04:失踪

 ひたひたと頬を濡らす、冷たい何か。

 薄っすらと瞼を開けた僕は、朧げな記憶を探る様に昨晩の事を思い出す。


 ……Eさん。

 ゆっくりと体を起こす僕は、ぼろりと額から転げ落ちた白い物体に気を取られ、コツンと小さく、柔らかい何かと頭をぶつけた。


「ん……」

「S……ちゃん?」


 僕を見下ろす様にちょこんと座っていたSちゃんが、どうやらおしぼりを変えようとした瞬間に僕は起き上がったらしい。か細い声で呻くSちゃんに詫びながら、僕は態勢を変え、避ける様に立ち上がる。


「ごめん……診てて、くれたの?」

「ん……」


 こくりと頷くSちゃん。


「……Eさんは?」

「……いなく、なっちゃった」


「!?」

 咄嗟に障子を開けた僕は、隣にあった筈のEさんの部屋へ歩いていく。携帯を開く限りにおいて、あれからまだ半日も経っていない。


「――え」

 だけれどがらんどうとした窓際の部屋は、誰かの居た痕跡すら無いぐらいに整然としている。Eさんが使っていたノートPCも、なのかのアニメグッズも、何もかもがなくなっている。


「E……さん?」

 開け放たれた窓の先では、ザーザーと雨だけが降っていて、僕の問いかけに答える者は誰一人としていない。記憶が夢で無いのなら、痛みが嘘で無いのなら、昨晩Eさんは、発狂に近い形で荒れ狂っていた。それを押さえるK興業の面々と、最後に加わった僕。ただし僕の記憶は、Eさんの蹴手繰りを最後に途絶えている。




「……いなく、なっちゃったよ」

 ぼそりと響く声にびくりと体を震わせ、僕は声のほうを見やる。Sちゃんがおしぼりを手に握ったまま、僕を見据えてじっと立っている。


「だって、昨日までEさんはここに……」

「……いなく、なっちゃったの」


 二度、三度と重ねるにつれ語調を強めるSちゃんに気圧され、僕は「……そう」としか返す事ができない。ともあれ看病してくれていた事実だけは確かなのだからと謝意を述べ、僕は他の誰かを探し一階へ降りようとする。そして降りようとした所で、思い出して立ち止まった。


「……ねえSちゃん、昨日EさんがSちゃんの部屋の前に立ってたんだけど、何か変わった事は無かった?」


 思い起こせば、Eさんの異変はその頃からだった様に思う。万が一とは思うが、Eさんの変調の原因の何か一端でも、Sちゃんが見ていてくれればとの縋る様な思いもあった。


「……」

 だがしばしの沈黙。雨の音が否応無しに響き、僕は問うべきでは無かった質問だったかと自らを責める。


「――いないよ。Eさんは、もう」

 ピシャリとした鋭い口調。その瞬間、ぞわりと背筋が凍るのを感じた僕は、逃げる様に一階へと駆け下った。




 いない? 半日もせずに? 荷物は? 車は?

 土間で靴を履き替え、傘を差し外へ出る。Eさんの靴も、持ち込んでいた車も、何もかもが一切ない。いやそもそも他の面子は何処へ消えたのか。呆然と雨のなか立ちすくむ僕の背中から、唐突にクラクションが響き飛び退く。


「◯◯! 雨ん中どうしたんや!」

 見ればハイエースに乗った社長以下K興業の面々が、窓から顔を出しこちらを眺めている。雨とワイパーが隠す彼らの表情は詳細には分からないが、ただ僕は、いつの間にか傘を捨てびしょ濡れになっていた事にようやっと気づく。




*          *




「おう、Eなら原発に行ったで。たった今、送ってきたばかりだ」

 暫くして体を拭き終えた僕は、そう語る社長の声に、漫然と耳を傾けていた。


「そうでしたか……」

 心ここに無しとでもいった風に呟く僕の、目の前で手を振りながらBさんが続ける。


「しっかしや。アイツが酒乱だったとは思わんかった。送別会も兼ねて飲んでたら、いきなり暴れだすもんだから」


 確かにBさんが飲酒する所を、僕はまだ見たことがない。だがいくら悪酔いすると言っても、人をも殺さんとばかりに大暴れする御仁が、一体世にはどれだけいるのだろう。


「すみません、そんな時に寝てしまってて」

「ええんや。むしろ今日が雨で休みになってよかった。◯◯は何も悪くない。巻き込まれた被害者ってもんだ。飯の買い出しやら何やらはウチらでやっとくから、よう休んどき」


 おもむろに投げかけられる優しい言葉に戸惑いながらも、少しばかり状況を整理したかった僕は頷いて二階に戻る。相変わらず雨は止まないままで、Sちゃんも居なくなった二階は本当にがらんとしている。


