第5話 『日の満ちる』

「……ぱい、起きてください先輩」


 低い囁きが、朝の清々しい空気を香る。窓枠から差し込んだ光芒に灯されながら、子どもっけの柔和な麗句が私の耳を撫でる。相変わらずつんとしていて、苦しげな声音だが、それさえも愛らしい。薄暗いシーツのうえに滑らかな感触が走った。

 むぅ、まだ眠い。子どもっぽく口を尖らせた直後、溜息のような声とともに全身が浮遊感で包まれる。ベッドから離脱した身体は、そのまま進路を左へと替えておもむろに動き出した。

 恋人は、白馬の王子様というより、お姫様に近い。塔の上室で植鎖に繋がれた後輩グレーテルのつぶらなまなこに意識を犯される。シャワー上がりなのか、ほのかにシャンプーの香りが漂う栗色の髪がつやっぽく揺れ、妹的ネクロフィアな容装は、ぼやけた視界でも色濃く映る。ぐったりと腕を蠟人形ドールの肩に回し、童顔の頬にうっとりと目を瞬かせる。

 振動がとまって再び重力を感じる――と同時に、背中にツーンっとした感覚が迸った。冷気で熱された氷茨ひょうまんのタイルが、やわらかな少女の背の肉に触れる。


「ヒャ――ッ!?」


 驚愕と衝撃が電流となって表皮を焦がし、慌てて態勢を整える。これが抜群の目覚し効果で、いまだに眠気半分だった脳が一気に醒めてしまった。


「やっと起きましたか、先輩。着替えはここにおいときますから、早く身体を流してください……風邪引きますよ」


 少年はそういうや否や、そそくさとリビングに下がってしまった。

 取り残された少女のくしゅっ、とした小さな呻きが、まだ乾ききっていない室内に湾響する。肩を縮こませ、身震いをすると、寝癖の付いた黒い髪を持ち上げて、ゆっくり腰を上げた。

 まだ温もりのある蛇口に手を掛け、勢い良くお湯が飛ぶ。顔面を滝に突っ込んでしばらくそのままで、ぱっと顔を上げる。くせっけのない髪をゆすいで、雫が体を包んだ。

 子犬のようにぶるぶると首を振り、また同じことを繰り返す。


 如雨露シャワーの音は雨に似ている。流れてくる感情が止めどなく自身を包んでいく。その時だけは、なにも考えずに身体を預けているだけでいい。まるで想い人に愛されるように。

 だけど、温められた水がそれらを全て洗い流してしまうようで、シャワーは嫌いだ。

 タオルに手をかけ一頻り水気を落とすと、香ばしい匂いに気付いた。茶柱が朝食を作っているらしい。なんとなしげに考えながら、右手の棚上に置かれた着替え―――といっても下着の上に大きめのパーカーを着るだけだが―――に袖を通す。

 タオルを肩に巻いて髪を一通り乾かしたあと、戸棚を開ける。開閉式の筒状のケースから、大きめの丸眼鏡を取り出し、顔にあてる。一度、髪を後ろに束ねてブラウンの縁を耳に引っかけ、真ん中の鼻当てを微調節。何度か鏡と睨めっこしながらようやく、よしっ、満足げに頬を軽くあしらい、やっと扉を閉めた。

