02:楚歌

 それからの数日は、比較的穏やかに過ぎた。

 というのも引越し後の手続きや、仕事の為の買い出しで、存外に忙殺された為でもある。


 K興業の社員は、社長を始め皆が優しく、執拗とも思える程にM市への移住を勧めてきた。勿論、戻るつもりも無く大阪を出た僕にとって、その申し出は望みこそすれ、忌避すべきものでない事は確かだった。


「家を引き払う段取りは済んでいますので、月内に二、三日お暇を頂ければ」

「ああ、ならウチのトラックを使うたらええ。なあE君、手伝ったれ」


 数日の帰阪を申し出る僕に、転居の手伝いまで引き受ける社長。まさかの厚遇に目を丸くした僕は、Eと呼ばれた男性に目を移す。


「え、ああ、いいですけど」

 天然パーマをボリボリと掻きながら、中肉中背の彼は、余り気乗りのしなさそうに返事をする。


 ――このEさんは、愛知県に籍を置く元運送業・現作業員希望者だ。奥さんとは既に別れていて、所謂バツイチ。娘さんの進学費用を稼ぐ為に、高収入の原発求人に手を挙げたらしい。初日の部屋巡りで、居室にアニメグッズを置いていたのが彼だ。




*          *




 こうして幾つかの厚意、或いは偶然に支えられながら、僕は荷物の整理を済ませるべく大阪に舞い戻る。


「すいませんEさん。手伝って貰っちゃって」

「いいよいいよ。だって俺、暇だもん」


 数年間お世話になった近隣への挨拶を終え、僕は家財道具の一切を荷台に積む。帰りしなリサイクルショップに寄って貰い、換金できるものは換金し、燃料代等々の足しにしようとの算段だった。思えば入学当初より住み続けたアパートの事、思い出の品は出るわ出るわ、だ。


「あ、欲しいアニメグッズあったら持ってって下さい」

「いいの? じゃあ俺、なのかグッズ貰うわ!」


 大学でアニメを専攻していた、僕よりも遥かにアニヲタなEさん。適当に僕の部屋から戦利品を見繕うと、ほくほく顔で自分のバッグに詰めていく。


「すいません、ほとんどオークションで売りに出しちゃって、ろくなの無いですけど」

「いやいや全然。これ全部もらっちゃっていい?」


 ええ構いません、という僕に対し、破顔して返すEさんへの報酬は、どうやらそれで事足りたらしい。それでも一応はと家財道具を売ったお金を手渡し、大人の契約は無事履行されたのだった。




*          *




「へえ。◯◯くん、G大出てたんやね。A監督で有名な」

「……と言っても、肝心の僕は鳴かず飛ばずでしたけれど」


 M市への帰路。僕は学生時代から続く黒歴史を自嘲気味に語りながら、戦果の無かった数年を振り返る。恥ずかしながら今抱える借金の全ては、大学で手を出した自主制作アニメの制作費が原因だったからだ。


「へえ、じゃあ今でもアニメ、作ってるんだ」

「はい。機材だけは、寮に持ち込んで続けようかと。これだけは、完成させないと」


 もちろん僕の中には、復興作業で金を稼ぎ、借金を返した上で次なる作品の足しにしようという一考もあった。


「いいのかい? なのにこんな寄り道してて」

「あはは、仰る通りなんですが、先立つものが無いと、どうにもならなくて」


 なにせ創作の過程で同居に至った同級生とは、昨年の就職を期に別れを切り出され、次いで一緒に暮らしていた後輩には、原発云々を巡っての口論の末、やはり三行半を突きつけられたばかりだった。苦笑を漏らす僕に、Eさんもまた「酷いな。まあ俺も人のことは言えないけど」と釣られて笑う。


「それじゃあ……うーん、どうかな」

 だけれども、と。そこでEさんは突然に声のトーンを落とす。


「どうしたんです?」

 訝しむ僕に「いやいや、その、まあ何というか。これは切り出すべきなのか」と、Eさんは少し困った表情を浮かべ続ける。




「――◯◯くんは、何も見てない?」


 刹那。その唐突な問いの意味が分からなかった僕は、ぽかんと口を開けEさんを見つめていた。


「いや、見てないならいいんだ。或いは、俺の気の所為かも知れないし」


 一瞬だけ口をつぐんだEさんは「何もないなら、それでいい」と前を向き直し、何事も無かったかの様にハンドルを切る。


「――俺はね。あの寮に来て三週間になる。あと二週間。今月中に原発へ行けないのなら、娘の所に戻るつもりだよ」


 話題を逸らす様にぼそりと呟いたEさんは「◯◯君も、夢や希望があるんなら、命も時間も粗末にしちゃいけない。人生は有限なんだから」と、自分自身に言い聞かせる様に独りごちる。


