこにワープできるって言ったら飛び降りれる? 犬のうんち食べたら何でもひとつ願いが叶うって言ったら食べれる? 幾ら貰えたら人を殺せる?」

 織原七重の質問責めを聞き流しながら、俺は黒野さんのことを考えていた。おそらく違う車で運ばれているのだろう。ひょっとしたら前のワゴンがそうなのかも知れない。黒野さんも俺と同じように束縛されている。八方塞がりの状況だ。しかし特に心配はしていない。俺は出来ることはした。黒野さんを死なせなかった。黒野さんは生きている。だから大丈夫だ。どうせ助かる。

 絶望とは破局を逃れる可能性が一切ないことだ。しかし黒野さんは必ず切り抜ける。だから、絶望とはそれ自体が矛盾した概念であると言える。

「親と友達どっちが大事? 信念のためなら何をしてもいいと思う? 信念って何だと思う? ねえねえ。ねえシカト? シカトしないでよ」

 織原七重が俺の髪を掴む。甘かったその声もだんだん険しくなってきている。

「あのね。ナナエは自分が一番だよ。だからさ、いくら荒野くんのこと気に入っててもさ、シカトされると許せないんだよね。なんか言ってよ。髪抜くよ? てっぺんから十本くらいずつ抜いてくよ? 荒野くん髪多いから地道な労働だけどさ。あ、田園にやらせよっかな」

 髪を抜かれるのは困る。意志があって沈黙してる訳ではないので、俺は織原七重の質問に答えた。

「前例があるなら俺も飛び降ります。本当に何でも叶うなら犬の糞も食べる価値はあると思います。殺す値段は人によりけりです」

「あー差別だ。いっけないんだ、差別」

 織原七重が俺をなじった。彼女は平等主義的な振る舞いなど一切してないから、おそらく冗談で言っていると思われる。冗談は取り合わなくてもいい。

「俺は親か友達かで人は選びません。何をするかを定めるのが信念なので、さきほどの問いはナンセンスです。信念は、その人が生涯で受けたダメージや、支払ったコストから形成された一種の傷跡のように捉えています」

 頭に痛みが走る。毛が抜かれた。

「何言ってるか分かんない。だから罰だよこれ」

 なるほど。俺はルールを理解した。俺が自分を守るには、どうすればこの女のストレスを買わないかを予測する必要があるようだ。

「では言い直します。信念のためなら、そうですね、おっしゃる通り何を」

「いいよもうそれは。それよりさ、ウタちゃんとはどういう関係なの? つきあってる? なんかさっき息合ってたよね。キモいくらいに」

「付き合ってないです。俺たちはボスと手下です」

「ははあーっ? ハウアユー?」

 織原七重は変な声を出した。おそらく音に意味は無い。

「仕事でも部活でもないよね。なんか脅されてるの?」

「いえ、脅されてはいないですね」

「だよね。じゃあなんで手下なんてやってんの? なんで? ねえなんで?」

「答えないと抜きますか?」

「答えないと抜きますよーよんよん」

 頭頂が痛む。彼女が俺の髪を引っ張っていた。二度三度と。やめてほしい。

 俺は少しだけ逡巡した。答えるべきだろうか。ここから先は俺のパーソナルな領域だ。心のうちをべらべら喋る趣味は俺にはない。しかし髪はあまり抜かれたくない。

「恩があるんです」

 強い抵抗があるわけでもないので話すことにした。

「小学から中坊にかけて、きつい思いしてたのを助けてもらったんです」

「何それ何それ。いじめられてたとか?」

 織原七重は足先をゆらゆら回しながら聞いてきた。なんだか生死のかかっている状況とは思えない会話だ。日常の一コマかと思えてしまう。俺は一瞬、いま自分が何をしているのかを見失いそうになった。

