12話 『雨が降る、』

 空気が割れた。



 空間に亀裂が走り、硝子細工が破裂する。


「―――」


 眼を見開く。暗闇だった壁面は跡形もなく砕け散って、光芒が少女を照らしていた。

 思考を回転させる。周辺を見回すと、そこはもう世界の原型を留めていなかった。

 広大な疼が幾つも空に穴を開け、時間という粒子が砂のように崩れていく。

 亀裂の入った地面に顔を向け、深呼吸すると、いっきに駆け上がった。5メートルほどあった壁をなんなく疾走し、大地へと駆け戻ってくる。これは夢のなかだ。物理法則なんて関係ない。その事を理解した小豆は、腰を低く下ろし、勢い良く飛ぶ。30秒ほど滞空して、一つの大きな渦に目をつけると、地面に降り立ち、そくざに地を蹴った。

 時間を取り巻く洪水の中心へと身体を浸透し、中へと脚を踏み入れる。

 空間という概念の蠢くそこは、全身に多大なるGが掛かるように、少女の行く手を遮る。

 走っても走っても前へ進む気がしない。空気は淀み、視界はぐらついている。

 それでも逢いたかった。ただただそれだけだった。



 どれくらい時が経っただろうか。脚の筋肉はすでに破裂しおうなほど膨れていて。ふらつくほどに前を歩く。

 ようやくといったところで、暗闇の先端に光が灯った。視界が明瞭になって、景色が広がる。

 青い。どこまでも青い花が続いている。崖一面に薔薇が染まっていた。群青の乾海が爽やかな風を運んでくる。揺れる花弁が舞い上がり、風に流れる。

 紺碧の世界のなかでひとつ、淡い輪郭が咲いた。


「―――早かったですね」


 聞き慣れたアルトヴォイスが耳を掠る。

 囁くような控えめな声が旋律を奏でる。神経が爪先からてっぺんまで電流を流し、深く、深く噛み締める。

 栗色の髪は艶を帯び、相変わらず愛くるしい瞼は儚く虚光って。とても新鮮で懐かしい。

 地面を踏みしめる音に、少年は振り向かない。白い裾が清風に揺れる。

 その姿を話は、美しいと思った。


「……茶柱くん」


「その本、持っていてくれたんですね……」


 懐かしそうに少女の手許を見る彼の瞳は、壮麗な鮮やかで。形を成した本は、嬉しげに艶がかる。

 私の胸が強く締め付けられる。


「この本の名前は、『時雨』。君の物語だよ、茶柱クン」


 そしてすれ違い合った別の誰かの物語。



 何度この瞬間を願っただろうか、何度夢にみただろうか。

 涙のダムが決壊し、両の頬を伝い落ちる。止まらない、止められない。乱れた心が君を見る。

 少年は朗らかな笑みを浮かべた。風に載った花弁が舞う。


「御手洗小豆さん、これより最終面接を行います」


 昼中に眠る少女のように、艶めいた笑顔がいとおしい。

 夕闇に染まる世界に、清廉なうなじが、妖しい輪郭をなぞる。

 私の言葉に肯定するでも否定するでもなく、エメラルドの瞳が細くほころぶ。

 少年は口ずさんだ。

 とある男の小さな恋。身体を重ねる男女の関係。自分が生まれたこと。

 最愛の人が亡くなったこと。独りになって、誰の目にも届かぬところで死んだこと。さすがに殺されたときのことは言えなかったけど。

 そしてこの世界で、目覚めたこと。大好きな人が出来たこと。少年はこれまで起こってきたことを話した。

 彼の表情は穏やかなものだった。今まで溜めていたものを流し出すように流暢で、和やかだった。


「……君は」


「別に、生を望んだ訳じゃなかった。あのときはもう、そんな気力さえなかった」


 血に染まる視界のなかで、少年は崩れ去った。孤独に逝く彼は、憎しみにさえ忘れさられ、消えていく。



 そのはずだった。



 だが、少年は死ねなかった。死にきれなかった。目を開けた大地には、すでに事切れた自身の身体と、紅い池が無惨に転がっていた。

