10-3

「……ちょっと、なに黄昏れてんの?」


 思考を遮るように、耳に吐息が掛かった。


「うわぁっ!?」


 完全に自分の世界に入っていた私は始め、声が教師のものだと思って身体を仰け反らせた。


「人の顔見て叫び出すとは失礼ね・・・・・・授業、もう終ったわよ」


 しかし返ってきたのは親しみ深い声で、不機嫌そうに顔を歪ませた少女が腕を組んでいる。緋色の瞳が陽光を反射して、宝飾の美を醸している。


「な、なんだ梨花かぁ・・・・・」


「なんだとはなによ」


 少女はますます不機嫌そうに頬を膨らませる。それに、僅かな安心感を貰って、一呼吸する。


「なにぼさっとしてんの、早く行くわよ」


「ま、待ってよ~」


 既に帰り支度を済ませている梨花を前に、いそいそと机のものを鞄へと押し込む。

 あまり彼女の機嫌を損ねると、なにか代償を払うおごる羽目になりかねない。自身の財布を使う気のない彼女にとって、それはいささか難題である。

 今朝の事から頭を切り換え、早々に親友に追いつき、細やかな微笑みを作る。


「ま~たなにか考えてたでしょぉ?」


「な~にも」


「ふ~ん」


 怪しそうに目を細める親友に全力で無視を決め込みながら、行きつけの喫茶店へ向かうべく門を潜る。


「ま、いっか」


 少女の微かな異変の種を探りたかった梨花は、陰鬱な瞳で眼前の少女を一瞥するが、すぐに視線を前へ向けた。

 どうにもならない事には首を突っ込まない。それが彼女の信念である。良好な関係には適切な距離と言うヤツだ。

 小豆は親友の対応に内心感謝しながら、若干の諦めを覚える。どこまでいっても私たちは本物にはなれない。

 顔を上げれば陽光が目を焼いた。うだるような汗が、肌をべと付かせる。


「ひやぁぁ、あっつぃ~」


 無理はない。一日中エアコンの効いた室内にいたためか、それともたんに温暖化の所為か。九月を過ぎたという日にも、残暑は未だその猛威を振るっている。

 隣にいるはずの親友を横目に見て、心配になる。ちゃんと水分補給してるのかな。


「こんな暑いの堪えらんない・・・・・」


 大通りまでくると、アスファルトに吸収された非遮熱がじんわり肌を焦げ付かせ、有り体に言えば暑い。


「が、がんばれあと少し・・・・・」


 信号が青になり、雑路に紛れて横断歩道の上を渡る。人混みのなかで自分の存在が押しつぶされそうだ。暑さで頭がおかしくなっているのかもしれない。

 ああ、このまま日射しに焼かれてどろどろに溶けていきたい。

 額に滲む汗を払い、日差しを遮る。



 私という人間はあと数ヶ月で消え失せる。



 夏の日差しに照らされた死骸になるのだ。命令された以上そうしなくてはいけない。少女自身それを弁えている。

 だから、仕方がないと。そう、割り切るしかないのだ。

 小豆は水のない海を見上げた。影のない道路に日差しが容赦なく差し込む。見えない光球に手を伸ばし、意味もなく握りつぶす。



 ――――――ああ、死にたい。



「―――小豆ッッッ!」 


 大声で誰かに呼ばれた気がした、日を見過ぎた所為か、景色が歪んでよく見えない。意識のほんの一部だけが現実へ引き戻され、周りの音も上手く拾えない。

 なにかあったのだろうか。辛うじて映った親友の姿は、遙か前方でこちらに手を振っている。そのは不安に苛まれ、表情はどこか焦りを帯びていた。

 そういえば自分は交差点を渡っていたのだ。思い出したようにそのことに気付き、駆け足で渡ろうとする。

 不意に――本当に無意識に、視界にかげが映えた。私の意識はまだ完全に現実へと帰還出来ていない。

 だから始め、それが何なのか私は理解出来なかった。


 けたましい音が、不規則にリズムを発てる。それはまるで誰かに警告を促すかのようだった。心臓の早鐘が鳴り、本能が強制的に意識を覚醒させる。景色が色彩を帯び、鮮明に映り出す。

 そして、それを見た。

 目の前に車がいた。猛スピードで迫り来るそれに今更のように気付きながら、思考を硬直させる。


「――え?」


 認識出来たのはほんの数秒だった。僅かに結ばれた糸が解けるように、目の前が真っ白になる。困惑、絶望、驚愕、焦り。入り交じった感情が画用紙を黒く塗りたくる。

 逃げなきゃ。本能的な信号はしかし、恐怖でかき消された。足が動かない。

 それを望んだはずなのに、彼女はその願望を拒む。


「――いや」


 轟音が彼女の悲鳴を押さえつける。華奢で優美な四肢が金属の塊にへしゃげる。

 刹那、衝撃とともに頭が跳ね飛ぶ。数十メートルを優に超え、身体が重力に押し負ける。

 浮遊感に包まれるなか、一度だけ目に映った視界には、交差店の真ん中に佇む白い影だけだった。

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