03:変節
僕がK興業の異様に気づいたのは、それから直ぐだった。
引っ越しの手続きを終え、仕事が始まると同時に明かされた今更の労働条件。すぐに原発で高収入だとあぐらをかいていた僕とても、余りのブラックさ加減に、開いた口が塞がらなかった。
日当:六千円
実働:月十五日(手取り九万円)
寮費:八万円
ざっくりと条件を並べればこの通り。しかも業務内容は道路工事。溶解温度が100度を超すアスファルトの合材を、路面に撒き整地する作業である(なお炎天下の100度がどのレベルかと言うと、通常の安全靴の、靴底が溶けて無くなる程度と考えて頂ければ良い)
どう考えてもこの手の作業となれば、安かろうとも八千円は超えるのが筋だ。にも関わらずの六千円に加え、実働は十五日。これはどうやら孫請けという、自分自身では現場を取ってこれないK興業の弱さに起因するものらしいが、ここに雨天等々による土木特有の休みをも加味するなら、月で九万稼げれば御の字という恐るべき結論に辿り着く。
なるほど確かに食事は出るが、糖尿病を患っている社長に合わせての菜食メイン。一日で最も豪華な夕餉ですらその始末で、朝食は食パンが二枚、昼飯はおにぎりが二つと、明らかに夏場の肉体労働を支え得る水準に無い。強いて言うなれば、ここはどこの戦時下なのだというお話だ。
そうなると身銭を切って何がしかを買う必要性に駆られる訳だが、月九万の所得から寮費を引けば僅かに一万。さらにここから携帯代が差っ引かれるなれば、一日一本のポカリスエットを買ってさえも赤字になる。とどのつまり、初めから家計が成立しない。
では正社員たちはどう暮らしているのかと周囲を見渡してみると、なるほど。給与の前借りという実質の借金で以て、終わりのないラットレースに身を投じている。毎夜の如く続く麻雀にもそこで合点が行き、要するに賭け事によって起死回生を図ろうなる所存。そしてその賭け麻雀で社長から更なる借金を背負い――、これならばまだ、ペリカとは言え金が貯まるぶん某漫画のほうが救いがあるでは無いかと一考する程度の地獄絵図が、どうやらこの会社の実態だった。それらを見抜けなかったのは己が不徳というより、人生経験の未熟さと、原発へ行けると浮足立った軽挙こそが遠因だろう。なにせサインは幾らでもあったのだ。そも興業の二文字に、小指の無いBさんを目にした時点で。
「じゃあ僕、先にお風呂いただきますね」
そして頃合いを見計らい口を開く僕に、雀卓を囲む四人はろくに反応を示さない。まあ社長を除けば、文字通り命が懸かっているといっていいのだから、さもありなん。こそこそとその場を抜け出す僕は、離れを出るや溜息をつき背を伸ばした。
ここに居る四人は、もっぱら面子が決まりきっている。社長とBさん、それにCくんに、先生と呼ばれる中年男性。――先生とは社長がそう呼び始めたから付いた名前で、元は関西で薬屋を営んでいたらしい。体調を崩し西成地区に落ちぶれた所で原発の求人を知り手を挙げたとは聞くが、実際の所は分からない。ただ社長へ幾つかの薬剤を提供している様で、働かずとも暮らしていける程度の信用は得ていると見える。
「ロン、また私が貰いますわ」
背後で響くのは先生の声。麻雀もそれなりに強い彼は、恐らくこの寮で社長に張り合える唯一の人物だろう。気がつけば古株の二人を差し置き、参謀よろしくNo.2の席に収まっている。もしかするともう、原発への興味は然程ないのかもしれない。なにせ僕の部屋の正面で、普段は毛布にくるまっているのが先生だ。真夏の道路工事どころか、外を出て歩くだけでも倒れかねない。
「あー、また負けた!」
恐らくは頭を抱えているであろうBさん。考え事が苦手なBさんと、若干の知的障害を抱えるCくんは他の二人にとっては格好の餌で、だからこうして負けを取り返そうと、毎日毎日借金を増やすハメになっているのだ。そもそもまともな思考があれば、こんな所とっくの昔に抜け出していて道理な訳で、或いはこの結果もわかりきったものと言える。
