0ー10

 その先のことはよく憶えていない。

 逃げるように地元あそこをでて、がむしゃらに働いた。働いて、働いて。気付けば、俺は20代で管理職を務めるまでになっていた。

 会社からのすすめでなんとなく嫁を貰い、好意を重ね、娘も生まれた。有り体に言えば順風満帆。なんの不自由もない、幸せな家庭だった。

 だけど、俺の心は満たされなかった。いくら妻を愛そうとしても、いくら妻に愛されても。俺の疼きは治まらなかった。妻の杏菜はたしかに素敵な人だった。だが俺の求めているものとは明確に違った。

 自らが犯した過ち。あの少女の匂いはどんなものを抱いても、決して乾かない疼きのろいとして俺のなかで生き続けている。

 結局、俺は冷めてしまったのだ。いまも心はあそこにいる。

 目を閉じれば聞こえてくる。あの甘美なまでの吐息と純情の密が。

 もう叶うことのないその幻想を胸に抱き続けながら、俺は自分の刑をまっとうする、そう思っていた。

 そのはずだった。

 だが、俺はもう一度、彼女に逢う機会に恵まれてしまった。

 その日、数年ぶりに午前中に仕事の終った俺は、娘の7歳の誕生日プレゼントを買うために、会社から直接タクシーに乗ったのだった。娘はとてもお淑やかで、俺が渡すものはどんなものでも喜んでくれる健気な良い子だ。

 けれどゲリラ豪雨のせいで渋滞を余儀なくされた俺は、仕方なく運転手に賃金を渡し、雨宿りと昼食を摂るために、道路沿いの喫茶点を訪れた。

 カウベルの確立した音が扉越しに響く。

 店内は閑散としていて、客はオレ除くと二人程度だった。空いた席に腰掛けて、店員を呼ぶ。

 はーいっと明るめな声音が、にこにこしながら歩いてくる。ふわっとした長めの髪は、ハーフアップに結ばれていて、一歩歩く度に薫る懐かしい匂いが、オレの思考を留めた。


「「――え?」」

 

  ○

 

 手許の珈琲を啜って、俺は彼女を一瞥した。すらりとした美脚はいまだ幼さを残し、少し柔和になった胸が、大人の奥ゆかしさを醸し出している。

 年月を経て熟成した白乙女ワインは、控えめにアイス珈琲を仰いで、


「久しぶりだね」


 と短く笑った。

 カランコロンっ。氷を回す彼女は優雅で、うっとりするほどに儚い。


「……あ、ああ」


 2秒ほど遅れて返答した俺に、彼女は朗らかな微笑みを向ける。2時を告げる柱時計の重厚な音色が、オレと菫の微妙な雰囲気のなかで、少し異彩に感じた。

 世間話でもしてみるか、考えた寸前で言葉を呑み込む。さすがにそれはどうなのか。


「まさかこんなところで美鶴と会うなんて思ってなかったよ~」


 気を遣わせてしまったのか、菫のほうから声を掛けてきた。あの時と同じ、何一つ変わらないそのフラットな感覚に、血液が沸騰し、声を絞り出す。


「……なんで、なんでなんも言わねぇんだよ、俺はお前を――」


 お門違いだ。そんなことはわかってる。こんなことなら、責めてくれた方がよっぽどマシだ。俺は彼女を捨てて、悠々と生きている。


「――あのあと色々苦労した。でも……ほら、過去のことだし、――ね?」


「……色々って、なんだよ」


 吐き捨てた台詞は曖昧で。

 きょとんと表情を固めるアイツは、意地悪だなぁ、と苦笑いを浮かべる。


「そうだね、でも美鶴だし……いっか」


 そういって話しを進める彼女の声が、どんどん遠ざかっていく。

 あのあと菫は無事子どもを出産したあと施設を出て、ひとり働き出したそうだ。

 だが、どこを歩いても、働き口などなく、頑なに断られ、途方に暮れていたという。年端もいかない少女にできることは、必然といえば必然で。容姿端麗だった彼女が水商売に走るのは当然といえることだった。


