0ー9

 数日後、アイツの母親の遺体が見つかった。崖から身を投げ出して、そのままだそうだ。ガスが溜まって浮上した遺体は近くを通った漁業関係者によって発見、通報されたらしい。

 それ運が良いというのには抵抗があったが、なんであれ葬儀に本人の身体があるのは喜ばしいことだ。

 細やかな葬儀をすませ、色々ごった返した数ヶ月後。

 アイツは施設に入ることになった。父親からの引き取りを断られたアイツに行く道などそれしかなかった。それだけはオレがどうすることもできないことだった。

 施設は菫のことを配慮してくれ、学校などは依然と変わらないままにしてくれたそうだ。引っ越しの手伝いをしてやったら、泣きながら抱きついてきたりした。まったく、鬱陶しい。


 結局、俺たちの関係は変わらなかった。以前にも増してより深く、濃密なものになっていた。俺自身がこころのどこかで、それを望んでいたのかもしれない。

 愛欲に溺れた小鳥がもがくように羽をばたつかせる。すべすべな肌の輪郭をさすって、幾度となく繰り返す。


「ああっ」


 漏れ出すあえぎを唇で塞いで、オレは…。

 夜の密会は、魅力的なものだった。人目を避けた抱擁はなんとも形容しがたい背徳感に駆られた。愛液の濡れる掌の感触は今でも鮮明に残っている。

 抱くたびにアイツの声は艶がかった。まるで昔の幼子のように、きゃっきゃと四肢が揺れる。あどけない表情が愛らしくて。

 楽しい、気持ちいい。そんな単純な思考でしか、俺は動けていなかった。わし掴んだ柔らかな果実を舐め、キスを重ねる。

 間違っている。そんなことはわかっていた。自身が一番それを理解していた。

 でも、やめられなかった。それを若気の至りだというには、浅はかにも程がある。オレは浮き出る現実に心が付いて行かなかった。

 どこかで線引きをするべきだった。だけど、アイツの匂いを嗅ぐと、そんな考えはすぐに消えてしまう。

 違うな、俺はただ欲しかったんだ。すみれが俺を求める以上に、俺がアイツを愛す以上に。ただ、欲しかったんだ。

 そんな日が幾度となく続いた。もう終わりがみえないように、何度も何度も。

 逢うたびに慈しみ、抱くほどに満たして。満たされて。

 この時が永遠に続く、もうそれでも構わないと想うほどに、オレはアイツを――。


 愛してなどいなかった。


 春に散る桜のように、その関係はあっけなく終りを迎えた。

 高校2年の春、それはいつかと同じように、周りが見えないくらいの雨が降っていた。オレはまだ浮かれていたのかもしれない。珍しく学校を休んだアイツを不自然に想い、見舞いにでも行こうかと思った矢先。


「――美鶴」


 反射的に振り返った。傘に堕ちる水滴が、有機的に音色立てる。ずぶ濡れの制服で、アイツがいた。息を荒げ、白い靄が洩れる。何事かと思ったが、その表情はやけにふやけていた。  どうしようもなく嬉しそうにこちらをみてる。

 なぜだろう。いつも愛らしい硝子球が、その時は妙に不快に感じた。胸の違和感を拭えないまま、少女が近づいてくる。

 嫌な感覚が体を蝕む。心なしかアイツの表情の蔭りが和らいでいた。おかしい、いつおもならそれが綺麗なのに。いまは狂気的なほど不気味に見える。


「……――ッ!?」


 途端、全身を冷気で包まれた。走り込むようにいだかれたオレは、危うく蹴躓きそうになる。甘々しい感触が、体温を奪う。


「――っぶね!」


 反射的に逃げるべきだった。だけど、オレのくだらない愛情がそれを拒んだ。今日も少女の匂いを嗅ぎ、家畜のように尻尾を振る。


「ねえ、美鶴」


 戸惑うオレのことなど気にもとめないアイツは一瞬、心から微笑みを浮かべた。まるで昔のように可憐で、穏やかな一枚絵。

 冷え切ったアイツの指先が、オレの頬を捉える。



 ――大事な話があるの。



「え」


 にっこり笑うアイツの姿は、どこまでも華奢で。魅惑的な瞳は濃密な雫を目尻に垂らす。灯の点いた蠟人形は歪に形を歪めてしまった。


「妊娠したの」



「……は?」


 最初に出た言葉は至極当然のように、口を滑る。意味が分からなかった。いやいやとかぶりを振る手は、震えている。

 彼女の吐いた言葉を呑み込めない思考が、全身から汗を沸騰させた。


「保護者にはまだ言ってない。でも、私この子を生むつもりだよ。だって美鶴となら絶対に大丈夫だもんっ。だから――」


 ままごとの段取りを決めるような微笑は醜悪で、握られた指は冷たい。意味が分からなかった。

 ニンシン。まるで初めて聴く単語のように、ゆっくりと復唱する。

 数秒遅く、言葉の意味が呑み込まれた。

 呼吸器官が迅速に酸素を求める。頭が異常に回転し、余分な情報を切断する。

 妊娠、子ども、笑う彼女、親――。


「一緒に育てようね」


 完璧に計算された笑顔が、背筋を寒気立たせる。どうしてそんな顔が出来るのか疑問に思った。どうしてこいつは、平然とそんな事を言える?

 頭が真っ白になった。止まった理性を押し出して、本能が加速する。


「――なにが、なにが大丈夫だよ……っ、子どもだぞ? 俺たちまだ高校生なんだぞ?―――無理だ、無理に決まってる。だいたい結婚とか愛とか、そんなのまだわかんねえよ」


 妙に舌が回る。思ってもないような言葉が、いとも容易く口走る。なんだこれは。自分でも何のことだかわからなかった。

 ただ零れ出た言葉は止まらない。最後まで、一語一句欠かさずに、拒絶の意志は形を成す。


「――ふうん」


 いままで一度も聴いたことのない声が、無表情に零れる。俺は反射的にアイツの顔を見ることが出来なかった。ただ目を逸らし続け、怯える指を引きはがす。

 水溜まりを崩す音が、乱雑にかかった。

 少女はそれ以上何も言わなかった。水に濡れる脚音だけが、延々と刻むように遠ざかっていく。

 そうしてアイツは俺の前から消えた。俺の捨てた業をひとり背負い、生きていく道を選んで。

 オレは知っていた。アイツの親が離婚したことも。そのせいでアイツが不安定になっていたことも。全部知っていて、そして拒んだ。

 簡単なことだった。オレたちはまだ16で、働いてもいない。バイトをかけ持ちしたって、自分達の分で手一杯だ。

 無理だ、無理に決まっている。実際俺は正しかった。俺は間違ってなどいなかった。



 でも、それがなんだ?



 ようやく追いついた理性が、ぐうたらな言い訳を捜す。それが腹立たしかった。それが赦せなかった。

 ひとりになった世界で、オレは何度もその背中を思い出すのだった。




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