 人に捨てられ、人に騙され、人に殺された親子の生涯。その結末はあまりに儚く、救われることはなかった。最後の最後ですらそれは変わらない。

 それを自覚したとき、世界が暗転した。

 幸せに生きることの何が悪い。なぜ願ってはならない。それだけが不満だった。それだけが悔しかった。



 生きたい、ただそれだけの願いが叶わない世界なんて、壊れてしまえ。



 そう自負した途端、声が聞こえた。

 振り向くと人影が見えた。大通りの交差点。人の往来の絶えないその真ん中で、独り少女が立っている。

 彼女は哀しげだった。自ら死にたいと願い、自らそれを拒絶し、そしてそれは叶えられた。

 車が少女の四肢を引き裂く―――

 ああ、そうか。

 事象が揺れる。憎かった。その表情が憎かった。なぜ、そんなに哀しそうな顔をする。

 地を蹴った。無意識に走っていた。動けるはずがないのに、その時だけはなぜか身体は軽かった。因果逆転。触れることの叶わない手は、確かに彼女の身体を捉えた。



 そうして、少年は少女の願いを叶えた。



「……初めて先輩に出会ったとき、本当はすごく驚いたんです」


 幸せなはずの貴方の顔があまりにも、僕に似ていたから…。腐りきった目に希望は見えない。悲しみに酔いしれるか細い体は、それでも誰かの愛を渇望していた。

 そして、言葉は続く。



 ―――ああ、だから君はあの時。



 その表情を、景色を、匂いを。私は今でも覚えている。うだるような暑さの中、人の行き交う交差点。世界でただ一人私のために叱って、怒って、泣いてくれた人。

 あの時の言葉の意味を小豆はようやく理解する。足許の青薔薇が大きく膨らむ。


「でも、――だって、君は……私のこと恨んでないの?」


 意地悪な声が喉を通る。それでも少年は困ったように頬を紅潮させて、満遍の笑みを向ける。


「そんなの簡単さ。だって僕はきみの――」


 僅かに潤んだ目尻は、黄昏のように曖昧で。ただ君のために逝き、君だけを想う。



 おにいちゃん、だから。




「泣いている妹がいたら、どんな時だって助けるよ」


 自然と涙が滲んだ。どうしようもないほどに、心地の良い声が、全身を撫でる。その声は清々しいほどに爽やかで、露草が光を帯びるほどに綺麗だ。


「……おに、い――ちゃ、ん」


「だから決めたんだ。あの日、あの時」


 夢の中でもいい。ほんのひと時の時間でもいい。崩れかけの天井が軋み、砂時計は止まる。

 あなたという人間を幸せにしたい。心からそう思った。

 偽善かもしれない。お節介かもしれない。でも相手の意見なんて関係なくて。だってこんなにも僕は不幸なのに、あなたが幸せでいてくれないなんて……。


「報われないじゃないですか」


 世界は残酷だ。どれだけ水を掬っても、零れ落ちるものを止めることはできない。ならばせめて、せめて。

 この仮初めの世界で、あなたを幸せにする。

 少年の話はそこで途切れる。じりじりと近づいてくるタイムリミットに目をやり、深く息を吸う。


「そ、それじゃあ――」


 小豆は、安堵したようすでこちらを窺う。おそらくいま僕が言葉を間違えれば、激しく憤るだろう危険を孕むその表情に、しかし少年は申し訳なさげに微笑む。


「――でも、もうお別れです」


 決意の先の真意を気付かれないように、少年は微笑み直した。


「世界をもどします。ああ、ほらやっぱり間違ってるものは正しくしなくちゃいけないので」


「――や、だよ」


 予想通りの反応が耳を劈く。それを我が子のように温かく見守り、局面を見据える。