「知らないおじさんに、何度も何度も抱かれるの。――でも私にはそれしかなくて。最初は嫌だったけど、その分あの子が楽できるなら後悔はないよ」


 聞きながら、俺は吐き気を憶えた。胃液が逆流する。それを寸前で飲み還して、眼前の彼女をみる。

 あの時拒んだ少女は、どんどん汚れていく。そして、それはすべてオレの所為だった。

 後悔なんて言葉で、表せて良いはずがない。これが結果だ。目を背けることなどできなかった。

 ――そして俺はようやく、自分が無力だということに気が付いた。

 柔やかに笑うその唇が愛おしい。

 ――いま、何を考えた? 

 目の前の彼女はもう俺のものじゃない。でも、願うならば――。

 やめろ、やめろやめろやめろ。

 心のなかで叫ぶ、だが何を今更だ。お前は、この女を汚し、陥れ、結局見放した。いったい、どこに躊躇する余念がある?

 身体中の汗が、心臓とともに噴き荒れる。ゆっくりと情悪な感情が喉元を満たし、


「――なあ、すみれ」


 かつて呼んだ名が洩れる。口にすることさえ憚れるはずの、その名前を。

 まるでもう一度、罪を犯すかのように。



 俺は――バカだ。



 唇を噛み結ぶ。身勝手な思考を握りしめた拳で、きつく抑える。爪が肉を裂き、血が滲む。


「……美鶴?」


 アイツの瞳はきっと俺を視ていない。もう彼女が向ける愛情の矛先は俺ではないのだ。そう、自分言い聞かせ、瞳を開ける。


「……帰るわ」


 ここにいてはいけない。僅かに絞り出した理性を総動員させて、席を立つ。


「え、ちょ――」


「もう、これで終わりにしよう」


 そういって俺は、手許の鞄から小切手をひったくると、それをアイツに渡した。


「金額は好き書け、お前の自由だ」


「美鶴、待ってよっ、まだいっぱい話したいことが――」


 あの声が耳に届く前に、ここを出る。そうしなければ俺はまた罪を犯す。その確証があった。

 だからこれ以上をアイツという存在に感化されるわけにはいかない。

 足早に、珈琲代を払ってそこを出る。

 途中、彼女が何か言った気がするが、それを聴く権利は俺にない。再びカウベルが鳴って、大荒れの雨に身を灯す。

 すれ違いざまに誰かと肩がぶつかり、軽く会釈する。俺によく似た瞳を侍らせて、少年が笑う。

 栗色の尾が銀の眼に近づいていく。

 そうして、俺は穂波すみれというばけものとの記憶を完全に葬った。ゆえに俺は、私になった。





  3年の月日が経った。あのことはもう、記憶の彼方に置き去りにしたまま、私は仕事と家庭に追われる日々を過ごしていた。

 これまで以上に妻を大切に想い、これまで以上に娘を可愛がった。ありとあらゆる習い事をさせ、あらゆる財を貢いで、私は娘を育て上げた。いずれはまともな人間と結婚してもらう。心のなかで私のようにはならないで欲しいと、そう思っていたのかもしれない。