「いじめって感じじゃないですね。むしろ過剰に好かれてたんです。上級生の女子三人にだったんですけど」

「ほーほーほー。荒野くんかっこいいもんね。あ、昔だとかわいいって感じかなー?」

「可愛がられてた感じですね。リボンつけられたり、ひどい時には女の服着せられたり、今思えば異様な関係だったんだと思います」

「ふはっ」

 彼女は天井を向いて吹き出した。ツボに入ったらしい。当分俺の毛髪は安全そうだ。

「昔はさぞ似合ってたんだろーね! でも今やったら気持ち悪いだろうね! いーねいーね! もっと聞かせて!」

 バタバタ跳ねて俺の話を促す。よく動く女だと思った。

「ほかの男子でも彼女から貰ったピンクの人形とか鞄につけてた奴はいたし、そういうギャグで片づく気もしたし、まあ普通の範疇なのかなと思って拒みはしてなかったんです。でもよくよく胸に手を当ててみると、つらかったんですよ」

「スカートとか穿かされて? ふっひっひ」

「それもそうなんですけど、他にも色々あれしてこれしてってお願いされて、変なことも言わされて、俺、わりと人から言われたことを何でも受け入れちゃうところがあって、はいはい言うこと聞きながら、自分はそんなことしたくないし、しんどいことに気づいてなかったと言うか」

「あー分かる分かる。荒野くんぼんやりしてるもんね」

「はい。黒野さんは『我が薄いから抵抗なく流される』って言ってました。自分でもそうだなって思います」

 そしておそらくそのせいで、織原七重の汚染には逆に耐性があるということなのだろう。黒野さんの話から察するに、彼女の汚染は我の共振に基づいているからだ。

「それで俺、八つ当たりをするようになって。ストレスが自覚もなく溢れるんですよ。気づいたらコップ握りつぶしてたり、なんでそんなに怖い顔で睨むのってクラスメートから言われたり。彼女らは近所に住んでて、幼稚園の頃からの付き合いだったから、そういう遊びをするのがずっと当たり前だと思ってて、拒否しようなんて考えもしなくて、でも表現しづらい居心地の悪さとか、何しても落ち着かない感じがありました」

 俺は説明する。織原七重は体をゆすっている。黙ってるから、たぶん聞いてるのだと思う。

「遊びは彼女らと俺が大きくなるにつれて、落ち着くどころかどんどんエスカレートしていきました。小さなカルトみたいなものだったんだと思います。大人とかクラスメートの目の届かない閉鎖空間でよく遊ばれてましたし。彼女らの部屋とか俺の部屋とかです。性的接触も強要されました。彼女らの中で序列があって、その順番で」

「ほら来た! ほら来たよ荒野くんはー!」

 織原七重はなぜか満面の笑みだ。俺は心底、他人は分からないと思う。そして彼女は聞いてきた。

「その子たち、可愛かったの?」 

「そんなことは無かったと思います。たぶん」

 俺は曖昧に答えた。これが一番正直な回答だからだ。

「たぶん? 何それおかしいよねたぶんって。可愛いかは分かるでしょ」

 織原七重は俺の髪をまた握ってきた。

「それやめて欲しいです。いや俺、あんまり分からないんですよそういうの。本当に。そりゃ黒野さんとか織原さんが人より均整取れてるぐらいは分かりますけど、基本的に俺は、人の美醜の判断はつかないです。一時期は、例えば女子についてなら、目が大きいことがみんなの言う可愛いの基準なのかなって当たりをつけたこともありますけど、どうやら必ずしもそうって訳ではないみたいですし。ただ他の人は彼女らをブスだって言ってたんで、おそらく織原さんから見てもそうなんじゃないかなって思います」

 俺は思ってるまんまを言った。分かりませんなどという曖昧な回答になったが、可愛い可愛くないを俺が決める必要もない。曖昧でいい。

「とにかくですね、俺が陥ってた状況をまとめると、心底苦痛でしかない彼女らとの関係に甘んじるストレスから来る、憎悪のやり場のなさで、俺は歪んでいったんです」

「ふーん。結構ヘンテコだね荒野くん。だってその子たち荒野くんのことを好きだったんでしょ? 荒野くんの好きにすればいいのに。逆に言うこと聞いてもらったりさ。ナナエなら絶対そうするね」

