銀白と、乙女と、雨。

第0話 『君がいた』

 人を愛したことをこんなに悔やんだことはなかった。

 桜色に染まる木漏れ日が、今日も日常を鮮やかに彩る。使い古された教室は少し湿り気があってそのなかに妖艶な幼子を孕んでいる。

 窓から差し込んだ燐光がカーテンの薄いレースを柔和に揺らす。

 その真ん中に、迷い込んだアリスの淡い瞳が微笑んだ。

 白菫はくきんの乙女。幾つもの薄い色素を醸す艶やかな脚が丈の短いスカートからあふれ出す。

 銀髪の眠り眼。きつめのブレザーに身を縛る愛らしい華奢な輪郭に思わず声が漏れる。

 それが『オレ』の愛した少女だった。

 日本血統の血筋とは無縁の蠟人形染みた精巧な太股にフィットした漆黒のハイソックスが異界に咲く薔薇のように美しい。

『オレ』は呼吸するのも忘れ、茫然と彼女に見入っていた。

 上辺のために備え付けられた完璧な偽笑が崩れ落ちる。『オレ』だけに魅せるその笑顔がただただ愛おしかった。

 穏やかな陽の光に身を焦がれさせ、すやすやと眠るように窓の外を眺めている彼女はまるで幼げな子どもを彷彿とさせる。

 普段は誰よりも明るく無邪気な虚勢を張り、快活に生きる心の奥に寂しさを募らせていることも。そのせいで凍死するほどに愛に餓えていたことも『オレ』全部知っていた。

 日当たりの良い天気だった。夢だからだろうか。のどかな風が、モノクロの世界を色づかせる。

 彼女のいる場所は遠く、駆けていこうにも自信の吐息が少女にかかることはない。おそらく、永遠に近づくことは叶わないだろう。

 ジレンマの嵐が『オレ』を嘲る。かつて捨てた感情が巻き戻り、空っぽだったはずの心に熱が帯びる。

 堪えきれなくなった想いが、叫びとなって現れた。


「――すみれ」



 口から出た言葉が届く前に、夢は終わりを告げた。



 ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 いつの間にか眠り込んでしまった。仕事に熱中しすぎたのだろうか。寝不足がちな目は透明な渦を巻いていて、とぼとぼと流れ落ちる。それを振り払い、机上の目薬を落とす。

 柄でもなく年を感じるとともに、男は腰を上げた。軽く背を伸ばして、右腕にはめたデジタル時計を一瞥する。

 九月一日午後六時二十分。

 手許のカップに珈琲を注ぎ、もう一度椅子に腰掛ける。背もたれに身体を預け、深いため息をした。大げさに天井を仰ぎ、項垂れる。


「……」


 もう一度目を閉じればあの世界に還れるかもしれない。そう思った途端、激しい怒りが迸った。壁に頭を打付けて雑念を振り払う。無性にタバコが吸いたくなり、乱暴にビニールを破く。火であぶると、ほろ苦いカカオの煙がかつての未練を押し殺す。

 呆然と記憶に想いを馳せた。あれは、私の過ち。無力な少年が犯したあまりに罪深い過去。

 夢が記憶と同化する。結合した真実という果実は、苦い表皮を幾層にも折り重なって私を焦がす。

 人は過ちを犯す生き物だ。そう、男は豪語する。

 苦虫をかみ殺したような感触が口内に充満し、思わず咳き込んだ。胃液が逆流して、慌てて口を押さえる。唾液とともに痛みが走り、吐血した。掌にこびりつい血痕を胸ポケットのハンカチで拭き取り、ゴミ箱に投げ捨てる。

 ドーナツの穴みたいにぽっかりと抜かれた空虚な心は、日に日に私を衰弱させる。

 平穏な日々はオレのせいで灼け崩れ、私は一度全てを失った。

 背筋に悪寒が走る。麻薬に似た中毒症状。目に焼き付いた愚かな少年の偶像記。忘れれていたはずの甘い匂いが幻覚となって現れる。

 ―――美鶴。

 喋るな、耳を塞ぐ。頼むから寝ていろ。もうお前は、いない。

 視界に入り込んだ幻想は、かつて視た華奢な裸体。眠らせていたフィルムを巻き戻すように、意識が侵される。

 ―――ねえ、わたし……


「社長っ!」


 夢想に溺れそうになったその刹那、背後から聞こえた金力声のおかげで、私は現実へ引き剥がされた。

 室内にべつの誰かのにおいが、這入り込む。女郎花の繊維が上下に呼吸し、スーツ姿の秘書が汗だくで息を切らしていた。

 血相を抱えた彼女は口をぱくぱくと開閉しながら、ウィンドドアを押し開け、疲れぎみに膝小僧を抱えた。ノックもしないとは珍しいと驚きつつ、片手で静止を促す。


「――どうした、石桐」


 石桐と呼ばれた彼女は数秒要して息を整えると、動きにくいスーツで走ってきたのだろう。額には、いつものクールビューティーな顔立ちはなく、びりついた汗に埋もれていた。


「……し、社長――たいへ、ん……はあ、です――」


 まだうまく呂律の回らない舌を名一杯動かし、彼女は告げた。その表情には、明らかな不安と焦りが窺われる。


「……お嬢さまが――」


 そうして、私はそれを聴いた。

 目を見開くと同時に、床を蹴る。秘書の横を走り抜けて、部屋を後にする。彼女は慌てて後をついて来るが、会社を留守にするわけにはいかない。

 廊下を突っ走り、エレベーターに乗ったところで、彼女に目線で促し扉を閉めた。

 階数時が順に下がっていくなか、携帯を取り出して車を呼び出す。地下になったところでようやく扉が開き、足早に駆けると漆黒のリムジンが丁度エンジンを吹かして待っていた。後部座席に乗り込んで、運転手の爺さんに口早に行き先を伝える。オレの顔には明らかな動揺と苛立ち、そして焦りが募っていた。

 空は発達した積乱雲が爆発的な雨を引き起こし、暗がりの世界を色造ってまるで大粒の涙を流しているようだった。

 窓から見える灰色の景色に、いつから心は揺れなくなったのだったか。

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