 会社でも代表の位置に着き、私は時の流れる早さも気にせず、ただ自分の人生を歩んだ。

 けれども、偽りの世界はどう頑張っても私を助けてはくれなかった。

 一本の電話が日常を壊す。

 いまは古き黒電話から鳴る金力音が、ガチャリと事切れる。


「もしもし――」


 電話は秘書からのものだった。といっても彼女が普段電話を掛けるのは、携帯のはずなので、訝しげに眉をひそめる。

 厭な予感が背筋をつり上げる。

 彼女には、多忙になった私の代わりにあの親子の監視役も任せていたのだ。


「どうした?」


《――いえ、それが》


 数秒にも満たない言葉が、死刑宣告のごとく重くのしか掛かる。ぼとっと受話器が手許から零れ、その場に崩れ落ちた。


 穂波すみれが自殺した。


 なにが起ったのか解らなかった。ただオレは床を見詰め、死に絶えた意識を永遠に続ける。

 ぐちゃぐちゃになった想いがまとまらず、考えを見いだせない。肩の力が抜け落ち、オレは途轍もない安堵に埋もれていた。

 同時に、それに気付いた途端、身体が痙攣した。


「……あっ、あ」


 行き場を失った腕が頭を潰し、汚れた指が頬を垂れる。


「ああ……、ああ、あっ――あああああああああああああああっっっっっ!」


 引きちぎれそうなほどに開いた口が、尋常のない咆吼を上げる。

 頭を何度も打ち付けて、そのたびに何度もアイツを想って。想って、想って。半狂乱になった。血眼になってアイツの陽炎を追った。ここにはない、そんなことはわかってるのに。体がいうことを聞かなかった。


「ああああああああああああっっっっっっっ!!!!!」


 我が身を忘れ、痛みなど関係なく。周りの全部を無茶苦茶にする。花瓶が割れ、家具を振り回し、両手はぼろぼろ。

 見かねた妻が、誰かと連絡を取っている。誰でもいい、いまはどうでも。哀しみに濡れる、いやそれ以上の後悔に塗りつぶされた疼きは、どうしようもなく無神経で。オレは、オレは――。


「……お父様?」


 幼げな瞳が怯えるように、こちらを窺う。漆黒の長髪はまるでアイツとは対称で。でも、どこかしら親近感を与える。

 おかしい、アイツの血は入ってないのに。

 いつかの雨が目に浮かぶ。銀色の天使は朗らかな笑みを向けて、口火を切った。

 ――子どもが出来たの。

 瞬間、私は平静を取り戻した。直後、会社から車を走らせてきた秘書が慌てた様子で、私を見詰める。

 意識が覚醒する。身体の全神経を研ぎ澄ませ、あの言葉を反芻する。

 私は機械染みた動作で起き上がると、一心不乱な部屋はそのまま、玄関へ向かう。


「しゃ、社長?」


「ついてこい、石桐」


「あ、え、ですがどこに?」


 私は秘書を急かしながら車へ乗り込み、運転手の爺さんを一瞥する。


「いったいどうしたんですか社長」


「石桐お前、すみれの息子の居場所は分かるか」


「いえ、それがですね――」


 高速を突っ走りながら、秘書の説明を聞く。

 曰く、穂波すみれは半年前に自宅の浴室で首を吊ったらしい。そして彼女を見つけた第一発見者が皮肉にもその息子だったようだ。

 細やかな葬儀を上げ、遺骨は集合墓地に埋められたそうだ。


「なぜ、オレへの連絡がそんなに遅かったんだ?」


 ぎらりと三白眼を更に細めると、石桐は怯えたように呟いた。


「連絡の取れなかった挙げ句、ご子息は施設へ預けられたので携帯等の持ち物は一切なかったそうです。それで、その……連絡が」


 ぎこちなく言い終わる石桐は申し訳なさそうげに言い残し、口を噤んだ。


「我々も死力を尽くして探し、やっとのことで居場所を突き止めたのですが、どうやらその、施設を逃げ出したようでして……」


「どういうことだ?」


「その施設、噂によると親のいない子どもを引き取って虐待をする……ということがありまして……」


「っ」


 あからさまな舌打ちが、秘書の肩をびくりっと跳ね上げる。


「……それで、あの子はいまどこにいる」


 絞り出した声音で、辛うじて掠れた一言は、彼女の携帯の着信音でかき消えた。


「……はい、はい……えっ!? ――わ、わかりました」


 彼女は慌てた様子で、殊更に通話を終えると、携帯を内ポケットに仕舞い、血相抱えた表情で上体を前のめりにする。運転手の爺さんに行き先を伝え、重い表情でこちらを窺った。


「どうした?」


「それが――穂波すみれのご子息が見つかりました」

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