3-4

 あれは、私が茶柱くんと知り合ってから、数ヶ月経った日の事だった。

 十月。雨の日だった。

 茶柱の家で勉強を教えていた私は軽く息をついて、「休憩しよっか」――そういって教科書をみる少年に微笑んだ。

 エメラルドの瞳はそのまま、首だけがこくりっと頷く。


「もう、真剣なのは良いけど、片付けないとお紅茶ちゃだせないよ?」


「僕は紅茶よりコーヒー派です」


 しれっと屁理屈をかます後輩の頬を、パン生地のごとく引っ張り上げ、キッチンへお湯を沸かしにいく。

 家から持ち出した菓子クッキーを取り出し、皿に添える。鮮やかな有田焼の大皿が菓子に艶のある輝きを当てる。これを選んだ人間の趣味の良さがわかる。


「……」


 沸騰し始めた水に映る、どこか物言いたげな自身を眺めながら、小豆は小さく息をついた。

 茶柱と出会ってわかったことがある。彼は人並みに勉強ができない。『保健室登校』という特殊な事例を考慮しても、言い逃れできないほどだ。

 彼自身それを自覚しているらしく、勉強を教えるようになったのも、彼から直接懇願されたからである。あの容姿に本気で頭を下げられると、是非もない。

 以来、こうして週末茶柱の家で一対一マンツーマンで指導している――のだが……。

 沸いたお湯で紅茶を注ぎ、茶菓子とともに少年の待つテーブルに運ぶ。直後に、時計の3時を告げる鐘が鳴った。


「はあ~甘い物だぁ」


「こぉら、読みながら食べない。行儀悪いよ」


 肌身離さず教材を持つ茶柱を軽くあしらえて、手許のカップをすする。インスタントだが濃厚でクリーミーな現代技術に感謝しつつ、菓子をひとつまみする。

 眼前の少年は貪るように菓子を平らげていき、終いには顔をリスのように膨らませていた。かわいい。


「おいひいでふ~」


「わかったけど、ほっぺに付いてるよ」


 頬についた砂糖を指で掬い、自分の口へと運ぶ。きょとんと首を傾げる姿に胸撃たれそうだ。あどけない仕草に妙な新鮮味を覚える。

 攫うように菓子を食べ尽くす茶柱を一瞥し、紅茶を一仰ぎする。そんなに急がなくても逃げないのに、頬杖をついて、ため息混じりに微笑する。

 何気ない日常が愛おしい。永らく忘れてしまった感情が蘇えるようだ。ありふれた時間という概念が、自身に夢のような錯覚をおぼえさせる。

 茶柱に視線を移すと、相変わらず黙々と菓子を頬張りながら教材を一枚、また一枚と捲る。


「こら、食事中は本を読まないっ」


「ええ~、でも先輩からもらったこれ、わかりやすく解説が書いてて、とっても見やすいですよ。先輩の勉強熱心さが良く伝わります」


 熱心なのはどちらか、と心の中で反論しながら手許のカップを啜る。


「もう、そんなにしなくても本は逃げないよ……ねえ、茶柱くん」


 小豆の群青色の瞳がまっすぐ茶柱へと向けられる。


「教えて欲しいの。なんで学校に……授業にでないの? 勉強が嫌いなわけでもなさそうだし、特に重い病気も持ってないよね」


 茶柱を指導していく上で、彼のずば抜けた記憶力と思考力には目を見張るものがあった。

 勉強を進んで取り組む積極性も、小豆に直接頼んできたことから悟られる。保健室登校という特殊な環境は、よほど理由が無い限り受け入れられない。最初は、ただ彼が人を寄せ付けない性分なのかと思った。だが彼と過すに連れ、それも間違いだということに気付いた。

 三度目のカモミールティを表情も変えずに飲みながら、私は彼の返答を待つ。

 茶柱は視線を伏せ、ゆっくりと椅子に腰を預けた。


「うちって貧乏なんですよね、シャレにならないくらいに」


「え、それって―――」


「奨学金制度は無理です。返すあてなんかないし、―――それに」


 次に彼が吐いた言葉を、私はひどく後悔した。


「それに、そもそもお金を出してくれるがいないんで」


 返す言葉が見つからなかった。軽はずみに聞いたつもりは断じてないが、それでも小豆の良心は深く抉られた。


「ああ、気にしないでください。今は家計も安定して、こうして勉強する余裕が出来ましたし……だから、先輩が気にするほどのことではないです」


 そんな心情を伺ってか、茶柱は微苦笑を浮かべる。儚げな笑顔だった。口角は上がっているのに、瞳はどこか虚ろで、弱々しげに見えた。


「まあ、その……母の死んだときは苦労しましたけど……」


 どこか嘲笑めいた声で、吐き捨てたその言葉が、小豆の耳に滴る。


「……どんな、おかあ、さん……だったの?」


 聞いてはいけない。そうわかっていても、聞かずにはいられなかった。彼は小豆から視線を逸らし、やがて、短い吐息が空を切った。

 優しい人でした―――と、少年は語る。

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