「あ、は……はい」

 戸惑いながらも返事を返す僕に「暗い話にしちゃって悪いね。まあ何、人生をドロップアウトしたおっさんの、寝言だとでも聞き流してくれ」と、Eさんは言葉尻を濁す。


 確かに御札や盛り塩を含め、寮には不可思議な点は幾つかある。だけど別に、未来永劫ずっと住み続ける訳では無いのだ。飽くまでも福島への橋頭堡。その程度に考えていた僕は、Eさんの心境を慮りながらも、さほど重大な事とは受け止めていなかった。そうこうするうちに日は沈み、やがてトラックは寮に戻っていた。


「◯◯くん。いいかい、K興業の人間には、心を許さないほうがいい。俺はその事を伝えたくて、今日この引越しを請け負ったんだ。もし何か困った事があったら、迷わず俺に相談してくれ。――きっと力になる」


 覚悟を決めた様にこちらを見、そう告げるEさんは、最後に「俺の娘もさ、美大志望でね。もし全てが無事終わったら、◯◯君に家庭教師でも頼まなきゃだからさ」と、誤魔化す様に笑い直した。


 


*          *




 そして寮に戻った僕を待ち受けていたのは、満面の笑みを浮かべる社長の姿。


「いやあこれで◯◯君も、名実共にこっち側の人間やな」 


 今までになく上機嫌な社長を前に、それはそれで戸惑いながら僕は答える。


「はい。宜しくお願いします」


「ええ返事や。それじゃあ◯◯君、明日から仕事やから。今日は飯食って、はよ休み」


 そう言えばそうだったなと。原発へ出るまでは、こっちで仕事に就く話だったなと思い出し、僕は「はい」と頷く。


  


*          *

 



 夕餉を食べ、一足先に湯浴みした僕は、その日は誰よりも早く寝床についていた。機材を広げるのは後回し。さしあたってはこっちの仕事に慣れるほうが先決だとの思いもある。遠く離れでは麻雀に湧く声が賑やかに聞こえ、恐らく寮に残っているのは僕だけだろうと推し量っていた時の事だ。


 締め切っていた障子の前を、何か影めいたものがスッと横切った様な気がして、僕はびくりと身体を震わせる。気の所為だろうか、と頭を振り、緊張しているのだと改めて寝ようとする。だがどうしても誰かに見られている気がして落ち着かず、僕は薄っすらと目を開けて周囲を見渡す。天井に揺れる豆電球だけが照らす室内は、今更ながら些かに気味が悪い。


 ――穴。

 破れた障子の穴から、何かが覗いている気がする。眼。爛々と光るそれらしきもの。音は無い。相変わらず、離れから聞こえる声以外には。だとしたら、アレは何か。離れから二階に至るまでの十メートル。何の気配すら感じさせずに、人が動くのは不可能だ。だから僕はその正体を確かめるべく、ゆっくりと身体を起こし、恐る恐る近づいていく。僅か一センチ。僕と何かを隔てる壁が、戸板一枚になった時、僕は声にならない気勢と共に、障子を勢い良く開けた。


「――S、ちゃん?」

 而して意外にも、そこに立っていたのはSちゃん。寝間着もワンピースなのだろうか、ひらひらとした白服に身を包み、無表情のまま彼女は立っている。


「どうしたの?」

「……」


 相変わらず返事の無いSちゃん。どんな美少女であったとて、このタイミングで部屋を覗かれて、怖くない訳がない。自らの恐れを覆い隠す様に、僕は矢継ぎ早に問いを投げかける。


「居たなら言ってくれればいいのに」

「……」


「何かあったの? 誰か呼んでこようか?」

「……」


 だけれど一向に微動だにしないSちゃんに、いよいよ僕が痺れを切らす頃、やっと彼女の口は、或いは何かを絞り出すように開いた。


「……いいの?」

「え?」


「ここに居て、いいの?」

「??」


 Sちゃんは確かにそう言った。そしてそれだけを告げると、僕の返事を待たずに、ゆっくりと身を翻し、子供部屋のほうに去っていく。ばくばくと鳴る心臓を抑え、言葉の意味を反芻する僕の耳に、それから暫くの音は入って来なかった。


 そして、僕は気づいたのだ。

 アパートを捨て、車以外に移動手段の無いこの場所に移り住んだ今、僕の逃げ場というものが、何処にもなくなっているという事実に。


 離れの声が止み、ひぐらしの声だけがざわつき始め、俄に恐ろしくなった僕は、その恐れを振り払うかの様に布団を被り、無理やりに意識を闇に押し込めた。

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