3-5

「器用でなんでもできて。自慢の母でした。僕を食べさせるために毎晩遅くまで働いていて、自分のことは後回しだった。本当に綺麗な人だった。当時の僕は本当に子どもで。自分が護られていることにすら気付かなかった――」


 だから、彼女の抱く苦しさに気付いてあげられなかった。

 息を一幕きり、やがて微かな声音とともに聞こえる。まるでそれは、自身を嘲るかのごとく遠くを見ているようだ。

 ――自殺でした、と彼は短めの息を吐く。

 その時の表情が、いまも忘れられない。

 親戚のいなかった彼女には、茶柱を引き取ってくれる人間は誰一人おらず、茶柱は施設に預けられるほかなかった。


「その施設というものは、僕と同じように親戚のいない子どもを引き取ってくれることで有名でした」


 引き取られた茶柱には、安定した食事とベッドが約束される。そう信じていた。

 だが実際は違った。あそこは施設などではない、ただ監獄だ。最初は良かった。温かく迎えてくれる職員、元気に遊ぶ年下の子ども。ここなら安心して暮らせる、そう思った。   

 だが二、三日過ぎてみるとどうだ。繰り返される暴言暴力、終ることのない説教という名の虐待、丸一日食事の与えられない日もあった。体力は限界を達し精神はすり減った。

 そうして半年も経たない内に、彼はそこを出た。

 あてもなく繁華街を歩くなか、行き着いた裏路地で男に襲われた。当時髪の長かった茶柱を娼婦とでも見間違えたのか、強引に服を脱がされ、そのまま意識を途絶えさせたという。

 気が付いたときには、男は既に去った後で、残ったのは、地面に落ちていた男ものと思われる財布と、全身にこびり付いた生ぬるい体液だけだったそうだ。


「そこからです、僕が水商売に走ったのは」


 淡々と告げるその声に感情はない。そのことが余計に小豆を寒気立たせた。


「母から貰ったこの容姿は男女両方に人気で、一晩でお札が何枚も稼げました」


 高校に上がるまでには貯金もでき、普通の生活を送れるくらいにはなったという。

 皮肉なものですよね、と何一つ反応を示さない小豆に少年は語る。


「母が一番護りたかったはずの僕は、結局それを裏切ってしまった」


 嘲笑めいた口調に溶けた叫びは、自身がちっぽけな存在だということを痛感させられる。

 声が出なかった。どんな言葉を掛ければいいのかわからなかった。記憶を垣間見るような彼の横顔は哀しみに濡れている。


「だから、僕は先輩の思っているような人間なんかじゃない」


「……」


 射貫かれた、とはまさにこう言うのだろう。胸をちくりと痛みがはしり、激しい後悔を憶える。


「僕を見るが母にそっくりでしたので」


 ああ、自然に声が漏れた。弱々しい? 護ってあげたい?

 何も言えない。言えるわけがない。私のような人間が、私ごときが。彼の痛みなどわかるはずがない。私の勝手な妄想は現実というあまりに冷徹なもので切り裂かれた。


 それからしばらく、私たちは互いに押し黙ったまま、重い空気を眺めた。時計の秒針だけが静寂に潜む獣のように、かちっ、かちっ、と規則的なリズムを奏でる。せっかく煎れた紅茶はすっかり湯気を忘れ、時間だけが延々と過ぎていった。


「ねえ、茶柱くん」


 さきに口を開いたのは小豆だった。茶柱はそれに応えず、呆然と曇天の景色を眺めている。意を決して放たれた言葉はそれ以上紡がれることはない。


「……っ」


 なにを話せばいいのか。考えてもわからない。自身の環境とて良いものではないが、彼の苦痛に比べれば、そんなもの取るに足らないだろう。他人の事情にこれ以上踏み込んではいけないことも重々承知している。

 でも、と彼女は自身に言い聞かせた。ほんの少し、思ってしまったのだ。胸の内に宿るこの感情は庇護でも憐みでもない。遠く深いところにねむった黒い渦が波打つように少女バケモノたがを外す。それは好奇心であり探究心であり、単なる欲望である。

