夢見る少女に裁決を。

第10話 『御手洗小豆は夢を見る』



 私は彼を愛していました。故に私は死ななければなりませんでした。それは一心に彼を想い、愛していたからです。それは先程申し上げた通りです。ええ、ですから私は死ななければなりませんでした。



 言ったでしょう?

 なぜなら私は――。




 彼を愛しているからです。




 どれほどその言葉を耳にしただろうか。いい加減吐き気を覚える。

 菫と名乗った少女の吐息は、童話に眠る白雪姫のように、靴を落としたシンデレラのように。



 楽しげに話すその姿が、歪なほどに軽やかだ。



 血生臭い椅子は鎖で繋がれ、動くこともままならない。洗脳めいた口調はステップを踏んで、にじり寄った瞼が厭らしい。まるで私を嘲るようなそれに、胸が痛む。



 また、あの目。

 小豆は終始、彼女の話を聞いていた。まるで他の誰かの記憶を呼び覚ますように、頭に映像が沸き起こる。冷や汗が肌にべと付く。スパイスの効いた声音はアップテンポに涎を垂らして、滑らかに言葉が囁かれる。



 ゴクリと眉唾を呑み込む生音が、旋律を切った。

 剥き出しの狂気が私の脚を撫で、背筋を這い、隅々を犯した。

 他人の思い出など聴くものではない。それが忌々しい過去ならなおさらだ。



 逃れることの出来ない関所は、自身の存在を薄めていく。

 警戒を怠ってはならない。体がそう告げていた。神経を研ぎ澄ませ、女の一挙手一投足に過敏に観察する。



 彼女はそんな私をどう見ているのだろうか。口に添えた残り少ないアップルティーを幼げに傾け、渇いた喉に紅茶が流される。空っぽになったカップを戻して、店員を呼ぶルビーの貝殻は、光沢を帯びて卑猥に煌光る。



 こちらの視線に気付いた彼女は、きょとんとした笑顔を向けてくる。見れば見るほど惹きつけられていくようだ。

 それを楽しがってるのか否か、彼女も小豆の瞳も覗き込んで、頬杖を突いた。吸い込まれそうな万華鏡ひとみに、意識を持っていかれる。



 瞬間、映像が切り替わった。

 続けて、形を変えた彼女の囁きが、胸に響く。


「ここは狭間の世界」


 聴くな。

 脳の指令を無視して、鼓膜が震えた。違和感が肺に充満する。その声に、私は応えられない。彼女もそれを知っているのだろう。坦々と言葉を続ける。


「死に切れないものが集まる束の間の休憩所」


 まあ、例外はあるけどね、けろっと舌を出して無邪気に笑う彼女は、恐ろしいほどに完璧な存在だった。

 死刑を告げる裁判官は、冷淡なほど機械的で。でもなぜか、溢れるほどの愉悦が、彼女から滲み出ていた。


「……は?」


 ガスのごとく溜まったそれを吐き出すように、言葉を押し出す。意味が分からない。物騒な単語が飛んできたが、彼女はいったいなにを言っているのだろうか。馬鹿馬鹿しいと思う反面、怯えるほどの焦燥感が肝を冷やす。



 狐が弧を描く。追加注文を頼んでいた店員が紅茶を継ぎ足しにやって来た。紅茶の入ったポットは、器械的に傾けられ、的確にカップに注がれる。コンマ1程度の誤差のない正確な動作が、思考を拍車掛ける。


