13話 『君の泣く朝露』

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 空気に匂いがした。外鼻孔をくすぐる新鮮な春の風が、壮大な情報量となって全身に流れ込んでくる。

 鼻を刺すような消毒薬の匂い。春に咲く花の匂い。そして自分の匂い。

 長期間眠っていた所為か、僅かばかりの光でさえ眩しく感じてしまう。乾いているはずの瞳には大量の液体が溜まっていることに遅まきながら気付いた。頬に銀線が伝う。熱い想いが胸を激しく掻き立てる。

 これは涙だ。

 どうして私は泣いているんだろう。

 なんだか深い喪失感に包まれているようだ。濡れた瞳を拭おうとするが、身体に力が入らない。

 オフホワイトの天井は四角いパネルが規則的に並べられて、なんだか息が詰まる。

 視線を周りにやった。ちくりとした皮膚の上に、金属針がテープで巻き付けられている。点滴だろうか。ビニールに包まれた薄緑の液体が三割ほど減っていて、点滴たてに吊り下げられている。規則的に液体が一滴ずつ落下して、備え付けのチューブに注がれていく。

 どうやら、ここは病室らしかった。

 白いカーテンが風に揺られて、心地よい空気を運んでくる。


「あ……」


 まだ曖昧な記憶のなか、私は微かに動く右手を挙げる。青白く痩せた皮の内面には血管が浮き出ている。思ったように動かないことに苦笑しつつ、ゆっくり開閉する。

 軋む骨の痛み、肌の擦れる音、そのどれもが今の私には非現実的で。むしろ夢のような錯覚を覚える。

 還ってきた。ここは正真正銘の現実世界。

 その途端、喉元っまで突き刺すような衝撃が走った。ようやく意識が覚醒する。そうだ私はここに還ってきたのだ。


「お……に、い……ちゃ」


 久しぶりに使う声帯は、喉を激しく痛める。零れでた声音を噛み締めるように記憶し、思考を巡らせる。

 耳に誰かの呼び声が微かにこだましている。聖者の詠うアルトヴォイス。それを認識した途端、身体を跳ね起きようとした。けれど、わずかに身体が動くだけで、とても出来そうにない。

 胸の奥に焼き付いていた痛みが鮮烈に蘇る。時雨、私が愛し、そうして夢の終焉を迎えた彼は……。

 懸命に、身体を震わせる。右肩に力を集中させやっとのことで起き上がると、真横にある手すりに腕を乗せる。そうして、脆弱な白脚を床に着け、手前にあった点滴吊りに捕まった。

 すでに息は切れて、額には汗をかいている。だがそんなものは気にならなかった。腕に繋がれたチューブの先端を引き千切り、壁際の手すりまで移動する。

 私の名前を呼ぶ少年の姿は、今にも消え入りそうで、気を抜くと不鮮明になる。 それでも、もう一度。もう一度彼に逢いたい、この腕で抱き締めたい。キスしたい。

 夢だった。確かにあれは夢だった。でも……。

 彼は確かに存在した。それは、それだけは現実だった。



 茶柱時雨という少年の残像を私は追い続ける。



 心霊を彷彿とさせる薄白い診察医を纏った少女はその華奢な二本の脚を立ち、いままでその身体を預けていたベッドに背を向けて蒼穹の天井を目指す。

 つややかな長い髪に、舞い散る花びらが淡い光を届ける。細い両の手は錆び付いた関節を癒やすようにぎこちなく動かしている。

 永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ雛鳥のようなロリータの瞳がまっすぐに世界を見据える。

 桜色の頬を満遍に窄め、脚を進める。

 いまにも消えそうなほど淡い体は、それでいて大人びて、逞しい。

 かつて生きた世界で、私は一歩ずつ脚を踏み続ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る