4ー3

 文化祭当日。あの後、収拾をつけるのに苦労したけど、無事この日を迎えられた。生徒会長の開会宣言とともに始まった文化祭はライブや歓声が校内中に響き渡り、生徒たちは各々に楽しんだ。クラスの演劇は好評を招き、陣列整理に手間取ったりもした。早い段階で休憩をもらっていた小豆も例外ではなく、結局どこにも回れないまま、お昼が過ぎた。


「ぷはぁ、疲れたぁ~」


「お疲れ梨花」


 疲れ切った様子の親友は汗でびっしょり濡れていた。といっても、それさえ似合う爽やかさが彼女の利点なのだが。


「喉渇いたでしょ」


 そういって頬に冷えたスポーツドリンクを差し出す。労いの意を込めたそれをごくごく口に入れて、すっかり脱力しきった親友は、パイプ椅子に腰を下ろして息を吐く。


「もう、ひと多すぎ……」


 教室の外にはまだ人が大勢列を作って並んでいる。これで3回目だとは思えないほどの人数だ。


「主役ってのも考え物だね」


「まったくよっ」


 鼻で軽く息をあしらう梨花の表情は言葉に比べて嬉しそうだ。


「……っよし、じゃあ午後の部も始めますか!」


 休憩を終えた梨花は勢い良く椅子から立ち上がって、係員に指示する。他のメンバーも準備が整ったようで、舞台裏が慌ただしくなる。


「頑張って!」


 両の手を拳にして胸に当てると、梨花は任しとけと言わんばかりに親指を立てて見せた。

《――只今より、3―4演劇を開始いたします》

 アナウンスが鳴り止み、舞台の照明が照らされる。まだかまだかと待っていた観客席の拍手が響き、幕が上がった。

 みんなが一丸となって成し遂げる文化祭。とてもすてきで楽しいはずなのに、保健室で一人絵を描く彼のことを考えると、どうしてこんなにも哀しくなってしまうのか。

 そのことに堪えきれなくなった小豆は、一人教室を出ようとした。

 その刹那――。


「――あ、あのっ!」


 霞んだ声に意識が移る。振り返ると同じクラスの男子生徒がいた。あまり話したことはなく、名前をよく覚えていない。


「なんですか?」


 トラブルでもあったのかと肝が冷えるが、様子を見るとどうやらそうではないらしい。


「あ、いえ、その……これから休憩かとおもって……」


 小豆の表情がいぶかしいものに変わる。途切れた口調のその男子は、


「少し時間空いてませんか」

 

 後ろ髪を掻きながらそう言った。

 それだけで少女は察した。明らかに小豆と目を合わせようとしないその男子に連れられ、階段を上がる。

 屋上は誰もいなかった。文化祭の間立ち入り禁止になっているのだから当たり前だが。

 みちりと扉が軋みゆっくりと閉まっていく。午後からは曇りのはずの空は澄んでいて、まるで目の前の男子に「勇気を絞れ」と後押ししているようだ。


「本当は放課後にしようって思っていたんだけど、やっぱりいま言わなきゃだめだって思って……」


 無駄に長い台詞。きざなことでもないのにその人は話し始める。だが、やはりその目は私を見ていない。

 お決まりの雰囲気。おきまりの情景。別に望んだわけでもないが、この学校の大きな行事と言えば文化祭コレぐらいで、こういったことも間々起こりうるだろう。


「え、とその、なんだ……オレ、お前のこと」


 見たことはおそらくあるのだろう目前の少年は、頬を赤く染めながら何度も言葉を詰まらせて、己の心を伝える。

 聴きながら、私は自身の心情に驚愕した。目の前の彼をみる自分はとても汚い。私を知りもしない男子は、綺麗だとかお淑やかだとか、そんな上っ面の言葉で私を評価し、恋をしたという。