 それに気付いたときには、少女はもう言葉の全てを言い終えていた。


「え」


 間の抜けた声が床に倒れ伏す。自身を責め立てる理性はどこか他人事で、私は身体の制御を失っていた。「――ッ」という短い息が光を凪ぐ。黒沼の空は泣き出して二人を攫う。



 ―――君が欲しい。



 数秒遅れて状況を悟った少年は真上に揺れる果実を眺めた。甘い香りが少女の髪を通して、脊髄へと送られる。餓えた獣を見るように、軽蔑と嘲笑の入り交じった眼差しが可憐な瞳に映り込んだ。


「先輩は僕を抱きたいんですか?」


「――私にはわからない」


 茶柱の怒気にも似た声を小豆は自身の声音で遮る。


「……私は君のような苦痛を味わったことはない! 私は君みたいに悲しんだこともない! 私はそういう人間だから、君に掛けてあげる言葉さえない!」


 言いながら、私は泣いていた。心の底から嘆いた。

 未だ自分は子どもで無力だ。

 だから、大人の汚さに埋もれたたった一人の後輩も救うことができない。たとえどんなに私が言葉を並べても、彼の心には届かない。響かない。

 ――それでも。

 顔を上げた小豆の表情を、少年は読み取れなかった。震える手が、ゆっくりと茶柱へと伸ばされる。腫れものを触るように、一瞬躊躇ったが、覚悟を決める。栗色の繊維が揺れ、頬の感触が伝わる。冷たく薄い頬だった。顔を寄せ、頬にくちづけた。唇にも。茶柱はそれを拒みもしない。ただ問うようにまっすぐとこちらを見つめ返す。

 その瞳に私はどう映っているの。肉欲に溺れた彼らと同じに見えるのだろうか。

 服の間から触れた胸板は、硬く滑らかだった。


「……ゴクっ」



 ―――先輩は僕を抱きたいんですか?



 先刻の言葉がもう一度彼女を襲う。

 答えはでない。いや、そんなものは関係ない、だって。

 息が荒い。心臓がばくばく揺れる。指先に力が入らず何度も焦燥感に駆られる。唇を噛み結んで、にじり汗を払う。

 ぱちっ、軽やかな音を立てながら、制服のボタンが外れた。


「……なに、やってるんですか」


 目を見開く少年に私は応えない。ピアノの鍵盤を叩くように血液が沸騰する。

 ボタンが一つ。また一つ。緩やかに布がはだけ、下着姿の裸体が露わになった。

 絶句する茶柱。しかし少女はそれ以上をしない。

 彼の目は明らかに失望の色がうかがわれた。それでも少女は、歩み続ける。

 鼓動こどうは震え、虚ろな視界は今日の空模様を描く。

 震えながら、少女は言った。


「君が脱がせて」


 切なく潤むまぶたが少年を捉える。ずるい女だ、私は。彼の過去を知ってなお、こんなことをするなんて。

 胸の重みが消えていく。顔を上げきった小豆の表情は、長い髪に隠れて見えない。

 真意の読めない少女の下腹部が少年の脚をさすり、腰へと行き着く。馬乗りの状態の茶柱はもがくが、叶わなかった。


「抱いて」


 私がいうと、茶柱は首を横に振った。


「……駄目です、こんなこと」


「いいよ、君になら」


 説得を試みた少年に、少女は唇をひらく。と同時に、彼女の下腹部が少年の腰をなぞり、刺激する。一際大きななみが、少女の胸を襲った。死人のような白い頬が怯えるように震える。

 ガラス細工の瞳が、許しを請うようにぶつけられた。

 愛らしい容姿、いとおしげな表情、危うげな存在。私より幾つもの苦難を乗り越えてきた少年は、そのすべてが切なく、脆い。

 ごめんね、茶柱くん。酷いよね、私。

 延々と繰り返される言い訳の全部をいますぐにでもぶちまけて、逃げたい。けれど。

 これしかないのだ。いまの私に君を救えるような言葉はない。なにも持ち合わせていない、人形にできることなど、たかが知れている。

 憐れな憐れな子羊。その言葉は誰に向けたものなのだろうか。ああ、嫌だ。自分が自分で嫌になる。

 痛みを知らない人形にできること、それは――同じ痛みを知ること、、、、、、、、、だ。

 だから教えて。苦しみを知らない、悲しみを知らない私に。

 ――君の見る世界を。


「だから、シよ――?」


 いつの世も、アダムとイヴは現れる。禁断の果実食すのは大方、唆されるのが落ちだ。

 そして、それはいつだって、悪魔的なささやきであった。


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