だから僕は(元々麻雀自体できないが)この機会を利用してそそくさと退散し、さっさと風呂に入って自分の時間を作ろうと躍起になっている。なにせタイミングさえつかめれば、一日一時間程度は創作に割り当てる事が出来たからだ。
「――あ。Eさん」
そこで僕が母屋の戸を開けると、キッチンに立っていたのはアニヲタのEさん。一応は麻雀のできるEさんだが、賭けである事を警戒し、雀卓が埋まった暁には、こうして料理当番を引き受ける事で難を逃れている。さすがは一人娘を育てているだけあって、最低限のレシピエントは脳内に叩き込まれているのだ。どのみち面子さえ揃えば連中は結構なのだから、それに加えて家事をこなしてくれるならと、この行為については、K興業側で黙認されている向きがある。
「お、◯◯くん。お疲れ」
「はい。何とか抜け出せました」
ハイタッチを交わし合う僕たちは、最近はこうして会う度に、K興業を抜け出す算段について話し合っていた。
「やっぱりここ、原発行けないと思うんだよね」
「そうですか。自分もそんな気が。そもそも地元にすらツテの無い会社が、どうやって福島とコンタクトを取っているのか怪しいですし」
引っ越しから一週間が経ち、Eさんがやってきてから一ヶ月が過ぎた頃、どうやらEさんの顔にも諦めの色が滲み出ていた。K興業に対する不信はあれど、さりとてお金は要ると我慢し続けた顛末は、まったくの無駄骨で終わりそうだとお互いに頭を振る。
「俺は元の運送屋に戻るよ。◯◯君が行くとするなら、自動車会社なんてどうだい?」
「……なるほど」
Eさんの提示する案は、愛知に居を構える自動車工場への期間勤務。ここなら寮と食事が付いて、定期的にボーナスが出るから、福島へ向かう路銀稼ぎには最適だろうとはEさんの弁だった。そして確かにと頷いた僕は、既に電話で、面接の日取りを入れ終えていたばかりだ。
「ただ俺ももう出るつもりではあるんだけど、一個だけ気になってる事があってね」
「なんです、それは?」
そして折りに触れEさんが口にするのは「第一陣として発った」とされる、もう一人の同僚の存在。仮にここではOさんとしておくが、彼の所在を探り終えてから出たいのだと、Eさんは悩んでいた。
「連絡が取れないんだ。携帯も繋がらない。そもそも朝起きたら居なくなってた。社長たちは原発に行けたんだって口を揃えるけど……」
明らかにおかしいよと肩をすくめ「アイツも君と同じく若くてね。せめて無事であってくれればいいんだけど」と溜息をつく。
「Eさんも娘さんがいらっしゃるんですから、余り無理はなさらないほうがいいですよ。僕ももう、諦めて今月で出るつもりですから。一緒に逃げましょう」
「そうだね……まあまだ時間はあるから……と言っても、本当に無理そうだったらそうしよう」
疲れきった笑みを零すEさんと別れを告げ、僕は一番風呂を浴びに浴室に入る。しかして水道代の節約だとかで、湯船にすら浸かれないバスタイムは、代わりに疲れだけを日々累積させてくれる。
* *
――カラン。
暫くして何か音を聞いた様な気がした僕は「Eさん?」と呟き振り返る。
風呂場とキッチンは繋がっていて、離れに四人が集う現状、Sちゃんを除けばここにいるのはEさん以外にあり得ない。
「誰かいらっしゃるなら、お風呂でますよ?」
だけれども、と。相変わらず僕の脳裏を過るのは、もしかすれば居るかも知れないSちゃんの存在。万が一、年端もいかない少女の前でのフルチンだけは避けようと、僕はタオルで体を拭き、ジャージを着込んでからキッチンに踏み出す。
シンと静まり返った室内では、遠くから四人の声が聞こえる以外に何もない。それでも気になって仕方が無かった僕は「Eさーん、Bさーん」と、各々の名を小声で呼びながら、抜き足差し足で土間へ進む。
