時雨。

第11話 『even if』

「――時雨」


 そうやって虹色の微笑みを浮べるあの人のことが、僕は大好きだった。

 銀色の眠り眼に、何度愛され、何度慈しんできたことか。

 けれど、僕の小さな幸福は、唐突に終わりを迎えた。

 目の前で、最愛の人が首を吊っている。


「……え?」


 学校帰りのいつもどおりの日常。なんの変哲のない、そのはずだった。

 家の扉を開けた途端、部屋を包む異様な雰囲気に、僕は不安を隠せなかった。


「母さん? 帰ったよ……」


 あの人の返事はない。おかしい。鍵は掛かっていなかった。部屋は散らかりもなく清潔的で、片付けるのが下手なあの人が掃除なんてするはずがない。

 そうして、ソレを視た。

 浴室の天井に、ロープを巻き付け、眼球の飛び出した瞼は眼も当てられない。

 認識するのに、五秒かかった。死んでいると気付いたのは、もっと遅い。

 意味がわからなかった。どうして。疑問で圧死しそうだった。身体が動かない。杭を打たれたかのように、ソレを視ている。


「……あ、」


 声が漏れた。


「あ、あ、あ、あ、あ、ああ―――――あああああああああああああああっっっ!」



 ぷちんっ、記憶が事切れる。

 くだらない。もうどうでもよくなった過去に、唾を吐く。くだらない。人間なんてくだらない。くだらないくだらないくだらないくだらない――――ああ。

 だから、あんなことになるんだよ。



 視界が紅い。ずきずきと疼く痛みに耐えかねる。頭を強く打った衝撃で、瞼の血管が切れてしまった。だらりと血液が片目を覆う。

 状況が理解できない。なにが起ったのかわからなかった。誰かに呼ばれた気がして、そうして自分はここにいる。

 火傷のするほどの腹部の熱さを、少年は始めそれが痛覚だと気が付かなかった。

 太陽に熱せられたアスファルトに額を押しつけ、横殴りの視界を二秒ほど眺めて、自身が倒れていることにようやく気付く。



 ――痛い。



 信号機の青が点滅する。訝しむような視線が、針のように身体を劈く。痩せ細った四肢は、端から見れば死体のそれと変わらない。

 人がいる。人がいっぱい。

 制服姿のカップル。営業で汗を掻くサラリーマン。どれも日常の景色。誰もが幸福とは謂わないまでも、細やかな暮らしを過ごしている。



 ――そして、彼等は誰も。僕を助けない。



 ぎらりっ、鈍色の刃が煌光る。その先端は生々しい朱で塗りたくられ、周りの大人は逃げ惑う。

「い、や――」

 息が切れる。上手く空気を吸い込めない。すでにボロボロの体を舐めるように。ナイフ男の目つきが不気味に歪む。

 どうして。

 痛みより疑問の方が大きかった。

 どうして自分でなくてはならないのか。いったい自分がなにをしたのか。ただいきたい。それだけが全ての望みだった。そのはずなのに――

 激痛が走る。意識があるほうがおかしいくらいだった。


「すmrえさaaaaんんんっっっ!!!!」


 男の咆吼が上がり、踊り狂ったように肉薄する。

 あと少しなんだ、あと少しであの人いる家に。あの人のいた家に帰れる。

 伸ばしかけていた腕は、杭を打たれた板のように途切れた。ただし木屑の代わりに、おびただしい鮮血を散らしながら。


「――う……あ」


 もはや声すらでなかった。まるで自分のものではないかのように、ゆっくりと指先が冷たくなっていく。

 六日間なにも食べていない体を何度も何度も執拗に傷付け、慈しみ、愛でて、男はナイフを突き刺した。

 嫌だ、死にたくない。こんなところで。

 それは恐怖ではなく、果たせなかった約束の後悔。もう動かす事も出来ない身体を懸命に震わせ、感覚の失われた右手を伸ばす。


「ヒャぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァぁぁぁぁァっっっっっっっ!!!!!!!」


 鈍色の刃が、肉を断つ。指先から肩までの感覚が途切れ、死んだ。


「―――ゴホッ!?」


 致命的な一撃が、血管を引き千切る。紅い噴水が沸き起こり、干からびるように身体が重い。



 ――助けて。



 次は脚を。



 ――助けて。



 最後に首を。



 ――いやだ。だれか、僕を――。



 既に事切れた肉塊を男はまだ斬り付ける。そうして満足げに額の汗を拭い、こう言うのだ。


「―――――――――――――――違、う……?」

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