3ー6

 ざーっと吹き荒れる雨が窓を叩く。雲の出かかった空は大気に包まれ、まるで二人の罪人を隠すように雨脚を強めた。

 右手が少年の頬に添えられる。作り物のような顔立ちに何故だか胸が焦がされる。

 小豆は震えていた。少年の存在が肌に伝わる度に自身の中で不安と疑問、僅かな好奇心が交錯こうさくする。

 ――茶柱を救いたい? 

 そんなものはただの口実だろう、と誰かが鼻で笑う。あんたは自分のために少年を利用しているだけだ。自分自身で選んだ相手と恋をする。どうせ、そんなくだらない望みを抱いているだけだ。

 彼の目で鏡張りに映えた自分が嘲笑的に私を見つめる。

 まるで私が目的をもって行動しているように。

 霧が掛かったように、顔の見えないソイツは私を責め立て嘲る。

 うるさい、黙れ。たしかにそうかもしれない。ああ、きっとそうだよ。私は彼を愛してるわけじゃない。そもそも愛がなんなのかもわからないのだから。

 ただ彼の弱さに。悲しみにつけ込んで自己満足の優越に浸る最低な女だ。

 ――でも、それでもきっと。

 劣悪する堕落の徒。絡み合う愛憎の絆。そんなくだらないものを求め、傷つけ、さらけ出す。

 きっと胸に渦巻くこれの答えが。

 その先にあると信じている。

「あなたは優しすぎる」

 涙ながらの反論は、切ない甘さとなって消えた。

 唇が重なる。一度。もう、一度いちど。優しく、激しく。吐息が首筋を撫で、身体中をなぞる。

「だめ、もっとして……」

 羞恥心を置き去りにしたまま腰を動かす。だが、幾度となく達する身体も彼への想いも。乱れ擦れ合う感情の疼も。まるでスクリーンに映し出された映像を観るように冷静で、無感情だ。

 茶柱の顔が視界を覆う。彼は泣いていた。いや、正確には泣いてはいない。だが、私の目はたしかにそれ捉えた。

 人を汚すことの愚かさを彼はよく知っている。

 下着のホックがかちりっと明確な音を立てて外される。

 刺繍の入った布地が辛うじて肌を隠す。薄紅に指が触れ、そっとなで下ろす。布きれ一枚では、少女の全てをとどめることは出来なかった。必死に上唇をみ、声を押し止める。

 いや触らないで。本能的な拒否が身体を啄む。電気の走る感覚、神経が麻痺しそうな痛み。快楽。痛い。痛い痛い痛い痛い――――気持ちいい。

 欲望の混雑のなか、彼女は自覚した。

 いま私はここで生きている。だれでもない、『私』がここで生きている。

 心からそう思った。初めてのことだった。この日、この一瞬だけは誰に咎められるわけでもなく、誰の目を気にするわけでもない。己が時を刻める。その喜びがあった。

 ねえ、もっとして。もっと私を認めて。

 ――ああ、そうだ。私は最低だ。

 もっともっともっともっともっともっともっともっともっと――――私を愛して。

 これだけ求めているのに、これだけ欲しているのに。乾きは一向に治まらない。

 当たり前だ。私のこれは恋じゃない。ただ自身の存在を認めて貰いたいだけ。その相手が私にとっての特別な人であって。その人に対しての感情はきっと別の何か。

 憐れみ、卑下、親近感。

 ――結局、誰でもいいんでしょ?

 心の中で誰かがそっと問いかける。違う。それだけは違う。たとえ私のこの悦びが不純なものだとしても。私は彼が大切だ。

 ぼろぼろになった心は、純潔さは跡形も無く瞳は虚。散っていく花のような名残は一つも無い。黒色濃く染まり上がった。

 光のない世界で、微かに口の端に浮かんだ笑みは。頬に伝う銀のしずくに上塗りされた。

 深い夜の底に見えなくなるまで。生者は暫しの幸福に浸かった。






 その感情が、偽りで塗りつぶされたものであるとも知らずに。






 少年は終始、眼前の少女の行動を看て取った。冷ややかな侮蔑と呆れ。いや、そんな単純なものでは片付かない。憎い、この人が憎い。

 だが同時に、少女を哀れんでいた。心の底から悲しんでいた。

 この女は『愛』を知らないのだ。だからこんなにも獣じみた行動に走る。少年はその事実を知っていた。そして彼が望んでいた密かな希望は儚く散った。


 結局、自分の追い求めていたものはここにはない。


 彼女が存在するだけで嬉しかった。彼女が笑うだけで救われた。同時に湧き上がる憎悪など気にならないくらいに。僕はただそれだけで良かった。

 それが茶柱時雨という死体にんげんがこの世界に存在する唯一の意義であった。

 だが救いであるはずの少女は、とてつもなく不幸で、ひびの入った硝子球だった。

 ぼろぼろだった心は、もはや形を持たず機械的に動き出す。

 唯一ついた嘘を彼女は知らない。それを教える義理はないし、教えたところで彼女の運命が変わるわけでもない。

 ゆっくりと手を伸ばす。少女は猫のように喉を鳴らし、身体を丸める。もっちりした感触、艶のある髪。その全てに心溶かされて、どうにかなってしまいたい。きっとこれが過ごしてきた時間によるものだとしたら、そんなものは消し去ってしまいたい。

 言葉にならない感情が渦となり、自身に反芻はんすうする。

 殺意にも似た感覚。あなたが、あんたが、お前なんかが。

 喉元までせり上がっていた言葉を寸前で押し止め、あらためて少女を観る。

 彼女は笑っていた。肩は震え、頬は涙川ができているのに。少女は懸命に微笑みを向けてきた。それはおそらく恐怖を紛らわす為ではなくて、他の誰かに向けた謝罪の意。

「私は優しくなんてないよ……」

 腐った心に火が灯る。一筋の涙を唇で拭い、強く、強く抱き締める。他人の心配なんてする余裕もないくせに。ほんとに、どこまでお人好しなのかと口元が綻ぶ。

 少女の内心を舐めとりながら、少年は惜しみなく彼女を愛撫する。

 違う。こんなものは望んでない。望んでないのに。

 揺らぐ。抱いてきたものが。祈ってきたものが。

 だって僕らは――。

 どうしようもなく苦しくて。どうしようもなく哀しくて。

 かつてみた誰かの面影は、胸に抱いた少女の姿。

「――さん」

 漏れ出した言葉が聞こえることはなく、流した涙が報われることもない。

 ただ願い、ただ嘆き、そうして結局なにもできないまま終っていく。

 紅い地面が目に照りつく。傷だらけの幼い四肢はもういない。

 やめろ、やめろやめろやめろ。

 身体に熱が帯びる。それは痛覚によるものなのか、はたまた胸を焦がす感情(なにか)によるものなのか。

 薄暗い部屋に降りしきる雨音が響く。水の音が艶めかしく散る。

 ――ああ、そんな顔されたら、少しだけあなたのことを。

 目的を失った死体は、新鮮な生を喰らった。

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