「いなく、なっちゃった――、か」

 確か初日に来た時も、Sちゃんからそんな事を聞かされた気がする。前に住んでいた人が、いなくなっちゃったから、って。


「……なんで、いなくなったんだ?」

 僕は音信不通になったOさんの事を思いだして、咄嗟に携帯を出しEさんに電話をかける。ツーツーツーとなるだけの電話は、次には電波が届かない旨の返事をこちらによこす。




「――誰に、かけとるんや?」

 しかして背後から響く声に、僕は多分、凄まじい形相で振り向いたろう。だけれど視線の先に立つのは、ニコニコと笑顔を振りまくBさんだった。


「あーいえ、友達から着信入ってたんで、かけなおしたけど繋がらなくて」

 さしあたって誤魔化す僕に「ええ、ええ、誰にかけようと◯◯の自由や。繋がったらええなあ」とBさんは続け、手を振ると自室へ向かっていく。


 ふうと溜息をつく僕は、冷静に状況を思い出す。そうだ。ここは監視されている、と。より正確に言うなれば、離れの声が二階にまで響く訳だから、その逆もまた然り。とどのつまり、屋内で電話をかける自由は、今の僕にはない。そうなるとメール以外に連絡の手段はなくなる訳だが、残念な事に、僕はEさんのメアドまでは交換していなかった。――今度はと深呼吸をし直した僕は、一つの決意だけを胸に秘め内心で告げる。


 逃げなければ。絶対にここから、逃げ出さなければ、と。作業員志望者の二人が消えた今、次にそうなり得るのは、悲しいかな僕以外にないのだから。




*          *


 


 しかして僕に与えられた(純然たる)自由時間は、週に二回ほどしかない。言うなれば社長の飼い犬を連れて一帯を散歩する、たかだか数時間。K興業の何がブラックかと言えば、ただでさえ薄給で出勤も少ない上に、仕事が無い時すら雑用を命じられる点にある。周辺の草むしり、花野菜への水やり、家の掃除、買い出しの手伝い、etc……当然ながらそれらは無償で、ゆえに瞭然とブラックなのである。


 ところが本来ならば憂鬱な諸事であった犬の散歩が、電話をかけられる唯一の時間だと知って以降、僕は率先してその役回りを得る事にしていた。なにせ真夏の炎天下、十キロ二十キロを歩くことを言祝ぐ社員の居る訳もなし。かくして僕は、この雑用を利用して、各所への電話連絡に充てていた訳だった。


「――ああ、ごめんな。頼む。うん、今度お礼はするから」

 その日電話先に居たのは、昨年別れた同級生。就職のため京都の実家に戻っていた彼女に、僕は希っていた。後輩とのいざこざ、そして現状についてはほとほと呆れ返られたが、引き受けて貰えた事に僕は精一杯の謝意を返す。


 内容は、現在手元にある機材の受け入れ。僕がK興業を抜けるにあたって最大の障害は、当時50万はしたMac Proだけしかない。PCの価値を知らないであろう面々に気取られる心配は無いだろうが、万がいち人質か、或いは売り飛ばされでもしたら笑い事では済まされない。


 だから僕はまずPCを安全圏に預け、それから脱出の段取りに入る事にする。――その計画は、こうである。




*          *




「金が無いんか、しゃあないな」

 寮費支払い日の三日前。社長にそう告げた僕は、だからモノを売ってきますと寮を出、駅前まで車を走らせてもらう。建前で本音を隠し、本懐を達するただその為に。


 なにせ僕は見てしまった。犬の散歩を終えたあの日、家の前のドラム缶で燃やされるEさんの私物を。それがゴミならばいい。だが顔を覗かせていたのは「なのか」のグッズで、大阪で僕が譲り、喜んでEさんが持って帰ったそれだ。アニメグッズだけは無碍に手放さないと豪語し、現地へ向かう為の車すら持ってきたEさんが、積める筈の荷物すらそのままに寮を出るというのは明らかにおかしい。そのおかしいが僕の身に降りかかる前に、先手を打って逃げ出そうというのは、いわば自明といっていい判断だった。