「黒野さんが言ってました。彼女らは、俺のことを好きな自分が好きなだけなんです」

「だから何? ナナエのファンだってそうだよ?」

「そんな人たちをよく相手に出来ますね。怖くないですか?」

「怖くないよ。ナナエだって自分だーい好きだしね。それで自分好き同士、気が合うんだよ」

「よく分からないです」

 本当によく分からない。好きとはAがBを好きになることだ。AとBが一致するというのは、どういうことなのだろう。俺は自分のことは別に好きではない。嫌いでもない。だから分からなかった。よく聞く自己嫌悪というのも分からない。

「その辺ウタちゃんはどうなんだろうねー。あーそうだ! それで、その困ってた荒野くんに、ウタちゃんがどう絡んで来るわけ?」

 織原七重が俺に興味を持つのは、俺を通して黒野さんを見ようとしてるからなのだろうか。

「中三で同じクラスになったんです。数日で歪みを見抜かれました。俺自身ですらよく分かってなかったのに。公園に連れ出されて、俺の私生活を聞かれました。素直に答えてたんですけど、なんか俺、彼女らのことになると誤魔化したりはぐらかしたりしちゃうんです。でもそうとするとそこをビシビシ追求されて。で、俺はよく分かんなくなってきて、黒野さんに殴りかかったんですが、拳を跳ね退けられたかと思うとバッキバキにボコされました。俺は砂場に倒されました。公園はそれも見越した場所選びだったみたいです。なんなんだこの女はって思ってたら今度は黒野さん、俺にいきなり、彼女らに仕返ししろって言ってきて」

「やっつけたの?」

「はい。最初はそんなのあり得ないと思って、断りました。また蹴られるかと思ったんですけど、黒野さんは『あんたがやらないなら私がやるよ』って言ってきました。それは困るって言ったら、軽いビンタでもいいから俺がやったら自分は手を出さないって言ってきたんです。何でそんなことを言うのか分からなかったんですけど、でもそれならいいかなと思って俺は深く考えずに承諾しました。で、その後約束通り彼女らをビンタするんですけど、そしたら俺、堰が切れたみたいに彼女らに対する怒りが噴出したんですよ。縮こまる彼女らを喚きながら何度もぶっ叩きました。黒野さんは暴れる俺を止めました。そのお陰で相手に酷い怪我を負わせることも無かったんですけど。で俺は落ち着いて、その後で黒野さんは、俺が陥っている状態のことを教えてくれました。彼女らもそれ以来俺に変なことはしてこなくなりました。馴れ馴れしく話しかけてくるのは相変わらずなんですけど、まあそれだけです。無害になりました。それから黒野さんからオファーを受けました。俺は犬みたいなもので、俺に必要なのは彼女らみたいに俺を人形にする幼稚な主人じゃなくって、俺の性能を引き出してくれる優れたブリーダーだ、だから自分が荒野を使ってやる、って言ってきたんです。俺はその話に納得して、ああじゃあそれでお願いしますって承諾しました。こんなとこですかね。長くなっちゃいましたけど」

「そっかー。ウタちゃんってなんか、ウタちゃんなんだねえ」

 織原七重は俺の長話をしっかりと聞いていた。これだけ長いと途中で放り出されるかと思っていたので意外だった。やはり彼女の興味の中心は、黒野さんにあるのかも知れない。

 織原七重は運転手に言った。

「ねえねえ、ちょっと止めてくんない?」

「え、そりゃあ出来ませんよ。克美さんたちと一緒に石切り場まで行くんですから」

 この車は石切り場に向かうらしい。克美という名前も一応覚えておく。何者なのかは分からないが。

「いいから止めろよ」

 織原七重が強く言うと、運転手はコンビニの駐車場に車を止めた。そして織原七重は俺に言う。


「放してあげるよ」


 唐突な申し出だった。

「は!?」

 抗議したのは金髪だ。

「いや放しちゃ駄目だろ。克美さんに殺されるだろ。俺らが。って言うか俺が」

「田園は黙ってろよ」

 織原七重が言った。金髪は引き下がらない。

「7e、頼むよ。克美さん怖ぇんだよ。そいつ下ろすのはだめだろ。ナシだろ。俺、止めるからね? 力づくでも」

 どうやら克美というのが、この状況を指揮してるリーダーらしい。俺と黒野さんをさらったのはその克美だ。織原七重はそれを蹴って俺を解放しようとしている。なぜ? 織原七重だからだ。おそらく筋の通った理由はない。