「……フッ」


 息が切れる。抱いていたものがむせび上がる。背を曲げた彼の表情は見えないが、緊張と期待、はたまたやりきったという歓喜を孕んでいることぐらい容易に想像がつく。

 彼にとっては一世一代の出来事であろうそれが、私にとっては不愉快極まりなく感じる。

 告白。想像しただけで笑いそうになった。『私』という人間の本質すら知らない人間が、告白? 馬鹿げている。この男は、いったい私のなにを知っているのか。私という人間の何処を好きになったのか。現実に溶け込んだ『私』という死体をなぜ愛すことなどできるのか。

 そう思った途端、吐き気を覚えた。汚物を見つめるかのように見下したその表情に、自分自身で驚いた。



 ―――ああ、こいつじゃだめだ。



「――ごめんなさい」


 そう一言だけ言い残して、小豆は逃げるようにその場を去った。後ろから声が聞こえた気がしたが、振り返ってやる義理はない。足早に階段を降り、人混みをすり抜ける。途中何人かにぶつかった気がするが、どうでもいい。

 無性に茶柱に会いたくなった。無意識に脚の回転を速め、視線を張り巡らせる。

 早くしないと私の大事ななにかが壊れてしまう。

 だが文化祭という最悪の人混みの中、たったひとりの想い人を見つけるのは困難を極めた。やっとの思いで見つけたかと思えば、空はすっかり紅みを孕んでしまった。

 立入禁止区域の体育館。そこに彼はいた。老朽化のため、演劇部は別の場所て行っており、ここには他に誰もいない。


「……ここに、いたんだ」


 抜け殻の様な声が、彼女の心を揶揄するかのように響く。平静を振る舞おうとした快活な笑みはぎこちなく、心が欠けそうだった。

「せっかくの文化祭なんだから、君も参加しなきゃだめだよ」

 足取り軽く近づいてくる小豆に少年は応えない。額に文庫本を乗せたまま仰向けに天井を見つめている。寝ているのだろうか。

 その時自分がこの少年にしたことを思い出した。

 そうだ、私は彼に酷いことをしたんだった。臆病な心が躊躇いがちに脚を引き留めるが、結局、それは無意味だった。

 ゆっくりと本を取り上げる。彼はむっとした表情で、本を置き直してしまった。

 がらでもなく気怠そうな態度に顔をしかめながら、私は内心の影を拭った。気持ちが落ち着き、ほほえみを取り戻す。

 そうして、反対の位置に腰を下ろし、もう一度本を取ろうとしたとき――。

 甘い匂いが口に広がった。左手につまんだ文庫本は投げ出され、小豆は床にもたれかかった。

 つまり、押し倒されたのである。

 状況の理解できない少女に茶柱の鋭い眼光が刺さる。


「――どうしたの」


「先輩はいま幸せですか?」


「え?」


「答えてください」


「う~ん、そうだなぁ」


 床と少年の薄い胸板に挟まれて、少し高揚ぎみの笑いを向ける。黒く鈍化した少女は卑猥に潤んだ瞳で少年を舐めた。


「うん、幸せだよ」


 首筋に歯を当てる。かりっと犬歯が突き刺さり、朱い鮮血が滲み垂れる。それをひとなめりしたあと、悶絶する後輩の頬にキスした。

 唾液の交わる音が、あたりの閑散さをもみ消す。止まない接吻が舌を絡め、少女の下腹部が熱くなる。ゆったりと輪郭をなぞる瞳が一度だけ潤った。


「あ………っ」


 指が絡まる。これが仲直りなのだろうか。もともと密着状態だった体はさらに近づき、二つの肌がこすれた。

 誰一人いない静寂のなか、二つの嬌声が互いを愛し、そして苦しめた。混濁した気持ちと願いを確認し合う。

 ぽつぽつとタイルの上を涙が泳ぐ。人の行き交う学内。その屋上の真ん中で誰かのすすり泣く声が聞こえる。

 様々なところで人は想いを伝える。あるものはその思いに押しつぶされ、あるものはそれに希望を抱く。

 その涙が誰のものなのか知るものはいない。

 ただその日、だれかの青春の1ページが色塗られたのは確かだろう。

 そうして私たちは、恋人になった。

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