「いや、私はずっとここがいい。ここにいたい! 何よりも君のそばに。君のいる世界で生きていたい! 君だって……」


 どうせあっちに還っても、暗く冷たい地面が私を待っているだけだ。それに彼はもう――。

 ならばぜめて――


「先輩、生きてますよ」


 だがしかし、茶柱の突拍子もない言葉が小豆の頭を小突いた。


「―――へ?」


 数秒の猶予を経てようやく出たのはそれだけだった。


「いや、だから生きてますよ。先輩」


 あっけらかんとした口調は、ナイフのように鋭く、急所を突く。

 事故当時、重傷だった身体は医師達の懸命な処置により一命を取り留めた。魂なき肉体はいまも病室で横たわっている。


「だから先輩は、なにも心配することはないんです」


「そ、それじゃ君は――ッ!」


「はい、死にます」



 ―――もう君は大丈夫だから。



 口にしない言葉は、誰よりも君を想う証拠。覚悟なんて生易しいものじゃない。これはにとってのぜんぶ。


「でも、私が望んだのは……」


 涙ながらの彼女の声に、俺は耳を傾けられない。

 そうだよ、君の願いは、『親のいない世界』だった。それ以上でもそれ以下でもない。


「だったら、いままで過してきたあの平穏な日常は――君の願いだったんじゃ……」


 その声は掠れ、いまに消えてしまいそうなほどに儚い。



 ああ、そうだね。結局、あの願いは僕のソレだったんだ。



『死人は夢を見ない』それがこの世界のルールであり、僕が交わした契約である。

 ふう、と息を吸う。肩の力を抜いて、まっすぐに瞳をかざす。砂時計が逆さに縮み、時空の彼方を指さした。


「小豆」


 紺碧の地面が崩れる。自然と口元が綻び、くしゃりと顔が歪む。

 これは僕の犯した罪。そして、君への償いさ。

 僕個人のすべてを。という人間を絞る最後の一滴まで。


「―――愛しているよ」


 一際、強い風が吹いた。花びらが散る。空高く舞い上がって、やがて世界全体を包むような花吹雪が生まれる屈託なく笑うその笑顔が、掠れて見える。海なんて何処にもないのに。私の頬はずぶ濡れだった。青い薔薇あめが少年の全てを包み込む。突嵐が少年の華奢な心を抱き、身体を溶かす。

 亀裂が走る。空は心地良いほどに晴れ渡り、澄んでいる。歪んだ世界のなか、私と彼だけが青薔薇の庭このせかいにに立っていた。

 いや、待って。まだ君がいなければ、私は。

 口にした言葉は、喉を通すことなく空へと散った。世界が蒼く染まる。

 思い切り手を伸ばしても、ぎりぎり届かないくらいの距離。いつだってそうだ。それが男女わたしたちの関係で、それが兄妹わたしたちの全てだった。

 輪郭が亀裂を破り、光が空へと飛び立つ。無理矢理に保っていた肉体が限界を迎え、紺碧の塵が天空の宇宙そらに舞う。

 涙は出なかった。ただひたすらに声を発する。


「もう一度必ず君に会いに行く! だから、だから――ッ」


 流石にこれは予想外だったのだろう。きょとんと表情を固めた彼は、微苦笑を浮べた。


「まいったな……」


 困った妹だな、そういって朗らかに笑う。

 人を看取るとはいつも辛い、一方が笑顔で別れを告げ、もう一方が泣き崩れる。

 夢と知ってしまったからには、眠りから醒めなければならない。内容のない白昼夢ほど、無意味なものはないからだ。


「――いつか」


 吐息が薫る。春の匂いが少女を包み込む。


「いつか君が、君という人間を好きなれたら、また、会いにいくよ」


 純蒼の身体は陽とともに鮮やかに彩り、私はこくこくと頷き続ける。



 そうして、永い夢は終わりを告げた。

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