第4話 『至高のアリス』

 秋晴れが気持ちよくなってきた季節、私は文化祭の資料整理で職員室を訪れていた。うちのクラスは演劇をする予定で、わたしはその脚本を担当している。もともと本を読むのが好きだったし、舞台に出るのは気が引けたので、その話を持ちかけられたときは喜んで引き受けた。

 高校最後と相まってか、クラスの志気は高く、皆真剣に取り組んでいる。普段話さない同級生と接するのは緊張する。脚本という影の大役は、いろいろと相談を持ちかけられる事が多い。こういった雑用も含めて。

 とはいっても、もとの原作を演劇時間に会わせて調整する程度の仕事量なので、やることは少ない。ほかに委員会もやっていないわたしは、自然と空き時間が増えていく一方だ。

 教師に指示された紙束を両手で持ち上げ、教室を目指す。窓の外はすっかり紅く染まっていて、開いた隙間から冷たい風が肌を撫でる。

 購買機に『あったかぁい』は実装されていただろうかと、乏しい記憶で思案しながら廊下を歩く。

 見慣れた扉が目に入った。通り過ぎてしまおうか迷ったけど結局、止まってしまう。


「……」


 保健室。普段訪れることのなかったそこで、後輩と語らった日のことが、遠い昔のことのように感じられる。

 今日も彼はここで絵を描いている。扉を開けば、その純情な眼差しで癒してくれるだろう。

 ――いや、そんなはずはない。

 なぜなら私は、彼の過去を知ってしまったあの日、茶柱を裏ぎったのだから。

 唇をなぞり、あの夜の余韻を思いだす。魅惑的な接吻は、どこまでも愛おしく艶がかかって気持ちがいい。まるで割れたビー玉を直す子どものように、みえない焦燥に駆られる。

 あの日以来、私たちはまともに会話をしなくなった。彼が私を避けるのが、寂しくて仕方がない。


「……っ」


 なにもできない自分がいじらしい。

 扉越しに少年の姿を垣間見て、下唇を噛む。その瞳を、その姿を、私は知っていたはずなのに。あえて傷付けた。なのに。どうしてこんなにも、なにも感じないんだろう。

 そろそろ返らないとクラスのみんなが心配してしまう。そう自分に言い聞かせ、教室を目指そうとした。


 ――あなたは結局、逃げるんですね。


 全身が寒気立つ。反射的に振り向こうとした。だが悪風がそれを邪魔して、両の手の紙を舞い上げる。

 振り向いた時にはもう、人影はその声とともに紙で塗りつぶされてしまった。扉は閉まっている。


「小豆―ッ」


 快活な声が少女の肩にかかる。だが彼女にそれは聞こえない。

 あの見透かしたような声が、小豆の脊髄まで延々と胸に響いていた。


「あんたなにやってんの?」


 近寄ってきた親友の梨花が、怪訝そうにこちらを窺う。床に散り張る資料の残骸に目もくれないまま、小豆はずっと影のいた場所を眺めていた。


「――っ、う、ううん。なんでも……ただちょっと風で飛んじゃっただけだよ」


 苦虫をかみ殺しながら、必死で笑顔を作る。


「……っそ、じゃあ私も手伝うわ」


「ありがとう、梨花りか


 こういう時の親友の潔さに内心感謝しながら、紙を一枚一枚拾い上げる。


「良いってことよ、そんじゃ、行きましょ。ほらちゃっちゃと歩く!」


 親友の助けに見舞われて、私は教室へと足を運んだ。


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