 行き先はO市の某所。Eさんの助言通り愛知県の自動車工場の面接に来ていた僕は、どうか受かりますようにと念じながらドアを叩く。しかしてどうやら人手不足に、震災巻き返しの製造ラインの折、その場での確約で以て就職先が決まる。ほっと胸をなでおろした僕はついでにお金を下ろし、さもモノを売ってきましたといった風で寮へ帰った。


 


*          *




「ほう、こんなに売れるもんか。流石やなあ」

 お前らも、前借りなんざしないで◯◯を見習えと周囲を一喝し、しかして諭吉だけは笑顔で受け取る社長に「いえ、運が良かっただけです」と僕は返す。無事お金が回った事で上機嫌になったのか、その日は特に何をするでも無く、僕は風呂を出ると自室へ戻った。


 あれから結局Eさんとは連絡が取れず、Oさんという人物の片鱗も掴めない。Sちゃんだけは辛うじてこっち寄りで居てくれるのかと慮りはするが、しかして不明な点も多く楽観視は危険だ。要するに僕は、孤独に孤独が輪を重ねて、疑心暗鬼に近い状態に陥っていた。それはK興業のブラックぶりもそうだが、度重なる怪奇現象にも一因はある。なにせ音はすれども人は居ない、気配はすれども誰もいない。そんな事がもう何度も何度も起きているのだ。

 

 遠くからは祭り囃子の太鼓が聞こえ、K興業の社員たちは手伝いと称して出かけている。とは言えまだ本祭ではない練習段階な訳で、或いは僕の渡した金で飲みにでも行っているのではと勘ぐる所ではあるのだが、いかんせん言及する余力は残されていない。


 いずれにしてもあと二日で全て終わるのだ。給料日に働いた分の金を貰い、そのまま颯爽と姿を消す。願わくば、先に居なくなったOさんもEさんも、そのように無事であったならと切に願いつつ、僕は漫然と視線を戸外に向ける。ひぐらしの声に混じる、祭り囃子の長閑な音頭。風通しの良い古民家は冷房無しでも十分に涼しく、時折肌を撫でる優しい風が風流を感じさせる。いったいこんな事態に巻き込まれなければ、最高のスローライフだったのにと悔恨を滲ませざるを得ない苦渋のロケーション。だけれどそんな一瞬の雑念は、次に聞こえた微かな音にかき消される。




「たす……けて…… たす……けて」

 ガリガリとドアを引っ掻く音に続いて、か細く消える様な声が響く。少女か、少年か、いずれにせよ子供の声。


「Sちゃん!?」

 そもそもこの家に居る子供はSちゃんだけである。そう咄嗟に名を呼んだ僕は、立ち上がると子供部屋のほうに走っていく。


 盛り塩と御札の置かれた階段の先、Cくんの部屋の隣にあるSちゃんの部屋は、子供部屋とプレートが貼られている以外、ガムテープの目張りによって中が分からない。


 ――ここは、開けちゃ、だめ。

 そうSちゃんから聞いていた僕だったが、相変わらず眼前のドアの奥からは、ガリガリと爪を突き立てる様な音と、助けを請う子供の声が交差している。


「Sちゃん! 大丈夫??」

 こんな時、誰か一人でもK興業の社員がいれば引っ張ってこれたものをと内心で毒づきながらも、これは緊急事態なのだと自らに言い聞かせる。


「開けるよ! いいね? Sちゃん!!!!」

 万が一にも中で異常事態が起きているとすれば、さしあたっては突入し、それで叱られたのなら後で悔やめばいい。そう頷いた僕は、ドアノブに手をかけると、勢い良くそれを回した。