「彼らはNPC、人の記憶によって創られた偽りの踊り子。だから、こうやって――」


 和やかな笑顔の彼を舐めるように吟味した彼女は、その輪郭に指をぱっと跳ねさせた。色黒のエプロンの裾に、繊細な飴細工が乗る。



 次の瞬間、それは爆散した。



 パリンッと乾いた音が視界を覆う。輪郭を彩っていた肉体がひび割れ、まるでゲームのポリゴン粒子のごとく。身体の内側から光が溢れ出して世界が書き換えられる。

 硝子細工が割れるように、店員に亀裂が走り、砕け、そして散った。


「――え?」


 小豆の口から漏れた言葉は、耳に届く前に彼女に憚られる。


「こんなふうに、壊すのが簡単なの」


 遊戯を覚えた狐が優雅に嗤った。




 NPC――それは、この世界を創造するに当たって、人の記憶によってコピーされた人間の複製。ただし、あくまで主体者の記憶から生成されるので、全くの同一人物ではない。

 そう、彼女は語った。まるでお伽話を聴かせる養婦のように。優しい口調は強制的な納得感を与えた。


「でもリソースが記憶だから、あまり壊しすぎると脳に影響が出るのよねぇ」


 記憶によって造られた彼らを消滅させることは、それを持つ所有者に多かれ少なかれ影響を与える。


「いま壊したのは私の記憶。だから私は、さっきの店員がどんな容姿で、男か女かさえもわからない」


 まだ湯気の立つ2杯目の紅茶は、さきほどの彼が淹れたもの。それを再び口に運んで、彼女は笑った。


「あなたにも覚えがあるでしょ?」


 冷や汗が背筋を伝い落ちる。目の前の出来事に頭が追いついていかない。胸の内に冷や汗を垂らす。



 そうだ。確かに似たようなこと私は経験していた。去年の冬、学校の旧校舎で想い人と話す誰かの声。聞き慣れたものであるはずなのに。その者の顔さえ想い出せない。そして、私は見たのだった。何かが胸の内から爆散していく姿を。



 そう思った途端、腹の内から何かが這い出てくるような気がした。無意識にそれを押し殺す。


 ―――イヤダ。


 身体が痙攣する。癒えていた傷が開かれる。流れ出る信号に耐えかね、腹を抑える。

 彼女は喜劇を観る観衆のように道化の笑顔を浮かべた。



 その姿はいつのまにか大人びて見えて。異界に咲く薔薇のように美しい。

 吐き気が胃を刺激する。頭痛のひどさは最骨頂に達し、視界が眩む。



 想い出すなと身体が吠える。イヤダ。ココニイタイ。ダッテワタシハ――。

 


 目の前に紅い海が浮かぶ。車輪の擦れる音。うるさい、うるさいうるさいうるさい。



 にたぁっと狐の口が弧を描く。彼女は愉快そうに私を見つめ、何もいわないでいる。そのことが無性に腹立たしい。



 頭を打付けたい衝動に駆られた。気を失うほうが楽だった。髪を掻きむしって、耳を塞ぐ。

 けれどもそれに抗うことはできなかった。水の溶ける音がする。


「忘れていた記憶ほど、大事なものはないよ?」


 彼女の声が呪詛のように飛沫する。神経が拒否反応を起こすが、無駄だった。その顔には見覚えがあり、体から放たれる腐臭のようなものは、きっと。



 あの日、荒れ果てたアパートで視た誰かの亡骸。それはまるで死んだ瞬間を切り取ったように鮮明で、生々しい。銀色の眼が、思考のギアを上げる。




 私は彼を愛していました。

 だから死ななくてなりませんでした。




 病的なほど繊細な一言が全身を斬り付ける。違和感を憶えた。その二つがイコールで結びつくはずがない。



 足許から聞こえる滑車音がふいに生々しく感じる。現実と幻想が入り交じり、女の声が一段と甲高く響く。ここは、彼女の領域。



 空は夕闇を見つけ、小豆は陽光に照らされた彼女の顔を見つめた。

 青白い頬は、濡れ細工の薩摩切子。無邪気な微笑みの奥に、ドス黒いなにかを観る。


「――あの、ときの……」


 再認識した彼女はもとの少女染みた冷笑えみを浮かべて。少女の皮を脱いだ女は、私を見据える。


「もう、満足でしょう?」


 女の言葉がナイフのように鋭く胸に突く。黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ。

 ぶんぶん頭を振る。入ってくるな。お願いだから寝ていてよ。私はここで――。

 脳細胞が破裂する勢いで意識が点滅する。嫌だ。嫌だ嫌だ。


「思い出したらどう、もうあなたは――」


 そしてその女性は、野に咲く一輪の菫のように、華奢な微笑みを向けた。先程と全く変わらず、魅惑的な瞳を細めて、こちらに微笑み返す。



 まるで天使の魅せる、一瞬の憐れみのように。永遠に嗤い続ける。おそらくそれは、世界が終るその日まで灯される憎悪の牙だろう。

 諦めた思考が、玉手箱の紐を解く。視界が発光する。



 ああ、そうだ。



 そうして私の世界は崩壊した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る