 リビングに上がると既に調理を終えたエプロン姿の少年が、テーブルに料理を並べて待っていた。ほのかに香るシナモンシュガーが、鼻孔をすり抜けて胃を刺激する。


「あ、おはようございます、先輩」


「うん、おはよう、茶柱くん」


 後輩のにっこりとした笑い顔に、頷き顔で返しながら、四人テーブルの傍らに腰掛ける。

 卵の良く浸みていそうなブレッドステーキを中心メインに、フル―ティなリンゴとバナナのサラダ和えを付け合わせとした西洋スタイルだ。


「今日はフレンチトーストです、どうぞ」


 テーブルに彩られた朝食を前に、茶柱が呟く。待ち切れんといわんばかりに大きく手を合わせて、肉厚なパンにかぶりつく。

 ほどよく火であぶられた生地が口に入れると、あらかじめ内封されていた蜂蜜がとろりと溢れ出す。黄金色のその輝きに頬をとろけさせ、すかさず手許のコーヒーを一あおり。

 眼前の少年が、専門の店からわざわざコーヒー豆を買ってくるオリジナルブレンドは、濃厚な甘さとカカオのほろ苦さを混濁した、この味わい深いコク。まさに幸せ、と顔の筋肉を緩ませながらねっとりと呑み込む。


「「……ほわぁ」」


 茶柱も負けず劣らずの歓喜の表情を帯びて、一緒に肩まで溶け落ちた。


「さすが、the甘党だね……」


「抜かりはありません」


 茶柱の腕に毎度の如く感心しつつ、2杯目おかわりのコーヒーを啜る。やはり朝はこれだ。胸の内でこくこくと確信する。

 茶柱時雨は生粋の甘党である。そして、とても料理が上手い。喫茶店のバイトをいくつもかけ持ちしているその腕前は、そこいらの料理人にも劣らない。


「……んん~~っ、おいしィ」


 無邪気な眼差しが天を仰ぎ、艶のある潤いに想わずどきりとする。あどけなくフォークを動かす度に、そのどこか危うげな仕草に下腹が震えた。

 卑猥に彼の姿を舐めまわすことに、若干の背徳を感じてしまい、視線をそらした。

 うん、今日も珈琲は美味うまし。


「ふう、おいしかったぁ。ごちそうさま」


 使った食器を洗面所で洗い、一通りの日課を終えると、大きめのソファに腰下ろして食後の珈琲を飲む。こちらはインスタントだが、しっかりとした苦みとほんの少しの甘みのコントラストが絶妙においしい。舌でなんども撫で回し、堪能したあと半分くらい減ったところで止める。黒い水面から漏れる湯気が、眼鏡のレンズを曇らせる。それをゆったりと眺め、読みかけていた新刊の本のページを漁る。テスト後の振り返り休日という神にも等しい平日を惜しげなく読書につぶそうと、しおりを挟んでいたところの数ページ手前で、


「そういえば先輩、今日出かけませんか?」


 唐突に声がかかった。指の動きが制限され、開きかけの本を閉じる。


「急にどうしたの?」


 椅子の上に蹲った茶柱に顔を傾けて、頭ごと身体を押し上げる。ぐわんっと身体を揺らしながら、床に降り立って、少年の隣に腰掛けた。

 身体を少年に傾けて頬をすり寄らせ、額に眼鏡があたる。


「先輩、近い」


「――むぅ」


 レンズ越しに見つめると、彼は困ったような顔をした。


「それで? どこいくの」


 少々のタイムロスを経て、返って来た球に少年は迷うこと無く答えた。


「宮島」


「え、やだよ」


「マジな声で言わないでください……」


 十一月も後半を下ってきたこの時期、紅く染められた木々を見に行く観光客が激増して、ごった返しているであろう。そんなところにわざわざ脚を運ぶというのは野暮というものだ。時計を一瞥してみると時刻は十時半。出かけるには遅すぎる。

 剣幕そうな顔差しの私に茶柱は頬を膨らませる。時々こうやって子どものような表情をするところが好きだ。けれど、いささか遠出には反対である。


「まあそう言わずに、お願いしますよォ先輩。可愛い後輩の為だと想って」


 私が賛成の意を表さないことに、茶柱はつぶらな瞳を向けてくる。いつもは渋るような甘ったるい口調や仕草で、私の意識を鈍らせてくる。くっ、コノヤロウ。可愛いやないか。


「自分でそれゆうなよ……」


 ぼそりと呟いた言葉は、負け台詞のように悔しめになって、結局私は仕方なく首を縦に振ってやるのであった。

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