 ――ガチャリ。

 意外にも呆気なく、鈍い、錆びついた音と共に開くドアが、音を立て闇に紛れる。


「Sちゃん! 大丈夫?!」

 僕はあらん限りの声で見渡しながら叫ぶが、返事はどこからも聞こえてこない。いやそれどころか、室内は灯りすら無く真っ暗で、そもそもが人のいる気配がない。


「ゴホッ、ゴホッ!」

 急激に息を吸い込んだ所為で咳き込む僕は、ホコリと蜘蛛の巣に塗れた室内に唖然とする。そのくせ物置として使われている様子もなく、どうやら文字通り、子供部屋だった頃のまま放置されているらしい。


 次第に暗闇に目が慣れてくると、ある程度の概要は見えてくる。八畳程度の室内に置かれた子供用のベッドに、学習机。至る所に置かれたぬいぐるみやお人形は、必ず二つで一組で、多分、きっと、だって、ほら――。

 

 写真立てに飾られた写真。たぶん・・・、二人の子供が笑いあっている。それが憶測でしか分からないのは、それは、片方の・・・誰かの顔が、真っ黒に塗りつぶされているから。笑っているのはSちゃん。恐らくは。なんで恐らくかって、だって、僕の知る彼女は、こんな風に笑わないから。だけれど白のワンピースは知っている。時折除く八重歯も知ってる。だから、これは、きっと。

 

 ――バタン!!! 

 そして響く音に体を震わせ、いっときに真っ暗になった部屋で僕は戦く。ドアが閉まったのだ。誰も居ないのに。居る筈が無いのに。いや待て、だったらさっき、この部屋の中から僕を呼んだのは誰なんだ!!??


 思考が急速に回転し収束し、ああこれは、これはヤバいヤツだと脳が告げる。アレだ。入っちゃいけない部屋。覗いちゃいけない世界。すっかり忘れていた。自身を取り巻く状況に気を取られ過ぎて、幽世の事などそもそも頭に無かった。だってそうだろう。怖いのは人だ。今生きている人だ。薄給で人をこき使い、奴隷にでもしようとするK興業だ。幽霊なんて、そんなものがあったとしたって――。


 内心で雄弁に語りながら、しかして表情をこわばらせ、いっそ泣きはらしたかの様に切迫しドアに駆け寄る。ドアノブを回す――、びくりともしない。ドアを叩く――、誰も答えない。叫ぶ――、何も響かない。どういう事なんだこれは、どうすればいいんだ。Sちゃん、僕が悪かったのか? この部屋に入ってしまった僕が? だったらなぜ呼んだんだ、君は僕を。いや。そもそも、僕を呼んだのはSちゃんなのか・・・・・・・・・・・・・・


 しかして答えなど得られよう筈もない。何か方策はないかと振り向いて部屋を見渡す。何か、鍵か、ドアを壊す何か。そんなものはないかと目を光らせる。光る。何が? ――鏡。どうして? この真っ暗な部屋で、どうして鏡だけが光っている!? さっきまでそんなものあったろうかという小さな化粧台の鏡が光り、その奥から白い影めいたものがゆらゆらと蠢いている。そしてそれは、あろうことか、どんどんとこちらに近づいている・・・・・・


 逃げよう。そう思う。だけれど腰は砕け、ふにゃりと地面に崩れ落ちた僕は、後退りをしようにももう後がない。だって後ろは行き止まり。開かないドアが蓋をして待っているのだ。だのに、だのに、だのに。白い影は、鏡から今まさにのっそりと身体を、身体めいた何かを、こっちに、こっち側の世界に、ひねり出そうとしている。顔は? 顔は?? いやあったとしても、そんなものを見ては行けない! 目を瞑ろうとする、でも目も動かない。見開いたまま、それを見ろと命じられてでもいるかの様に微動だに出来ず、僕は、僕は、のっそりとそれが、真っ黒な目でこっちを見るのを、じっと。見つめざるを得なかった!!


 ニヤリと笑ったそれ。いや笑った様に見えたのか。黒い黒い夜の様な瞳でそれは、それは僕の顔を間違いなく見つめていた。引きつった笑いが、か細い呼吸音に釣られ漏れ出る。ああ、落ちるってのはこういう事なんだなと脳が僕に告げる頃には、僕の意識は、そこですっぱりと暗転していた。

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