夢見る少女に裁決を。



 暗い、暗い闇のなか。深海におちる屍が、無様に沈んでいく。どこまでもしかない世界に空はない。



 真っ暗な深淵の世界。私は真っ白な椅子に捕らわれていた。

 暗闇にいるのは私。世界でただ一人取り残されたように、周りには誰もいない。

 物質が形を成し、ひとつの上映場を演出した。スクリーンが発光する。思考をやめた瞳に拒む権利はなかった。照らされる映像が、意識を奪う。



 私は人形だった。あのひと、、、、の顔が映る。寒気と恐怖が心臓を撫でた。父は厳しいひとだった。物心ついたときには、すでに『教育』が始まっていた。

 早朝から深夜まで、勉学、ピアノ、茶道、ヴァイオリン……、ありとあらゆる稽古を私に強要した。



 泣いてすがればひっぱたかれ、風を退いても関係なかった。

 交友関係も極限までさかれ、私の指はいつもボロボロだった。指だけじゃない。体の隅々ひいいては心までも、父の支配に圧されていった。

 次第にこころは変形し、思考は停止していった。抗うより流されたほうが、何倍もマシ……。高校に入る頃には一切の感情は灯らなくなった。



 初めてできた親友は、けれども父に飼われた犬。ご機嫌取りのストレス発散。ああ、そういえば、彼女。私のことが好きなんだっけ。夏休み、その唇を奪ったことを思い出す。でも、その時の匂いや肌の感触、頬の紅潮を思い出せない。

 ひどく冷めた思考の操り人形ピエロ。仮面を被った赤ずきん。




 腐りきった心はやがて、逃避をするようになった。

 不意に、掠れ声がした。映像が途切れ、意識を右下に逸らす。

 倒れ崩れるように少女が泣いていた。手に抱えているのは、小鳥だろうか。まっくらな境界のなか、白いワンピースの姿は病的で、寒気がした。


「……」


 あれは幼い頃の私だ。ぼろぼろになった指は絆創膏と包帯で上手く動かせず、毎日父の怒号が散った。

 怪我をしていた小鳥を助けたくて、父さまに見せたの。でもすぐに取り上げられて、踏み殺されてしまった、憐れなヒヨドリ。


 ―――なんでお父様は、そんなことができるの。


 少女が泣き叫ぶ。反射的に腕を伸ばしたが、じゃりりと無機質な金属音がそれを拒んだ。

 純白の椅子の上で私は茨で繋がれている。


 ―――どうして? どうして……


 どれだけそれを目にしただろうか。だがいくらその情景を、泣きわめく彼女をみても。私は眉一つ動かさなかった。その声に耳を傾けて、永遠と聞き流すことしかできない。

 視界が切り替わる。

 そこはいつもの光景だった。いつもどおりの街、日常と呼ばれる悦楽な日々。瞳を凝らすと、『私』がこちらに手を振っていた。そうして彼女に近づいていく誰かに視線を見やる。



 顔のない黒い影が、幸せそうな彼女の右手を握っていた。そうして彼らは遠ざかっていく。

 とても幸福で、当たり前に世界を彩る。

 あの傍らにいる影はいったい誰なのだろう。

 それを見ながら、小豆は自身を嗤った。



 あれは私ではない。私が創った理想の世界。誰に咎められることのない、私だけの世界で、私だけの望みを叶える。

 幼い頃から、何千、何万と繰り返して日々ゆめ。仮初めの世界で、私は現実の傷を癒やしてきた。少年Aという恋人ぐうぞうを創り上げて。



 でもそれも終わりだ。私は死んだ。あの暑い夏の日に。自ら命を絶ったのだ。

 その事実が少女を蝕む。でも、認めてしまえば楽だった。この肉体さえなくなった魂で、いずれ消える時を待つ。



 それがいつなのかはわからない。でも、遠からず訪れる未来だ。気長に待っていよう。

 色褪せた世界で私は死人のように無気力なまま、何もかもが曖昧に歪んで見えた。


 ―――本当にそれでいいの?


 違和感が私を襲った。振り向こうとした。だが鎖が邪魔をして身動きが取れない。

 いつのまにか泣き声は止んでいて、周りの映像もない。もとの暗闇が支配していた。


「誰っ!」


 苛立ちを混じわせた上づり声に、小豆自身も驚いた。なぜそこに怒りが入るのか、当惑する。

 見えない影が首筋に触れた。途端、発狂する。

 体温のない、人形のお化け。ひどく精巧に作られた代用品。

 白く光る人影。それは女の形だったり、はたまたべつのなにかの形をしている。

 輪郭のはっきりとしない曖昧な存在だった。


『あなたの人生は本当にそれで終えてしまっていいの?』


 人影が吐く。その言葉には明らかな棘があった。


「だって仕方ないもの。私はもう――」


『――ならどうして……。あなたはなんのために世界を造ったの?』


 人影が輪郭を示す。それは春に咲く白木蓮のように華奢で。美しい。

 顔のないのっぺらぼうの私。まだ存在すら定かでない遠い未来の私。

 でもその言葉には不思議と力が籠っていて。灰色の沼から、私の手を掴み、問う。


『ここで立ち止まって、なににもならない』


 全てを知って、なおこの茶番を続けるか。


「――私は……」


 いつぞやの幸福な日々を思い出す。形を成した恋人が、私を愛でる。


「――先輩」


 吐息が艶がかる。もう幾度となく聴いた声音が全身を駆け巡る。

 ――逢いたい。

 その瞳は野に咲く菫のように美しく、栗色の髪は少女染みていて。

 ――逢いたい。

 空気が割れる。私の枷が爆散し、身体を解き放つ。


「私……」


 もう一度、彼に逢いたい。 


 絞り出した声を懸命にしばたたかせ、絶えず漏れる雫を拭う。彼女はそれを音もなく見つめ、ただ待ち続ける。懇願の眼差しが、その頬に触れる。まだだ。まだ、終るわけにはいかない。

 立ち上がれ。びくつく脚を持ち上げて、前を見ろ。大空を飛び立つ翼を広げて。


『――――これを』


 人影がなにかを差し出す。私はそれを受け取り、胸に抱える。何度も触れた手触りは、新品のように滑らかで、切ない。

 古びた本がその存在を露わにし、真実の姿かたちを醸し出す。


「――この本……」


 ゆっくりと表紙が蘇る。華奢なそれを強く、抱き締める。


『それは始まりの物語。あなたの、そして、彼の――すべての始まり」


 人影が形を成す。輪郭が艶を帯び、肉体に熱が灯る。私は微笑んでそれにゆっくりと頷き返した。そう、未来の私へ。


「こんどは最後まで読むよ」


 頷いた彼女は、逆さに移る現実の私。いずれ死ぬ、そんな未来に怯えるだけなどごめんだ。答えなんてものは最初から必要ない。

 ページを捲る。


 亀裂が走る。世界という概念が少女自身によって覆される。

 彼女は歩みだす。外の世界は、こんなにも色鮮やかに活気づいているのだ。

 概念を超越し、法則を覆し、鏡張った世界への鏡面に、脚を踏み入れる。

 その最奥に眠る君のもとへ。


「――時雨」


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