そして土間に至り二階へ続く階段を見上げた時、そこに居たのは、果たしてSちゃんでは無くEさんだった。子供部屋の前で微動だにしないEさんは、僕の声にも無反応なまま正面を見据えている。
「Eさん! Eさん!」
尋常では無いと推し量った僕が階段を駆け上がり、Eさんの耳元で名前を呼ぶ。そうしてやっとはっとした様に彼は、僕のほうを見てぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。
「……Eさん?」
その普段との余りの変貌に虚を突かれた僕は、何事かあったのかと流石に問い詰める。しかしてEさんは、そこでようやく我に返ったのか、焦点の合わない目を辛うじて一箇所に集中させ、引きつった笑みを浮かべた。
「ああ……◯◯君か……いや、なんでもないんだ。ちょっと立ちくらみがしてね……ははは……年かな……」
ボリボリと天然パーマを掻くEさんは「じゃあ俺、風呂に入るから。おやすみ、◯◯君」と言い残すや、階段前に立つ僕を押しのけて、ふらふらと風呂場へ向かっていった。
(どうしちゃったんだ、Eさん……)
或いは熱中症だとかの可能性もあると身を案じた僕だったが、暫く部屋で作業をしていると、上がってきたEさんはいつも通りに朗らかだった。或いは気の所為でもあったかなと思い直し、その日も僕は、仕事の疲れからか早々に眠りについたのだった。
* *
しかして、異変が起きたのは夜遅く。ドタバタと響く音に叩き起こされた僕は、眠気眼で辺りを見やる。豆電球一つに薄ぼんやりと照らされる室内に異常は見当たらないが、どうやら音は、隣室から聞こえるらしい。
「殺してやる!!!!!」
叫声に始まり「やめえや!!」「あかん、押さえろ!」と続く男たちの声。……夢でも見ているのかと立ち上がる僕は、廊下に向かう障子を開けた所で、これが
僕の隣の部屋。すなわちEさんの部屋。そこから響く怒声は明らかに尋常では無く、激しく揺れる電球の光が、室内で起きているであろう騒動について瞭然と知らせてくれる。
「Eさん!?」
そして咄嗟に駆け出していた僕は、Eさんの部屋になだれ込む。障子は開けられていて、中ではEさんを羽交い締めに、取り押さえる社長以下、BさんCくん、先生の姿があった。
「◯◯か! ちょうどいい! Eさんを押さえろ! おかしくなった!!!」
見ればEさんは、平素の穏やかな表情が思い出せないほどに白目を剥き「殺してやる!」と連呼している。右手にはカッターか、よくわからないが刃物めいた何かを持ち、Cくんが必死にその手を押さえている。Bさんはチョークスリーパーの要領で首を取り、力で劣る社長と先生が、左手と左足を、それぞれ自重で以て封じ込めていた。
「どうしたんですか!? これは??」
眠気すら一瞬で吹き飛ぶ有様で、空いている右足に乗らんとする僕。言ってみればここに住む男性陣の、誰よりも温厚であろう筈のEさんが、獣の如く気勢と共に涎を散らすのは、或いは心霊番組で見る狐憑きの様に恐ろしい光景だった。
「Eさん! Eさん!」
どうすればいいのか分からず、必死でEさんの名前を呼ぶ僕。
「落とせ! このままじゃ殺られんぞ!!!」
怒鳴る社長に「はい!」と答える社員二人。一体何が起きているのか分からない僕は、それでも刃物への恐怖が先行したのか、Eさんの足を抑えるべく体重をかけようとする。
「――んぐッ!?」
だがその刹那。渾身の力を込めたであろうEさんの前蹴りが、丁度覆いかぶさる寸前だった僕のみぞおちを容赦なく痛打する。
「◯◯ッ!!!」
社長か、誰か分からないが、とにかく僕の名を呼ぶ声が遠くから聞こえて。ただ僕の意識は、それよりもさらにさらにどこか遠くへと飛んでいってしまう。
ドスンと、鈍く頭を打ち付ける音が脳内に響き、その日の記憶は、それを最後に途絶えてしまった。
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