5ー4

 午後からはいよいよ紅葉を見るべく、山を登ることになった。商店街の入り組んだ道を通り抜け、老舗旅館の脇道を登る。紅葉谷公園の入り口の和菓子屋で飲み物を買う。

 伝統的和風建築の建物の裏には、楓に添えられた溜池があって、山道へと続く橋の周辺にはモミジが多く、見事な風景だった。本当はそこから、ロープウェイ乗り場まで無料の送迎バスがあるのだが、あくまで紅葉狩りが目的のため、使わないでおくことにした。

 紅葉と渡月橋がマッチして、広島にいるのに、まるで京都にいる感覚を味わえた。川のせせらぎが胸の奥にすっと入り込む。

 舗装されていない斜面は歩きづらく、スニーカーで来なかったことを後悔する。おのれ茶柱、デートだからおしゃれしちゃったじゃないっ。


「わっ!?……ととっ」


 転ばないように充分注意していると、自然と歩く速度が落ちてしまうわけで、茶柱がじれったそうにこちらを見つめる。


「……ほら、先輩こっち」


 恨めっしく後輩を睨むのも束の間、枝きれのような手が差しのばされた。


「……手、早く」


「あ、うん……」


 指先の熱が妙に生々しくて。胸がどきどきする。普段はか弱く見える彼の腕が、その時だけはなぜかたくましく感じた。

 深緑を分け隔てていた木々が、奥行きを持ち、紅や黄、さらに緑のコントラストが美しく輝く。清輝に流れる光芒が、照り葉の伴奏を演出して、仄かな光を陰に与える。


「……わぁ」


 壮大な自然のプラネタリウムに短い声が垂れた。浮かび上がった紅葉にうっとりとする少女の掌の温もりが、微かに強くなる。橋の下に降りて、聞こえる乾いた水の音が、まるで自身が落ち葉となり、川に洗い流されていくようだ。

 少し登りになって、人の数もだいぶまばらになってきた。開けた広場では、先に来ていた親子連れの夫婦が、紅爛の大地を駆ける兄弟を優しく見守っている。

 湿り気のある土の匂いが、木々に包まれた朝霜の残り香と混ざって、神秘的な精彩さを醸し出す。

 途中、露店で休むことにして、池に住まうコイに餌やりをする。色鮮やかな竜魚の群れは、ぴちゃぴちゃと水面を跳ねて可愛らしかった。

 入り組んだ獣道を奥へ奥へと歩き、やがて広いところに出る。

 山頂から流れ出した水滴の渦が小さな川を落ち葉の上に築いている。まだ完全に着紅していないのか、どこか緑の残る黄色こうしょくのモミジが陽射しを浴びて、照映な絵画を演出している。


「すごいっ、綺麗だね」


 幻想的な光景に、珍しくはしゃいだように辺りを走り回って、紅いスケートリンクを踊り舞う。星片が煌びやかに輝き、少女の笑顔の微笑みを、より一層引き立たせる。黄金に舞う天女に少年は思わず息を飲む。


「……こけないで、くださいよ」


 背後から掛かった声は果たして届いたのだろうか。大人びた苦笑を浮かべる。少し動きすぎたせいか、胸が熱い。

 年相応の朗らかな笑みを浮かべる少女に茶柱は物言わずじっと見詰めていた。


「時よ止まれ、そなたは美しい……」


 やがてぼそりと呟いたその言葉は、どこかで読んだ小説の台詞。活き活きと野を駆ける彼女の耳に届くことはない。


「君もこっきにきなよ!」


「疲れたんで遠慮しときますっ!」


「そんなこと言わないで―――きゃッ!?」


 木の根にでも脚を引っ掛けたのか。頓狂な声をあげて無骨に転ぶ少女を見て、くすりっと笑う。幸い、柔らかい落ち葉クッションが敷き詰められていたため、外傷は特にない。


「まったく、だから気をつけてくださいって言ったのに」


「あはは……ごめんごめん」


 ため息混じりの微笑みが、麗華な二の腕を伸ばして、手を握る。前髪にかくれた少女の悪意には気付かないまま。

 ボサッと間の抜けた音が辺りに響き渡る。少女を引き揚げようとした茶柱は逆に引き寄せられて、その場に倒れ伏せてしまった。


「ほら、気持ちいいでしょ?」


「そうですけど……洗濯とか考えてくださいよ」


「何か言った?」


「……なんでもないです――ッ」


 頬をいっぱいに膨らませて、仰向けに空を仰ぐ。天井を覆い尽くした楓が、花のように紅貴に染まる。天鵞絨ビロードのような光の背景に赤の濃淡だけで表された世界には、僕ら以外誰もいない。


「……きれい、か」


 無意識に言葉を漏らす少年の瞳は見えない。ただ、その声音はどこまでも遠く、儚かった。彼にはこの景色がどんなふうに見えているのだろうか。ぼんやりとそんな事を小豆は考える。


「――なんだか久しぶりだな、この感じ」


 唐突に口が開いた。オレンジの光が、星芒の余韻を一塊に作り上げ、発光した葉々に芸術的な美しさを醸し出す。


「せん、ぱい――?」


「昔はこんな風に、なにも気にすることなく遊んで楽しかっんだ。でもお父様はそれじゃだめだって――」


 流暢に呟かれたその言葉は、少女から何かを抉り取った。小豆自身、それに気付くことはない。


「え」


 だがとなりの少年はそれを聞いて驚愕した。小豆の肩が揺さぶられ、落ち葉が宙を舞う。


「うわっ!? 急にどうしたの茶柱くん?……っ!」


 固く握られた肩を押さえて、少女は驚いたように眉をしかめる。


「―――あ、いえ…その」


 いずれ終わるその日々を、人は忘れていく。


「……っ、いいえ、なんでも」


 乾いた言葉を口にした少年は、迎えることのない明日に目を逸らした。

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