「めんどくせえなーもう。はーめんどくさ、はーめんどくさ」

 織原七重はぼやきつつ、電話を取り出して誰かに通話を繋いだ。

「ヘイかっつみ? あのさ荒野くん帰らせたいんだけどいい? んー、ナナエは天使になりました! ってーか、なんかいじめる気しないんだよね。こいつ。は? つかナナエのためって、それならナナエの言うとおりでいいじゃん。ナナエがいいっつってんだからいいんだよ。ウタちゃんも捕まえてる訳だしさ、ウタちゃんだけいればいいっしょ。知ってる? ウタちゃんがボスなんだよ」

 話しぶりから察するに、織原七重と克美は対等の関係にあるらしい。克美は俺たちを捕まえて何をするのか? おそらく織原七重を襲った理由を尋問されるだろう。彼女が危険な災害である、という黒野さんの主張をもしも話したところで納得されるものかは分からないが、何にせよただでは帰されまい。金髪の怯えっぷりから察するに、命を損なうことも考えられる。相手は本気だ。であれば一度捕らえた獲物を、彼らが何もしないうちから逃がす道理は無い。金髪や克美の反応は尤もだ。

「いーってさ。やったね荒野くん」

 織原七重が通話を切って言った。「マジかよ。まあ、克美さんが良いって言うなら」と金髪も矛を収める。

 しかし俺は言った。

「いや、このままでいいです。運んでください」

 俺は考えた。一度逃げるよりも、黒野さんと一緒に運ばれてしまった方がいい。

 一度逃げれば、この束縛を外せる。行動可能になる。そして黒野さんの居場所はGPSで分かる。電話が捨てられても発信機を複数隠し持っている。警察を呼んでもいい。しかし時間が惜しい。フル武装で現場に駆けつけたもののすべて手遅れでした、では意味がない。黒野さんがどんな状況にあろうが、あの人自身ほど頼りになるパワーは他に無い。であれば、黒野さんのそばにいていつでも補助できる状態にいる方がいい。束縛は黒野さんが何とかしてくれるだろう。おそらく似たような束縛は黒野さんにも施されているのだから。

「黒野さんから離れる訳にはいかないです」

「はあ? ナナエが放してあげるって言ってんだから行きなよ。テープも外してあげるからさ。ナナエって優しい。すごい天使」

「いやそりゃまずいって。そのまま外したら暴れるだろ。一回寝かすんだよ」

 金髪がまた割り込んできた。

「寝かして、ガムテ外して、こんなとこじゃなくてもっと人気が無いとこに放置な。ここじゃ駄目だろ。目撃されたら騒がれる」

「うっせーな。大丈夫だから。見られないから」

「見られるだろ。ここどこだよコンビニだろ」

 俺も言う。

「あーの、でもまあ俺このままでいいんで」

「だーもう! せっかく人が天使やってんのに、何なのそのごちゃごちゃ」

 織原七重がキレた。沸点が低い。

「ごちゃごちゃ言うのがいっちばんうざいわ。うるさいうるさい! ごちゃごちゃ禁止! もういいよ。天使やめるわ。ナナエには無理だった。寝る。天使やめて寝るわ。おやすみ!」

 一方的に話を閉じて、織原七重は横になった。俺の膝に頭を乗せる。

「うっわ。超暴君。超アントワネット」

 俺は金髪と顔を見合わせる。一瞬だけ妙な馴れ合いの空気になったので、俺は頼んでみた。

「先輩、この人なんかもういいみたいなんで、このままお願いできますかね」

「おう」

 金髪が了承し、この場に異論がなくなった。金髪は運転手に頭を下げる。

「じゃ、行くでいいみたいっす」

 車はブロロンと発進した。

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