0ー2
車が止まった場所は県立病院。雨のなか傘も指さずに疾駆した私は、叩き腰で自動ドアをすり抜けると、受付を無視して走り抜けた。看護師たちが不審げに後を追ってくるが、秘書を身代わりにしてやり過ごす。
白い。どこまでも白い空間に頭がおかしくなりそうだった。窮屈な通路の角を何度も廻って駆ける。
しかし、慣れない場所のせいか何処をいってもあの子のいる病室へは辿りつけない。さっきほどから同じ路を繰り返しているような錯覚さえ感じた。
行き場のない焦りと迷路に吐き気を催しながら、壁伝いに息を整える。嫌な汗が毛穴から抜け落ち、オーダースーツがべと付く。
消灯時間の過ぎ去った天井は薄暗く、辛うじて非常用の蛍光灯が見える程度だ。泥沼に脚を突っ込んだまま、ずるずると脚を退きづる。
男の思考は、一貫してこうだ。
なぜ、と。
なぜ、こんなことが。なぜ、君が。なぜなぜなぜ――?
私はまた失ってしまうのか。また何もできないのか。
そんなことを延々と繰り返しながら、非力な脚を前に出す。
デタラメな動きが通路に湾響する。何度か看護士の声が掛かるが、いまの私にそれを聞き入れる余裕はなかった。
ようやっといったところで、視界が奥行きを見いだす。
紅朱と照り続ける『手術中』の文字が男の心臓を膨らませる。息切れに膝小僧を抱え、汗が床に垂れる。
あの最奥には我がロリータが眠り、その命の灯火が微弱に消え入りそうなのだ。
固く閉ざされた羅生の門をまえに怯む私の耳に、女の掠れ声が届いた。
見やると、廊下の片隅にある長椅子に、顔を両手で覆い隠す人影がある。
「――杏菜」
呼び慣れた妻の名前が零れ出て、彼女は顔を上げた。失光の目が私を見据えて、大きく開かれる。眉をしばたたかせ、口は想うように動いていない。
ずっと泣いていたのか、その目元は朱く腫れ上がっていた。
「――あ、あの子は……?」
どう声を掛けて良いのか解らなかった。冷め切った手で、背中を撫でられたかのように、ぞくっと鳥肌が立つ。
彼女は何も応えなかった。口をびくつかせ、開閉している。引きつった顔に表情はなく、またすぐに顔を疼くめてしまった。
仕方なく隣に腰を下ろし、天井を仰ぐ。真っ暗闇の視界には、自身の心の鏡面世界。こんなことになってしまったのは、いったいどうしてなのだろう。
見上げた空は硬い板の上、ぐったりと力が抜けそうだ。
その時、ブレザーに入れておいた携帯が鳴った。秘書だろうと思いつつ、浮き出た応答画面をタップする。
「――あなたの所為よ」
電話越しに聞こえたのは、けれど予想とは全く別のものだった。
ヒステリックな叫びを押し殺して呟かれたそれに、本能的な恐怖が駆けづる。肩の力が抜け、電話がごとりっと零れ落ちた。
瞬間、胸ぐらを掴まれた。驚異的な力で壁に頭部を殴打し、首がしまる。
「あなたの所為よッ!」
先ほど全く同じ台詞が、こんどは肉声で吐き捨てられた。
妻の、彼女の冷酷なまでの嘆きが目の粘膜をも震わす勢いで放たれる。しとやかな長い髪を雑然に乱して、キツく結んだ目で私を睨みつける。
彼女がこんな表情をするのを生まれて初めて目にした。そのことにまず驚愕した。だから、投げ飛ばされた後に感じたのは、ただ疑問だった。
背中がじりじりと痛みを感じ、床に肺を叩きつけて、声にならない叫びをあげる。
妻の激昂は尚も治まらなかった。
「あなたの、あなたのせいよォッッ! ねぇ、どうして?……、どうしてはあjぅきgああ!?」
馬乗りの状態で、妻の肩が大きく振るわれる。首が跳ね飛ぶほどの威力の拳が顔面を抉り、見かねた看護師たちが止めに入った。
やっとのことで治まった激情は、しかしいまも私を捉えている。
「ぜったいにゆるさない……コロす、殺してヤる……」
最後には涙を漏らしながら、彼女はそう吐き捨てる。
看護師のひとりが私に駆け寄ってきたが、遠慮した。
閉ざされた世界で医師たちに身を委ねる見えない少女の紅灯がか細く弱っていく気がする。
「……帰って。ここは、あなたの来ていい場所じゃない……っ」
背中越しに放たれた彼女の嘆きは、男の疑問に答えることはなかった。
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