5ー5

 電車のなかは予想に反して静かだった。平日のためか、それともたんに時間帯の所為か。先ほどの喧騒に包まれた時間が嘘のように、車内には私たちを除いて誰一人いない。


「今日は楽しかったね」


「……」


 茶柱は答えない。必死に笑顔を振りまこうとする小豆の努力も報われず、茫然と窓の外を眺めていた。一コマずつに入れ替えられた鏡面の絵画。それをどこか遠い目でそっと見詰めている。

 電車の勾配が、揺り籠のように眠気を誘う。

 山を下りて以来、2人の間には重苦しい雰囲気が漂っていた。掴みかけた腕は、狂楽的なほどあでやかで。か細く、切なく下腹部をなぞる。


「……っ、……」


 開きかけの口が言葉を捜す。喉元までこみ上げているはず声は、まるで発し方を忘れたように、唇だけが虚しく震える。

 断片的に移る茜色が、少年の色白の肌に熱を灯す。職人の手によって作られた精巧なまでの美しい万華鏡ひとみは、揺れる光彩のなかに脆さを孕ませていた。

 伸ばしかけていた手は、見えない壁に阻まれたかのように、それ以上近づくことはない。掴み損ねたなにかを見いだすように宙を彷徨い、弱々しく胸元に帰還する。

 無力な少女に出来ることなど、なに一つとしてない。


「――ねえ、先輩」


 こくりっと、唐突に茶柱が口を開く。紅蓮ぐれんに染まるその瞳に私はいない。頬杖のついた手がねっとりと揺れ、褐色の光がまだらに照らされる。唾液が舌を湿らす。



 ――このまま、一緒に逃げちゃいましょうか。



 夕闇が窓の外に差し込む。昼と夜の入り浸った混濁の世界で、夜行列車が硬い汽笛を打つ。錆び付いた旅路レールがどこまでも遠く、感じた。


「……このまま二人、どこか遠いところに――逃げちゃいましょうか」


 佳麗な幻想はどこまでも可憐で。幾重にも重なった光学レンズのように繊細な鏡面ひとみは、焦らすように、少女の眼球の裏までさする。


「――ふふっ、なーんて」


 翳りを帯びるその表情を、少年はいたずらっぽく笑い飛ばす。ちびちびと。縋るように。

 その瞬間、私は耐えかねた。


「私は………、私は……っ! どこにもいかない。どこにもいかないよ! 君を一人になんてしない……っ」


 前倒れの腰は少年を覆うように密着する。闇色の髪が微弱な四肢に触れ、言葉無き膜内がねっとりと舐め回す。肉薄した呼吸が、彼の淡く輝いた薄紅を掠れる。

 ふいに、その頬に温かみが走った。


「……先輩は僕を求めてくれればいい。僕はあなたがいればそれでいい」


 笑いながらの涙は、どこか大人びていて。優しく撫でるように微笑む。けれど、その瞳はいつかみたことのある、悲しみに満ちた儚げな笑顔だった。

 少年の本心を、私は汲み取ることができない。それでも胸のなかにあるこの苦しみはまぎれもない本物で。

 無力な腕で、誰よりも君を想い、その涙を拭いたい。

 狂おしいまでの濃密なキスとともに。

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